第四章 池田照政(1)
「蓮姫が結婚、ですか?」
「そうだ」
「……蓮姫はまだ赤子だと思いましたが……」
「赤子とまでは言わぬが、確かにまだ幼児だな」
「で、筑前の嫡男というのは幾つですか?」
「数え九つだったか……」
「余吉より一つ年下じゃないですか」
父上と兄上が話している。
弟達は乳母子と一緒に庭を駆け回り、ちゃんばらごっこに興じていた。長吉は十四、余吉は十になったばかり。どちらもまだまだ子供だ。
かくいう儂もまだ元服を済ませたばかりの若輩である。
「いや、だが、あの幸四郎殿の落ち着きぶりはとてもその年齢の子供とは思えぬ。しかも、あの姿のよさ、猿の子とは思えぬぞ」
父上は興奮を隠せぬ様子で話を続ける。
羽柴殿のご子息の諱は、上様から片諱をいただき、信秀といい、字名を幸四郎というらしい。
「ほんに涼やかな若武者ぶりでな。上様が大層御鍾愛だ」
「……お小姓になさったので?」
兄上がやや声の調子を下げた。上様にその手の趣味があることは有名だ。別にこれは珍しいことではない。
「いや。そのおつもりはないらしい」
我が息子と誰はばかることなく呼び、夕餉には必ず呼び出すそうだと父は羨望とも嫉妬ともつかぬ溜息をもらす。上様の乳兄弟であった父にしてみれば、武将として重んじられるのは嬉しいが、以前のようにお側近くに侍ることができないのが残念なのだろう。
「……長可殿が弟御から聞かれたそうだが、上様は随分と筑前の子を高く買っているらしくてな。ご自身で安土のお城を案内し、時間さえあれば何やら天守で話し込んでいるそうじゃ」
森長可殿は鬼武蔵の異名を持つ家中随一の若武者で我が姉の夫……父上ご自慢の婿殿だ。弟の乱殿と長丸殿は上様の小姓としてお側近くに仕えている。
「天守で……」
それは破格の厚遇だった。上様のお許しなく天守に上ることは禁ぜられている。その禁を破った小姓や女中がお役御免になり、親類縁者にもまたその罰が下されたほど。上様がご自身で天守にお招きになるのは功があった武将と客人くらいだ。
「さ……いえ、羽柴殿は、いかがなされているので?」
元々、羽柴殿の有能さを愛でること一方ならぬ上様である。これまではその出自が低いことを軽んじられてきたが、その御嫡子を上様が『我が息子』と呼ぶとあっては蔑んでばかりもいられないだろう。兄上はそれに気付いてか羽柴殿、と言葉を改める。
「さ……藤吉郎は播磨に戻った。幸四郎殿は明日にも長浜にお戻りになる」
「蓮姫さまは?」
蓮姫の乳母の荻江は父の従姉妹だ。夫は子が生まれる直前に戦死、生後三日で子供を失い、途方にくれていたところを蓮姫さまの乳母にと上様お声がかりで召し出されたという。
「荻江によれば、安土にしばらく留め起き、いま少し成長の後に長浜へというお話になったらしい。上様は、長浜とこの安土は船を使えばさほどの距離ではないゆえに、蓮姫の下にたびたび顔を出し、自分のところにご機嫌伺いにくるよう命じたそうだ」
おそらく、上様のお心の上で蓮姫はさほどの重きをおいていないだろう。上様が今夢中なのは幸四郎殿と呼ばれる羽柴殿の嫡子に違いない。長浜の城主となった幸四郎殿を呼び出す理由が蓮姫さまなのだ。
ふと気になって口を開いた。
「……蓮姫さまは幸四郎殿とどうなのですか?」
「仲睦まじいそうだ。あの気難しい姫様が幸四郎殿にはとても懐いておられて、幸四郎殿もまた蓮姫様を大切にすることこの上ないのだと……荻江はこれほどの良縁は他にあるまいと手離しで喜んでいる」
普段あまり口を開かない儂に、父と兄は少し驚いたようだったが答えてくれる。
良かった、と思った。周囲の思惑がどうであれ当人同士がうまくいっているのであれば他人が口出すことではない。
「……お相手が羽柴殿の御子であってもよいと荻江殿は?」
兄が問いを重ねる。
「蓮姫さまは、こういっては何だが忘れられていた姫さまだ。……羽柴の嫡子の正室と定められたことで、羽柴の家からは即座に召人が何人も送り込まれ、調度やお衣装なども運び込まれてきて、お淋しい暮らしが一転したという。荻江は手放しで喜んでいるよ」
食べるに不足こそしなかったかもしれないが、忘れられていたも同然の姫君であれば生活にはいろいろ不自由があったのだろう。蓮姫に比べれば、お市さまの三人の姫さまの方がよほど自由に暮らしていたはずだ。
「ついては、我が家からも下働きを何人かだすことにしようと思うのだが」
「それは良い」
兄上も手を叩く。
こうなってみると羽柴殿は家内随一の出世人だ。上様の幸四郎殿への肩入れから考えてもその地位はゆるぎないだろう。今のうちに近づくにこしたことはないのだが、これまで猿と馬鹿にしてきた手前、あからさまにすりよることはできない。
