第一章 幸也(1)
夢を見る。
繰り返し、繰り返し見る夢はいつもどこか時代がかっている。
「……や、ゆきや、幸也……」
ゆらゆらと身体を揺らす手。
柔らかな香りに心が和らぐ。
(……栞の香りだ)
甘さを残しながらどこかすっきりとした香りは、栞の好んでいる香水だ。薄いピンクのボトルのサムライウーマン……学生時代、一番最初のバイト代で彼女にプレゼントした香りだった。
「……栞」
ゆっくりと目を開く。
覗き込む栞が笑みを浮かべる。
「もう、起きてよー。全然片付かないんだから」
「……ごめん」
苦笑して、そっとその頬に口付ける。
「……おはよう、栞」
「おはよう、幸也」
顔を見合わせて、もう一度、今度は唇に口付ける。
僕が大学を卒業し栞が高校を卒業した8年前に結婚した。早すぎる結婚だったが、家が隣同士でどちらの親も公認の恋人期間が長かった為、反対はまったくなかった。両家とも、親族らしい親族もいなかったせいもある。
栞が大学に進学し、次いで大学院にも進んだために2年前まで学生だったから、子供はまだいない。
そろそろ作ってもいいねと二人で話してはいたが、特別に努力しようとかそういうつもりはなかった。
7歳までの記憶がなく、施設から養子として引き取られて育ったものの、18歳の時にその養子先の両親を相次いで亡くした僕には、子供というのはピンとこなかったし、生まれてくる子供より栞の方がずっと大切だったからだ。
なかなか養子先の家に馴染めなかった僕が、養家の父と母に慣れ、打ち解けることができたのは栞のおかげだった。
小さな小さな栞は、どういうわけか一目で僕に懐いた。遅くに出来た一人娘を溺愛していた隣家の両親は、僕の父母に頼み込んで栞をよく預けにきたものだった。
それは成長してもずっと変わらず、僕はいつも栞と一緒だった。
幼い頃の記憶のない僕はいつもどこかぼんやりした子供で、ここにいる自分を信じきれていなかったけれど、栞がいれば不思議とそんな気持ちにはならなかった。
栞は僕とこの世界を結ぶ絆だった。
僕は自分が異物であるかのような……この世界に馴染まないもののような気がしていたけれど、栞さえいれば普通に暮らしていられたのだ。
「……また、夢見たの?」
「うん。……どうして?」
「何かぼーっとした顔してるから」
「……夫婦喧嘩してたよ……浮気したって言って」
それだけで栞にはすべて通じる。
「……また?」
「そ、また」
「懲りないねぇ」
「……そうだね」
栞はくすくすとおかしげに笑った。僕はその屈託のない笑顔がまぶしくて目を細める。
「……夢の中に、私は出てない?」
「今のところはいないみたいだ」
「残念。……夢の中でも幸也のそばにいたいのに」
「僕もいて欲しいよ」
栞がいたらすぐにわかるだろうと思う。例え、どんな姿をしていても。
「じゃあ、登場したら教えてね」
「勿論」
いつも僕が見る夢は、僕らの間のちょっとした話題だった。
同じ夢というわけではない。でも、どこか同じような色合いの夢で、舞台はいつも一緒だった。
僕は幼い武家の子供で両親がいた。
陽気で楽しい父としっかりものの母……温厚な叔父や、年上の遊び相手達……いつもどこか曖昧で、それでいて目覚めるとその感触が身体に残っているほど生々しかった。
「実は本当だったりして」
「そりゃあ、ありえないんじゃない?時代が違いすぎるし」
「えー、そこらへんはほら、生まれ変わりとか……」
「ない、ない」
「どうして?」
「だって、秀吉とねねの間には子供なんていなかったわけだし……」
笑ってしまうことに、夢の中で僕は豊臣……夢の中ではまだ羽柴と名乗っている秀吉とその妻であるねねの子供だった。
「知られてないだけで本当はいたかもしれないでしょ。秀吉とねねの子供ってところだけ抜けば、矛盾点はほとんどなかったし……もしほんとだったら……もしかしたら、生まれ変わりとかかも」
そう思うとどきどきするんだよねぇと栞は笑う。
「でもさ、例えばあの子の存在が本当だったとして……今、記録に残っていないっていうことは、早くに死んだのかもしれないよ。もしくは、何かのドラマとかを見てそれが記憶に残っているのかも」
「調べた限り秀吉とねねに実子がいたっていう設定のドラマや映画ってないんだよ。……早死説はありそうだけど……」
「もしくは、僕の空想かも」
笑って言う。
「それこそありえないよ。……幸也、超現実主義者だもん!そんな空想できるはずないって」
「ひどいな、栞。僕だって空想くらいするよ」
夢の話を僕のただの空想や妄想だと笑い飛ばさないのは栞だけだ。
もしかしたら、僕の失われた幼少時の記憶を取り戻す手がかりになるかもしれないと、二人で僕の夢を詳しく検証したこともある。
……記憶のないことは、僕のコンプレックスの一つだった。
空白の記憶……どんなに幸福の中にあってもそれがまるで刺のように突き刺さっていた。
それが気にならなくなったのは、栞と結婚してからだ。記憶などなくとも栞は僕を愛してくれているのだという自信が持ててからは、我ながら現金なことにまったくどうでもよくなった。
当時の副産物として、僕と栞は異様に戦国時代に詳しい。
栞の父である僕の恩師、上月教授の趣味が時代劇鑑賞であり、上月家には膨大なビデオコレクションと膨大な資料・小説コレクションがあって調べるのに不自由しなかったせいもある。
家紋をみればどこのものかすぐにわかるし、主だった家系図や系譜はすぐに頭に浮かぶ。年表だってかなり細かく覚えている。まあ、小説などのフィクションも混じっているし、後世に書かれているものだから正確だとは言い切れないものもあるだろうけれど。
「いいの。私は生まれ変わりに1票」
「……生まれ変わりなんて信じるの?」
「また幸也に会えるなら信じる」
「栞……」
「これだけ幸也のことが大好きなんだもん。きっと何回生まれ変わっても私は幸也と出会うから」
真面目な顔で栞が言う。
「……そうだね」
心がふわりと温かくなる。栞はいつも僕を救ってくれる。
「最初に会った時、やっと会えたって思ったの。きっと幸也を待ってたの。……幸也のあざを見た時に、なんでかな……間違いないって思ったの」
僕の肩には変な形のあざがある。瓢箪の形にも見えるそれは普段はシャツの下でわからない。どうやら最初からあったらしく、記憶喪失の僕の身元を照会するための記録にも載っていた。
「目印だったのかな」
「……そうかも」
「じゃあ、栞の目印のそのあざだね」
そっと栞の手をとる。
左手首、普段は時計で隠れているそのあざは花の形をしている。
「次に生まれ変わっても、僕とまた結婚してくれる?」
そっと僕はそのあざに唇をよせる。
「勿論。……ちゃんと見つけてね」
こくりと栞がうなづいた。
「うん」
僕はぎゅうっと栞を抱きしめた。
他愛のない約束だった。
生まれ変わりとか、魂とかそういうものを信じているかと聞かれたら、たぶん僕は信じていなかった。
僕が信じていたのは栞で、栞が信じているものだから僕は信じていた。
世界中のすべての人が嘘だと言っても、僕は栞の言葉を信じるだろう。