第四章 池田照政(3)
天正十年の初夏────五月になると上様は、ご自身が出馬しての中国征伐を決めた。
とはいえ、安土から出ることがないだろう儂らにとってはあまり関係がなかった。
儂はいつのまにか蓮姫の護衛の長という役に任ぜられ、父も兄もそれを喜んでいた。
形の上では羽柴殿への仕官ではなく、上様が蓮姫に対して派遣したということになる。
安土では頻繁にお顔を見るからわかりにくいが、実は幸四郎殿はあまり表に出ることがない。その為、幸四郎殿との縁を求めるとしたら、まずは羽柴殿ご本人か羽柴殿の弟君である小一郎殿との縁を求めなければならなかった。
幸四郎殿と直接関わることができたのは我が池田だけだと父は満足していた。無駄飯くらいの次男に初めて利用価値ができたと言ったくらいだった。
「てる、ややのふみ」
蓮姫は嬉しそうにそれを見せにくる。
「はい」
幸四郎殿は、筆まめに蓮姫の下へ便りをつかわした。
料紙にもこだわり、ひらがなだけで書かれている。時折は絵も混じり、まだあまり字の読めぬ蓮姫が楽しめるように工夫もされていた。
「蓮姫もお書きになりますか?」
「ん」
目配せするとすぐに乳母の荻江殿が筆を取る。
「あいたい」
幼い姫はどこまでも素直だ。
「こんど、いつくる?」
「では、それもお伺いしましょう」
「……れんは、いいこにしてる」
荻江殿は、良い子にしていれば幸四郎殿が来てくれますよと言うので、蓮姫はそれを守っているのである。
何とも可愛らしく健気だ。
蓮姫は、その書状に「れん」と覚えたばかりの署名を入れる。
「七日もすればお返事が来るでしょう」
「ん」
蓮姫はこっくりとうなづいた。
だが、その返事が来ることは無かった。
◆◆◆◆◆◆◆
明智日向守様、ご謀反。
その第一報が安土に届いた時、信じる者はほとんどいなかった。
儂もまたその信じぬ者の一人だった。
だが、第二報、第三報が入るにつれ、やがてそれは事実と認識されざるをえなかった。
朝の四つを過ぎる頃には、城内は戦支度で騒がしくなった。
京で上様を討った明智殿が次に狙うのはこの安土のお城に違いなかったからだ。
「……照政殿、いかがしたらよろしいのでしょうか?」
荻江殿が不安げな顔で問う。蓮姫さまは無言だ。元々、あまりおしゃべりな姫ではない。
「他の皆様はいかがなさるのですか?」
「……留守居の蒲生様のお話によれば、この安土のお城は危険とのこと。お市さまをはじめ、皆様方は蒲生様の日野のお城に退去なさるようです」
二刻前に蒲生殿の嫡子である賦秀殿が隊を率いていらして、賢秀殿と共にまずお市さまの下へ参られた。
上様は奥の序列を特にお定めにならなかった。御正室さまはすでに亡く、嫡子と定められた信忠さまの御生母である生駒の方もすでに亡い。その為、上様の妹君であるお市さまが最上位であると蒲生殿は認識されたのだろう。
「羽柴のお家の方は何と?」
「それが……皆々様、あちらこちらを走り回っていて」
つかまらないのだと荻江殿は言う。
「……長浜からお迎えが来ないのであれば、我々も同道させていただくのが良いのではないかと思います。すぐにお支度を」
「はい。それはもう済んでおりますが」
連姫は既に打ち掛けではなく壺装束姿。侍女らも支度は揃っている。
「……準備が早いのですね?」
少しだけ不思議に思った。
「それは、若君がいつも……」
「幸四郎殿が、何と?」
「いつか上様の裏をかいて、長浜にご案内するご準備だとおっしゃって……」
何かを思い出したのか荻江殿はどこか周囲をはばかるような様子でくすりと笑った。
「もうずいぶん前に、前もって旅の道具や皆の分の旅装束をお届けくださっていたのです。そればかりではなく、糒やらももってきて……皆であまりおいしくないと言いながら食べたりしたのです」
まさか、こんな風に使うことになるとは……と荻江は目元を押さえた。
「お乳母さま、長浜のお城と連絡がつきました。……若君が今、こちらに向かっているとの事」
走りこんできたのは、長浜の商家の娘だという柚木という名の侍女だ。
「若君が?」
「はい。あと一刻もすればこちらに入るとのことです」
ほっとその場の全員に安堵が漏れる。
「……やや、くる?」
姫さまが不安げに荻江殿に問われる。
「はい。姫さまをお迎えにいらっしゃるそうです」
その言葉に姫様は小さく笑われた。
どこか異常な空気を感じてはいても、何が起こったのかまだよくわかっていないのかもしれなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
大広間は奇妙な静寂に包まれていた。
上座にお市様とその三人のお子様、そして、周囲に上様のご側室や御子方がそれぞれの乳母や侍女らと怯えた様子で座っている。
お市さまに対面する形で蒲生殿とその嫡子である賦秀殿が甲冑姿で座しておられた。
「……この城を捨てよと申すか」
「はい。我々にはこの城に籠城するほどの戦力はございませんゆえ……」
「我が日野の城に退去いたしまして、そこで皆様をお守りしたく存じます」
「そうか……」
お市様はうなづく。
「……失礼いたします。近江長浜城より羽柴信秀様ご到着にございます」
