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夢のまた夢  作者: 雛/汐邑雛
第二部
20/25

第三章 日向守光秀(1)

 弥勒丸殿という羽柴殿のご子息と別れたあとも、上様は大層上機嫌だった。


「あれはいいな。うん、実に良い。そうは思わぬか?日向」


 珍しくうっすらと笑みすら浮かべておられる。


「……羽柴殿のご子息のことでございますか?」

「もう、わしの息子だ。蓮の婿じゃからな」


 上さまは笑いながら反論なさった。

 癇性な上様のこんなにも機嫌のよい様子は久しぶりのことだった。

 どこか不機嫌そうな様子でいるのが常だからだ。


「猿めが顔に似合わず、良い息子をもったものよ」


 その声はどこか羨望の響きを帯びて居る。いや、羨望していたのは上様だけではない。私もだ。この日向守光秀こそが誰よりも羽柴殿を羨んでいた。


(かつては子のない羽柴殿を憐れんですらいたのに……)

 

 私には息子がいない。そういうことになっている。

 妻が産んだのは姫ばかり四人。美しく可愛らしく育った姫たちに文句はない。

 世継ぎを得る為に側室をとれと言われた時、その為に妻と結婚したわけではないと拒否もした。

 だが、この時ほど息子が欲しいと思ったことはないだろう。


「いずれ、上様のお小姓になさるので?」


 半ば、意地の悪い気持ちを隠しながら問うた。

 上様が男色をお好みになることはよく知られている。そして、羽柴殿がまったくその気がなく、同時にほとんど理解がないこともわりとよく知られていた。身分低き生まれ故に理解できぬのだと嘲られながらも、羽柴殿はまったくもって男色に興味を持たなかった。

 何事にも如才なく上様に迎合なさる羽柴殿がほぼ唯一といっていいほどに理解を見せないのがこの一件だった。


「いや。あれは長浜の留守居だけでなく遠征軍の後方支援もしている。猿から取り上げれば、戦に支障が出よう」

「……後方支援……」

「ナリは子供だが、中身は一人前以上だ。留守の間の内政を一手に引き受け問題なくつとめておる、さらには足りなくなった遠征軍の兵糧や金の算段までして送り込んだとか」


 くつくつと上様はおかしげに笑う。


「内政……」

「細かいことはわしは知らぬが、民の評判はなかなかじゃ」


 どうやら上様はあの子供のことを既にしらべつくしていたらしい。思いつきで言い出したように見えて、そこには上様特有の計算が働いている。


「猿にあれだけ出来の良い息子ができるとはな……本当にわからんものだ」


 じくりと胸が痛む。

 なぜ痛みを覚えるのかわからない。


「そうだな、猿は中国だからあれには長浜の旧領をくれてやろう。長浜ならこの安土からも近い」

上様は楽しげに話を続ける。

「結婚の引き出物にはわしの秘蔵の茶道具をくれてやってもいい。あれはどんな茶をたてるかのう」


 上様はまるで新しい玩具を手に入れたかのように更に上機嫌になる。

 じくり、とまた胸が痛んだ。


「そういえば、日向、おたまと与一郎は仲良うしておるのか?」

「はい」


 二番目のお玉は上様のお指図で細川殿の嫡子である与一郎忠興殿の元に嫁いだ。ゆえに、上様は時折思い出したように問われる。

 だが、同じく上様のお指図で荒木殿のご長男の下に嫁いだ一番上の娘のことはお尋ねにならない。……その後、荒木殿の謀反により出戻り、今は甥の妻となりしあわせに暮らしている東子のことは上様の中ではなかったことにされているのだ。


 じくじくと痛む胸を抱えつつ、私は無言で上様の後に従った。





 その日の宴の席での上様の様子に居並ぶ諸将は、皆、首を捻っていた。

 近来まれにみる上機嫌だったからだ。


「何かおめでたいことでもあったのだろうか?」


 森殿が首をひねる。


「なぁに、上様が上機嫌であられるのは良きことぞ。できれば宴の間中、上機嫌でいていただきたいものだ」


 滝川殿が多分に願望をこめた言葉を口にする。

 その上機嫌の原因を知っているわしはうつうつと心楽しまない。

 チラリと横目で見た羽柴殿はいつもの愛嬌で座持ちをつとめているようだった。

 おどけたしぐさ、あからさまに思えるような褒め言葉、いつもならそれほど気にならないのに、今日はイラついてならない。私はなるべく見ないようにつとめる。


「……そういえば、羽柴殿、今回はご子息を連れてこられているそうですな」


 温厚な丹羽殿が、ふと思いついたように口を開いた。


「はい。……上様の仰せで伴って参ったのですが、まだお目通りは許されておりませんで……」


 心底困った顔で羽柴殿はため息をつく。


「丹羽さまから、上様にそれとなくお聞きしていただけませぬか?うちのおややがなんぞしでかしたとは思えぬのですが」


 何を言うか。しでかしたも何も、既に目通りなど済んでおるわ、と口に出してしまいそうになる。


(いまやそなたの息子は上様の一番のお気に入りだ。ご息女をいただき、一門に名を連ね、御領地を賜るばかりか茶道具まで与えられるのだぞ)


