第一章 信長
笑い声がしていた。
いつもひっそりとしている一角に子供たちの笑い声が響いている。
「……上さま?」
思わず足を止めた。お乱が怪訝そうな顔をしている。
「……あそこは誰の部屋であったか?」
「末姫さまにございます」
「………蓮か?」
「はい」
蓮の母親は京の貧乏公家の娘だった。寺に参詣していたのをわしが見初め、連れ帰り側女にした。
ひっそりと物静かな女で、傍にいると不思議と心が休まった。蓮を生んでさほどたたずに亡くなった時は何かがぽっかりと抜け落ちた気がしたものだ。
(変わった女子であった……)
いなくなってまださほどで経っていないような気もするが、ずいぶん前に亡くしたような気もする。
「あれはいくつになった?」
「数え三つにございます」
数え三つといえば、まだやっと歩き始めたばかりの幼児だ。
「そうか……」
蓮の乳母にはわしの乳母子である池田の縁者をつけてやったから不自由はなかろうが、気が利く者共ではない。
なにやら妙に気になって足を向ける。
開け放した室内には歌留多が広げられていた。
(新年らしいことよの……)
「……上様」
乳母の荻江がわしの姿を見て慌てて頭を下げる。
それにならい、室内にいた子供たちが皆、平伏した。
きょとんとしているのは蓮だけだ。
「……とと」
おぼつかない足取りで寄ってくる。ひょいと抱き上げた。
「元気にしておったか」
「げんき」
まだ幼い蓮は足取り以上に言葉がたどたどしい。
この子はわしに似ていて気難しくなかなか人には懐かないのだが、随分と機嫌よく遊んでいたらしい。
わしは平伏している子供たちに目をやる。
装束はすっきりと品が良い色の組み合わせでまとめている。
正月であること。そして、この安土への伺候の為にあつらえたのだろうそれはまだ真新しくぱりっとしている。
(さほど華美なものではないが……いや)
わしは思わずにやりとした。よく見れば、それぞれの小袖は同色の地にほんのわずかに色を変えた糸で刺繍が施されている。どれも正月の礼服らしい吉祥模様。それぞれが腰に差した小太刀も実用の拵えではあるが、金糸銀糸の下げ緒を使い、礼服の調和を乱さない。地味な装いの中にもどこか歌舞いた趣が伺える。
「……面をあげよ。そなたらは?」
「羽柴筑前が一子、弥勒丸と申します。姫様の御無聊をお慰めするために歌留多をお持ちしてご一緒させていただいておりました。これは、小姓の竹中吉助と黒田松千代にございます」
「……猿の?」
わしは驚いた。本気で驚いた。
目の前の子供はどう見てもあの猿風情の子とは思えぬ品のよさがある。この装束にしてもあの金糸銀糸できらきらしていれば美々しいと思っている猿とは一味も二味も違う趣向だ。
だからといって、おねが生んだ子が猿以外の子であるとは欠片も考えられないのだが。
「……これは?」
畳の上に広げられている美しい花歌留多に目を留めた。金彩、銀彩をふんだんに使った非常に精緻なもので、とても美しい。
「どこぞで求めたものだ?」
このように美しいものであれば、わしも一揃え求めても良いと考えた。
「……それは……」
猿の息子は頬を染める。
「利休か?それとも、津田か?」
猿の懇意な商人の名をあげる。
「いえ、その……元になる札を作ったのはここな二人で、絵と字は私が……」
「……そなたが作ったと申すか……」
「はい」
小僧はうなづく。
思わずわしはその手をとった。
それなりの修練をしているのだろう。その小さな手には刀たこができている。
「……従姉妹達が歌留多が好きなのですが、なかなか手に入らないので……」
歌は古今の和歌からとりました、と恥ずかしげに笑う。
その笑みが良かった。
わしに対する敬意を保ちながら、物怖じするでなく、媚びるでもない。
「それで、そなたが作ったか……」
「はい。従姉妹たちはまだ漢字もあまり読めませんし……子供用に作られた歌留多は絵も稚拙で私のほうがマシだったので……」
マシどころか、この腕前ならこのまま精進すればどれほどの絵師になるだろうかと思わせる。書もかなり巧みだ。子供とは思えぬ良い字を書く。猿なんぞは間違いだらけのへったくそな字だが、この子供の文字はのびやかだ。実にいい手蹟をしている。
「ふむ」
「……とと、あしょぼ」
腕の中の蓮は退屈したのか、手足をばたつかせる。
「わしは仕事じゃ。これらに遊んでもらえ」
床に下ろすと、蓮はまっすぐと弥勒丸にかけより、足をもつれさせる。弥勒丸はそれをふわりと抱きとめた。ごく自然な動作だった。
