おゆう
「姫、この者は、ゆう、と申します。本日から、姫さまのお側で御用を努めます」
上さまの御殿にお仕えするお女中の阿古さまがそう言って頭を下げる。
あたしも一緒に頭をさげた。
すごく緊張していたけれど、上座でお乳母さまに抱かれていたちいさな姫さまがその腕の中から抜け出てちょこちょこと近づいてこられるのを見たら、ほほえましくて頬がゆるんだ。
そして、姫さまは私のかたわらに座って、私の顔をじっとみた。
織田のお家は美男美女揃いというが、なるほどこの小さな姫さまもまるで雛人形のように愛らしい。
「……ゆう、だっこ」
小さな姫さまはにこっと笑って私に抱っこをねだられた。
それはもう可愛らしくて、その最初の笑顔であたしは完全にやられた。
「はい」
手を広げると、ぱふっとしがみついてこられる。
阿古さまやお乳母の荻江さまがあからさまにほっとした顔をした。
「……どうしたのですか?」
「いいえ。なんでもありません」
荻江さまはそう言ったが、真相はそれほど日をおかずしてわかった。私が仕えることになったこの姫さまは、実はたいそう気難しい方だったのだ。
私にしてみれば気難しいというほどではない。
ただ、姫さまは好き嫌いが激しいのだ。特に、人の好き嫌いが激しく、気に入らないお女中が襁褓をかえようとしただけで大泣きををするし、全身でいやいやをするのだという。
扱いにくいというほどではなく、懐いている女中や荻江さまがいればとてもおとなしい。
(そんなに心配されるほどでもないと思うけれど)
蓮姫さまにお仕えするようになってわかったのは、織田の御家が随分と普通の御家とは違うということだった。
今をときめく御家ということは最初から知っていたが、単純にそれだけの違いではないように思える。
奥向きにも他の御家よりも多くの人が出入りするせいで、姫さまはしょっちゅう泣いていた。
(でも、姫さまがお泣きになるのって、なんか普通と違うような……)
単に見た目やその雰囲気が怖い、とかではないのだ。
だって、それだったら、あの見た目だけならお節句飾りの鍾馗様より恐ろしいと言われる柴田様に泣かないはずがない。
(人を見ているんだと思う)
いつだったか、侍女仲間の琴さんにそう言ったら、まだほとんど赤さまのような姫さまにそれはないと笑われたけれど、私はそんなことはないと思うのだ。
たとえば姫さまがとても嫌がったお出入りの小間物商いの者は、間者まがいのことをしていたとしてひどい罰を受けたと聞いた。
姫さまが火がついたようにして泣く相手は、しばらくすると罰せられたり姿が見えなくなったりする。
(偶然かもしれないけれど、でも姫さまには何か嫌がる理由がちゃんとあるんだ)
誰にでも泣くわけではない。
泣く、というのはまだあんまり上手にお話ができない姫さまの強い自己主張なのだと思う。
(上さまの末姫さま……)
ただその事実だけをとらえれば随分幸せなお生まれだと思われるかもしれない。
でも実際にはそんなことはない。
だって、上様にはたくさんの御子がいるのだ。一人ひとりのお名前もちゃんと覚えてないらしいとも聞いた。
上様はそれほどお子に関心を持つ方ではない。
しかも、姫さまの母君はすでにお亡くなりになっている。そのため、確たる後ろ盾ももたず、この安土においてもさほど重んじられていない。消極的な放置、というところだろうか。
上様が忘れずにこの安土にお連れになり、奥御殿にちゃんと姫さまの部屋があったことを皆に驚かれるほどだったとも聞く。
(とはいえ、重んじられるも軽んじられるも、未だよちよち歩きのあかさまなご本人は気にしておられないわよね)
姫さまのお母上様は公家の娘で、一目で気に入った上様が攫うようにお連れになった姫君だったという。そして、上様のご寵愛をうけ、姫さまを産んで一月もせずにお亡くなりになられた。
そのため、上様がお手元に引き取られたそうだけれど、元々上様はそれほど子供に関心がない。女子であればなおさらだ。
姫さまがお生まれになった夜、上さまが京で滞在していたお邸では庭の蓮が満開だったそうで、姫さまは『蓮』という名を与えられた。
上さまはお子様に変わったお名前をおつけになるが、姫さまはかなりマシなお名前だと思う。
以降、姫さまのことはほとんど忘れられている。
「ゆう?」
考え事をしていたら、洗濯物を畳む手がとまっていたらしい。
姫さまがきょとんとした顔でのぞきこんでいた。
「姫さま……いかがなされました?」
姫さまは何でもないというようにふるふると首を横に振る。
つややかな髪がサラサラと揺れるのがとても可愛らしかった。