「そうだ、猿」


 頃はよし、とでもいうような表情で、上様が羽柴殿を呼ぶ。


「は、はい」


 羽柴殿は飛び上がり、慌てて向き直り、平伏した。

 座の内でも一際煌びやかな衣装……小男で貧弱な体にそれではまるでちんどん屋だ。しかも動作の一つ一つが大げさでこっけいだ。


「……ひとつ、所望のものがあるのだがの」


 来た、とわしは思う。


「おまかせくださいませ。上様の御所望なれば、いかなるものでもこの猿、献上つかまつりましょう」


 どん、と胸を叩く。

 この男は、ただ滑稽なだけの男ではない。これまで言ったことはすべて実現してきている。


(良き弟に恵まれ……)


 ひょうげた仕草やおどけた口調でその真価を軽く見られているが、その有能さは計り知れない。


(そしてまた、良き嫡子に恵まれ……)


 上様にあそこまで望まれるとは何という果報か。


「……では、そちの息子をくれ」

「かしこ……む、息子?おややをでございますか?」


 悲鳴にも似た声で聞き返す。

 上様が小姓に欲したと思ったのだろう。無論、誰もがそう思ったはずだ。


「そうじゃ」

「お、お、おややは、まだ10歳にもならず……」

「わかっているとも。勿論、おまえのたった一人の子だということもわかっておる」


 上様はにやにやと笑う。

 羽柴殿の表情は真っ赤になり、続いて真っ白になり、真っ青になった。上様が本気であることがわかったのだろう。

 今や座は静まり返っていた。

 上様がここまで言うということは単なる小姓ではないのかもしれないという推測をする者もいよう。更にすすんで、正式に御猶子に迎えるということかもしれぬと考える者もあるかもしれない。わしも上様のご内意を伺っていなければそう思っただろう。

 それをうらやましいと思うか、哀れと思うかは人それぞれだ。何しろ、羽柴殿には男も女もなく、ただ一人の御子なのだ。

 ずずっと羽柴殿が鼻をすすった。


「……わかり申した。我がただ一人の子ではございますが、上様の御所望とあらば」


 本気で泣きながら、羽柴殿は平伏する。

 誰かが息を呑んだ。


「ですが、上様、おややはまだ十歳足らず。身体もそれほど丈夫でなく、季節の変わり目にはいっつも熱を出します。どうぞ、どうぞ、無茶はさせんで下さいませ」

「わかっておる」

「学問や剣術もようしますが、何分、田舎者でございます。お心にそわぬ振る舞いあってもどうぞおとがめなきよう、平に、平に」


 子を思う父心なのだろう。羽柴殿は畳に頭をすりつける。


「それも、わかっておる」

「おややは……おややは、羽柴のただ一人の子でござりまする……どうぞ、末永うお慈しみ下さいますよう。この筑前、伏してお願い申し上げまする」


 それはもう悲痛な叫びに近い。

 上様は、苦笑なさった。


「わかった、わかった」


 下がれというように優美に扇を動かす。

 羽柴殿はとぼとぼと席に戻った。

 下を向いたまま顔をぬぐう。さすがの羽柴殿ももうおどける気にはならないのだろう。

 そして、誰もめでたいと言える空気ではなかった。


「……猿」

「はい」

「くれとは言うたが、わしは別におまえの手から奪うとは言うとらん」

「へ?」


 羽柴殿は涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげる。


「そなたのたった一人の跡取りを奪ったら、羽柴の家は立ち行かんだろうが」

「は、はいっ」


 くしゃくしゃの顔が輝いた。


「おややに蓮を嫁にやる」


 蓮といわれて、それがどの姫さまをさすのかすぐにわからないものも多かっただろう。

 だが、羽柴殿にはすぐにわかったらしい。


「……末姫さまをでございますか?」

「おう。どの娘でも……お市の子でもいいと言うたが、蓮がいいとおややが言うでな」

「……失礼ながら、上様はすでにおややと面識が?」

「偶然、会うてな。それで一目で気に入ったのよ」


 機嫌よく笑う。


「猿、あれはいい。ほんに良き子だ。……とんびが鷹を産んだの」

「はい。おややは、わしにはもったいない息子でございまして」


 羽柴殿は涙でぐしゃぐしゃな顔にわずかに笑みをもらす。


「そうだとも。……それでだ、猿。即刻、おややを元服させよ」

「はい?」

「別におかしくはないであろう。ナリはともかく、あれはすでに一人前じゃ。……三日後に元服。四日後に婚礼じゃ、いいな」

「……上様、さすがにそれでは準備が……加冠役も何も今からでは……」


 この世の悲劇一転し、喜びに傾いたのも束の間、再び難事を押し付けられる。


「加冠役ならわしが務めようぞ。名は、そうじゃな……我が名から一字、そなたから一字で信秀とするがいい。我が父と同じ名ぞ」


 座が無言のままざわめいた。誰もが驚愕しただろう。上様がここまでの厚遇を見せるとは誰も思わなかったに違いない。

 上様は上機嫌で尚も笑って続ける。


「元服の引き出物として金300枚、銀2000疋に加え、鬼切りの太刀をくれてやる。そして、近江長浜のそちの旧領はお弥々に授ける」


 羽柴殿も内々に国替えを言いつけられていたはずだった。

 だが、嫡子が旧領を相続するというのなら、羽柴の家の領地は一気に倍増する。


「はっ」


 羽柴殿は畳に頭を擦り付けた。

 ジクリと胃の腑が傷んだような気がした。

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