「やや」
「はい、姫」
蓮はぎゅっとくっつくと甘えるようにしてその胸に顔をうずめる。
見目の良い子等がこうして一緒にいるのは目に楽しいものがある。
「……懐いておるようじゃのう。どこで知り合った?」
「先頃……散歩をなさっていた際にお目にかかりました」
「ほう……もう、天守にはのぼったか?」
「はい。元日に拝見させていただきました」
「どう思った?」
「美しく、たくさんの工夫のなされた城と思いました。天守の威容もそうですが、あの釣り舞台は本当に素晴らしく圧倒されました」
「そうか」
わしは機嫌が良くなった。この小僧が本当に心底感心しているのがよくわかったからだ。
「できれば夜明け……日ののぼる時間に見てみたいと思いました」
「……なぜじゃ?」
わしはどきりとする。
「柱や襖絵に飾られた玉石が光を反射するさまはさぞ美しいだろうと思いまして」
「……なぜ、夜明け、と?」
「あの位置では日中はほとんど陽があたらないよう思いました」
「そうじゃ。あとは?」
「……夜明けもさることながら、夜の灯火の中の趣もまた拝見したく思いました。灯火の明かりにほのかにきらめく様もさぞ美しいかと」
「そうじゃ」
「その、うまく申し上げることができませんが……あの空間には「時間」と「世界」とがぎゅっと詰め込まれているように思いました」
「然り」
わしは我が意を得たりとうなづく。
小僧の腕の中の蓮は眠くなったのかこくりこくりと舟をこいでいる。乳母に目配せしてそれを腕からおろさせた。
「着いて参れ」
「はい」
子供達は乱の後ろについてくる。
小僧の挙措はきびきびしていながら、優雅でさえある。
(……欲しい)
ふと、そう思った。
蒲生の鶴千代をを見たときもそうだったが、才気がきらめく子供を見るのは面白いものだし、それが成長するさまを見るのも心楽しいものだ。
嫡男の信忠はすでに成人しているが、おそらく、この小僧には及ばないだろう。まだ目通りしてそれほど時間がたったわけではないがそれがわかる。
これは逸材だ。
(なぜにこれがサルの子なのだ)
口惜しく思う。だが、いつだったか対面した浜松の小僧のようなイラつきを覚えることはない。小僧に驕ったところがまったくないせいだろう。この子供は見下すということをしない。それは、蓮やその乳母らに対する態度を見ても明白だ。
わしの子だからと取り入る気はまったくなく、ただ本当に蓮を遊んでやっていただけなのだろう。
だからこそ、わしは小僧に自慢の城を案内してやることにした。
わしの姿が目に入ると皆が膝をつく。後ろをつく乱は慣れているが、小僧どもはどうかと振り返ると、ごく自然な風で落ち着いているようだった。竹中と黒田の子供も、主がそれだからしてたいして緊張している様子でもない。
(そうでなくてはな……)
わしは心ひそかに満足する。
この子供を案内するのはわしにとっても至極楽しい時間だった。
城の豪奢さに気おされることなく、疑問に思えば的確に問う。この的確に問うということはなかなか難しいことだ。何がわからないかをわかっていなければならないからだ。
何よりも、子供らしくいちいち素直に喜び、感動しているのがいい。そして、感謝の気持ちを忘れない。わしは、小賢しい子供は大嫌いだが、こういう子供は気分がいい。
また、人々に対する態度も見事だ。
礼儀は忘れぬが、かといってがちがちに縛られているでもない。媚びも卑屈さもなく、平伏している人々にも必ず目礼をしてゆく。
子供らに南蛮の菓子などを馳走しているところに邪魔が入った。まったく最近のわしにはのんびりする暇がない。
「……ご歓談中、失礼致します」
入ってきたのは金柑頭だった。
「なんじゃ、日向」
「お忙しいところを申し訳ございませぬ」
なにやら邪魔された気がしてわしはやや不快感を覚える。
子らは乱にならい、後ろにさがって邪魔にならないように控える。その奥ゆかしさもまたいい。
「至急の決裁を仰ぎたく……」
持ってきたのは、丹波からの早馬の書……中身といえば、益体もない。またぞろ泣き言と、繰言ばかりだ。性格なのだろう。猿と違い、金柑頭はいちいち細かく報告をあげてきたり、こんなどうでもいいような書状を見せに来るのがこうるさく感じられる。
「……この程度のこと、おまえが判断せよ」
「申し訳ございませぬ」
「まあ、良い。日向よ、これが誰の子かわかるか?」
わしは目線で小僧をさししめした。
「……いえ。真に申し訳なきことながら……」
「なんじゃ。少しは考えるフリくらいせい」