ざわりと広間の空気がざわめいた。
幸四郎殿は早駈けのままの狩装束だった。いつもの二人は従っていない。代わりに、甲冑姿の屈強な男たちが従っている。
「失礼致します」
お市様と蒲生殿に一礼する。
「蓮姫をお迎えに参じました。皆様は日野にお退きになられるとのこと。三百ほどおつけいたしますゆえ、すぐにお支度を」
「羽柴殿、そのようにすぐには……」
「既に明智は京を発したとも言います。すぐに安土を目指すことでしょう」
「では、日野も危ないのでは……」
どこからか声が漏れる。
「進路にある以上、絶対落ちぬとは申し上げられません。長浜においでいただいても構いませんが、長浜もまた同様に……いいえ、それ以上に敵の標的になるかと思います。蒲生殿と違い、羽柴の本隊はご存知の通り、現在、備中高松です。あるいは、日野の城よりも危険であるかもしれません」
淡々と告げる。
「そんな場所に蓮姫をお連れするおつもりか」
お市さまが険しい表情でおっしゃった。
それに答えたのは、蓮姫ご本人だった。
「……れんは、ややとまいる」
「蓮姫……」
蓮姫はお市さまににっこりと笑う。
「れんは、ややのながはまにいく」
その意味を蓮姫が理解していたとは思えない。ただ大好きな幸四郎殿と一緒にいたいだけだったのだと思う。
だが、それでもお市さまはそれ以上何もおっしゃられなかった。
「……蓮姫を頼みます」
「はい」
幸四郎殿をはじめとし、甲冑姿の男たちが深々と一礼した。
◆◆◆◆◆◆◆
「池田殿、ちょっと同席して下さい」
一刻後に出立すると定められて、にわかに城内は騒がしくなる。
招き入れられたのは取り次ぎに使うような小部屋だ。
そこで蒲生父子と向かい合った。
どうやら彼らはそこであわただしく情報を交換し合ったらしい。
「……ここな大屋左太夫が鉄砲五十を含めた兵三百で日野までお供します」
「うむ」
「大屋、おまえ達は日野へお送りの後、大津に退け。そこで草山の別働隊と合流。その後は草山隊の護衛に。指揮はおまえがとれ」
幸四郎殿はご自身の馬の鞭と大屋と名乗った男のものを交換する。
「かしこまりました」
大屋は恭しくそれをいただいた。羽柴の軍ではそれを指揮権の証としているのだろう。
「幸四郎殿はいかがなさるのか」
「供回りと共に船で大津に行き、大津から物資を集めつつ、本隊との合流を目指します」
「……は?」
賢秀殿はぽかんとなさった。
「蓮姫は……」
「乾門におります一隊が長浜にお連れし、お守りします。いざとなれば長浜を捨ててよいとも告げておりますし……。我らは寡兵なれど、上様の仇を討つことを忘れてはなりませぬ。恐れ多くも某にとっては上様は義父。父の仇も討てぬ婿では、上様に婿にした甲斐がないと謗られましょう。蓮姫とて父上の敵討ちともあれば是非もございますまい」
淡々とおっしゃる様子はまるで至極当たり前のことを話しているかのようだった。
「羽柴殿が引き返していらっしゃると?」
「ええ」
当たり前だという表情で幸四郎殿はうなづかれる。
「父にとっても上様の敵討ちにまさる大事はありますまい」
幸四郎殿は躊躇なくきっぱりと言い切った。儂は背筋がぞくりとした。
迷いのないその態度も、潔いそのたたずまいも、何もかもが快く感じられる。
「……我らは……」
賢秀殿のためらいがちな言葉を幸四郎殿は首を横に振って遮った。
賦秀の妻もまた、上様の姫だ。賦秀と幸四郎殿は相婿ということになる。
「お二方が参陣なされたら、皆様を守る者がいなくなります。皆様をお守りするのも大切なお役目。どうか、皆様をお願い致します」
「そうか……」
賢秀殿はどこかほっとしたような表情だった。逆に賦秀殿は、今にも参陣を願い出そうな様子である。
だが、蒲生家としてはこのよくわからぬ情勢の中では、あからさまに明智に敵対しかねるということなのだろうし、元からそう断られることを承知での提案であることは儂にすらわかる。
もしかしたら、これが智謀というものなのかもしれない。言い出したという事実があればどう転んでも悪いようにはならない。
(そう思うと儂は智謀で戦うというのは性に合わぬな)
いたずらに言葉を飾り、口先三寸で丸め込むような気がしてならない。
「……池田殿はどうされる?」
「え?」
「貴殿はどうされる?蓮姫と一緒に長浜に退かれるか?それとも我等と共に来られるか?」
「……お供つかまつります」
すんなり口から出た。
「池田殿は私の部下ではないでしょう。その言い方はおかしい」
くすくすと笑う。
「では、部下の端にお加え下さい」
「本当に?」
「はい」
わしはうなづいた。この若君ならば、不条理なことはなさらないと思った。
「俺の部下は危ないよ?」
「構いません」
この若君とならば、どんな危険にさらされてもいいと思った。
「ご家族は嫌がるかも」
「構いません」
そして、たとえそれで命を落とすことになっても後悔はしないだろう。
「わかった。じゃあ、行こう。照政」
まるで遊びに行こうと言うような顔でにっこり笑う。
「はい」
儂はうなづいた。
人に名を呼ばれたことがこんなにも嬉しかったことはなかった。