この事態に、諸大名それぞれ頭を悩ませているだろう。
(きっと、羽柴殿はそれをおもしろくご覧になっているだろう)
直接知っているわけではないが、何となくそんな気がする。
「荻江にはさっそく頼んでおいた」
「そうですね。……蓮姫さまにはお祝いに京の反物でも贈らせておきましょう」
我が池田の家は蓮姫さまの乳母をだしている家だ。蓮姫さまの御為に心配りをすることは不自然でも何でもない。────これまで、そんなことを一度もしたことがなかったとしても。ようは名目が立てばいいのだ。
「……幸四郎殿は上様のお種でないかとの噂もちらほらと聞きますが……」
「それはあるまい。それであったら、蓮姫を嫁がせるはずなどない」
だが、そんな噂になるほどの寵愛ぶりというわけだ。
「元服式はたった三日の準備のわりにはすごかったそうですね」
「婚礼もだ。日数がないにしてはよくやった。ま、藤吉郎だからな」
羽柴殿の口癖は「お任せください」だ。その言葉と共に彼はいつも不可能を可能にしてきた。商家との縁も深い羽柴殿だからこそできたことだろう。
「上様の引き出物はほんに素晴らしかったぞ」
幸四郎殿の元服式の引き出物の数々も素晴らしかったが、翌日の婚礼の引き出物もまた凄かったという。上様秘蔵の駿馬『野風』を下され、さらには数々の茶道具の名品を贈られ、あの『蘭奢待』の一片をも授け、蓮姫さまの化粧料として若狭一郡三万石をも与えられたという破格の厚遇に皆が言葉を失ったという。
「婚礼自体は、数え九つの少年と数え四つの幼児との結婚ゆえにさほどのこともなかったが、式の終わりに、白無垢を着せられた蓮姫さまがむずかってな。幸四郎殿の腕に抱きついて、あやされてお眠りになったのがほんに可愛らしゅうて列席者一同の笑みを誘ったんじゃ」
列席した者に対する返礼の品もまたなかなかふるっていた。
父が持って帰ってきたのは黒漆の器の中に梅の花模様の飴が詰められているものと美しい茶筒におさめられた煎茶。父はさほど興味がなかったのか、儂が欲しいと言ったらあっさりとくれた。
飴はほの甘酸っぱく、なかなかにうまい。あの羽柴筑前の返礼がたかが飴と茶、さすがの筑前もそこまで手が回らなかったかと父と兄は笑ったが、器も茶筒も大層美しく素晴らしいものに儂は思う。
黒漆の中に鮮やかな緋色とまっ白の飴が現われた時はその美しさに感心したし、茶筒は木目の模様が大変に美しい。このような品物をたった三日で準備できる羽柴殿に感心もした。
翌日、父に命じられて長浜に帰る幸四郎殿を見送る蓮姫さまの護衛に加わった。
蓮姫さまは幸四郎殿の腕に抱かれてご機嫌だ。
(……それほど大きくは無いが、鍛えているのだな)
蓮姫はまだお小さいが、それでもあの年齢の子供が抱いて歩くのはなかなか骨だろう。
「やや、こんどいつ?」
「そうですね……来月にでも。安土と長浜は船ですぐですから」
「ん」
ぎゅーっと抱き付く。
「文を書きますから」
「ふみ?」
「はい。荻江殿に読んでもらって下さい」
「ん」
(本当に懐いているのだな)
「……池田様、わざわざありがとうございます」
「あ、いや……蓮姫さまの護衛なだけで……」
「ええ。ありがとうございます。蓮姫、良かったですね。池田殿がいれば大丈夫ですよ」
「いけや?」
幼い子供はうまく舌が回らないらしい。
「池田照政殿です」
(……本当に似てない)
幸四郎殿は、羽柴殿にはまったく似ていなかった。こう言っては何だが、羽柴殿は小男だし、顔は猿に似ていて、頭も禿げ上がっている。
正直、武人には見えないし、どちらかというと貧相な容貌だ。だが、幸四郎殿は違う。
なるほど上様のお種を疑われるだけあった。その顔立ちは眉目秀麗といっていい。
「……てる?」
「そうですね」
「……いや、それはちょっと……」
「すいません、蓮姫はまだお小さいので舌が回らないから……」
幸四郎殿は、すいません、まだお小さいので我慢してくださいと小声で囁いた。
「……わかった」
内緒話をするような、どこかいたずらめいた表情に引き込まれて、気が付いたらうなづいていた。
(……こういうところは親子なのだな)
人誑しと言われる羽柴殿の息子なのだとあらためて納得できた。
(不思議な御子だ……)
儂は嫡子ではない。そのせいかわからないが、同じ上様の家臣の子供同士とはいえ、幸四郎殿より立場は下になる。そのことがすんなりと納得できた。
(もしかしたら、儂はこの方に仕えることになるのかもしれん……)
何とはなしにそう思った。
それはあるいは予感だったのかもしれない。