「はあ……」
「誰に似てると思う」
「似てると申しましても……その、もしや、上様のお身内で?」
つまらぬ男じゃ、と思う。真面目で堅苦しい。おそらく、わしがわざわざ案内しているのだから、身内なのではないかと想像したのだろう。
「違う。これは、猿めの……あの秀吉めの子じゃ」
「……は?羽柴殿の?」
「おうよ。そうだな、お弥々」
ようやっと名を思い出した。
あの親ばかの猿めは、酔うと二言目にはどんなに自分が『お弥々』に夢中かを惚気た。女好きのバカ猿だが、女よりも息子の方がよほど可愛いらしかった。
「…はい」
一瞬、驚いた顔をするものの、すぐに破顔する。それがまた可愛らしい。
確かに猿が夢中なのもわかる。ましてや、猿にとってはこれがただ一人の子供なのだからあの惚気ぶりもわかるというものだ。
「年はいくつだったかの?」
「この正月で9つになりました」
「9つ……」
金柑頭がつぶやいて目を見開く。
わしは普通のこの年齢の子供というものをよく知らないので何を驚いているのかはわからぬが、確かに並の子供ではなかろう。
「秀吉めは三日後には播磨に戻る予定だが、そちはどうするのじゃ?」
「父と別れ、長浜の留守居に戻ることになっております」
「ふむ」
わしは思案する。
この子供が欲しいという気持ちは、だんだんと大きくなるばかり。したが、猿にとればただ一人の世継ぎをわしが奪うわけにもゆかぬだろう。
「……そうじゃ、お弥々、そちにわしの娘をくれてやる」
「は?」
「それがいい、それが。そうじゃ、そうと決めたら、そなた、早く元服してしまえ」
「は?」
目を丸くしているのが楽しい。
「で、わしの娘はあと、ひーふー……確か、4人ほど残っておるか……ああ、年が上でもよければお市の娘でもよいが……どれにする?」
「いえ、あの、父に断りなしにそういったことを決めるのは……」
「バカ者。自分の嫁じゃ、自分で選ぶがよい。のう、光秀」
「は、はあ」
光秀など目を白黒させている。
この子供がどれを選ぶかわしは興味があった。
「とはいえ、会うたこともないでは選びようもあるまい。よし、今から座敷を案内……」
「失礼ながら……」
小僧は平伏する。
「なんじゃ」
「もし……もし、本当にお許しいただけるのでしたら、蓮姫さまを」
「……お蓮か?」
意外だった。
あれの生母はすでに亡く、後ろ盾はないに等しい。わしの娘といえど、娶る価値は他の娘たちに比べれば圧倒的に低い。何よりもまだ赤子だ。
「はい」
だが、小僧は真面目な顔でうなづく。
「なぜじゃ?母親の身分や後ろ盾を考えたら、園や香などの方がよかろうし、長浜は浅井の旧領。お市の娘たちのどれかを娶れば格段に領国経営はたやすくなろう」
そのくらいのことをこの子供が知らぬとは思わなかったし、計算できぬとも思わなかった。
「………とても、かわいらしいと思うので……」
小僧は真っ赤な顔で言う。
「なんじゃ、そなたお蓮に惚れたか」
こくりとうなづく。
「あの赤子にか?」
真っ赤な顔で再度うなづく。
何だかおかしかった。ひどくおかしくて、笑いがこぼれる。
「あれはまだ赤子じゃが……6歳違いもまあ、10年後なれば似合いの夫婦となろう。よし、わかった。お蓮をくれてやろう。猿には言うでないぞ。わしから言うのでな」
猿の驚く顔がみたかった。
「かしこまりました」
「お蓮をのう……あれのどこが良いのじゃ?」
「……名前を呼ばれたり、抱きつかれたりすると、どきどきします」
「それはどの女子でも同じじゃと思うぞ?」
「でも、見ているだけで微笑が浮かびますし、何でもしてあげたいと思うし、お怪我などさせたくないですし、あと、泣き顔もみたくないと思うんです……姫にはずっと幸せでいてほしいですし……もし、かなうのなら……本当にかなうのでしたら、私が幸せにしたいと思います」
小僧は、わしの目を見てきっぱりと言い切る。あの猿と同じ黒目がちの独特の瞳にまっすぐと見られると、なにやら引き込まれそうな気になる。
「幸せに、とな」
「はい」
強烈な自負というではない、ただ子供らしい真摯さで心からそう思っているようだった。まっすぐなその想いがほほえましく、そして好ましい。
「……お蓮もおまえに懐いておるしな……犬千代の嫡男に永をやったのじゃ、猿の子に蓮をやって悪いことはなかろうよ」
「ありがたき幸せ」
平伏する動作も大げさではなく、優雅でさえある。
(猿め、どうやってこんな良い子を育てたのやら……)
わしは新しく息子となったこの小僧に満足した。