姫さまの侍女になって、悪口を言われたりするというのは、知られていなかったりまったく気にかけられていないよりも、マシなんじゃないかと思うようになった。
きらびやかな安土のお城の片隅でひっそりと暮らしている姫さまと私たちの暮らしは、忘れられているがゆえの静けさの中にある。
決して衣食に不自由することはないが、お寂しい暮らしではある。
(荻江様は、姫さまのお輿入れ先が決まればそんなこともなくなるとはおっしゃるけれど)
でも、何といっても姫さまはまだ数えで三つなのだ。
政略結婚は武家の娘のならいと言えど、数え三つでは早すぎるだろう。
それに、政略結婚にはつりあいだとか相性だとかそういったものはいっさい斟酌されない。
ご本人がお幸せになれるかどうかはバクチみたいなものだ。
(でも、いつそういうお話が来るかわからない)
人質代わりとしてなら何歳であっても問題ないし、それこそ、確たる後ろ盾のないうちの姫さまのような御子は殺されても問題ないだろうと思われてしまいそうだった。
◆◆◆◆◆
「居らっしゃいましたか?」
「いえ。座敷内にはどこにも」
「荻江さま、あちらの御殿の方には行っていないようです。端近の間にいた者たちが誰も通らなかったと」
荻江様の顔色が青白いものになる。
昼寝をなさっていたはずの姫様が、ほんの少し目を放した隙に忽然と姿を消してしまったのだからそれも当然だ。
「もしや、かどわかされてしまったのでしょうか?」
「いえ、上掛けの様子からいって、目が覚めて抜け出されたのだと思います」
姫様がかけていた上掛けは、すっぽりと小さな身体が抜けたままの形でのこされていたのだ。
だから、誰かに連れ出されたというよりは姫様がご自身で抜け出したとおもうほうが自然だった。
「もう一度、さがしてみましょう」
「はい」
皆でうなづきあう。
姫さまにお仕えしているのは、私と荻江さま、それから、琴さんと菊さんだ。
お末ならば他にも何人かいるが、主に姫様にお仕えしているのは私たちだけだ。表の御用係として、森寺様がおられる。
(でも、森寺様にお願いするわけには行かない。大事になってしまう)
大事になれば、私たちはただではすまない。
だから、その若君が姫様を抱き上げてつれてきたとき、あたしはまず安心して、それからものすごくびっくりした。
お乳母の荻江様もものすごく驚いていらっしゃったから、きっとこういう例は今までなかったのだと思う。
「あの、あちらの門の近くを歩いていらして、危なかったので……」
お昼寝から覚めた姫様はどうやら庭に出てしまったらしい。
「蓮さま」
荻江様が悲鳴のような声音でその名を呼んだけれど、姫様はぴくりとも動かなかった。
「泣いていたのですが、お抱きもうしあげたら眠ってしまったみたいで……」
若君がはにかんだ表情で告げる。
確かに若君の腕の中の姫様は安心しきってすやすやと眠っていた。
目元が赤いのは泣いていたからなのだろう。でも見たところ、怪我などもないようだった。
「どうしてこちらの姫さまだと?」
「どちらから来たのかお伺いしたら、泣きながらこちらを指差したので」
それでそのままつれてきてくださったのだと言う。
姫様が賜っている座敷は奥御殿の隅っこのほうで、すぐ近くに主に使用人たちが使う小さな門がある。姫さまは、どうやらそのあたりにまで歩いていってしまったらしい。
座敷から庭におりるには、まだ姫さま一人でのぼりおりするには危ない段もたくさんある。よく怪我もなく庭に下り、大人の足でならともかく、姫様のヨチヨチ歩きでよく何事もなくそちらのほうまで歩いていったものだと感心してしまう。
「あまり大事になっては困るでしょうし」
若君の配慮に私たちはとても感謝した。
「姫さまを保護していただき、ありがとうございました」
荻江さまが深く頭を下げる。
たとえ、姫様が普段は忘れ去られているとしても、何かあれば荻江さまはもちろんのこと私たちお仕えする女中一同全て厳罰に処せられるだろう。
もしかしたら、上様の留守中に城を出て遊興に興じたと罰せられた奥女中たちよりもひどい罰を与えられるかもしれなかった。
若君は誰にも言わずにそっと姫さまをつれてきて下さったので、姫様が一時的に行方知れずだったことは他には漏れていない。
「……いえ。何事もなくてよかったです」
若君は、少し困ったような……それでいて、どこかはにかんだような不思議な表情で首を横に振る。
年の頃は、十をいくつか過ぎたくらいか。御元服にはまだ少し早いと思われる年頃で、一目でどこぞの若君だとわかる身なりをしていた。
きっちりと火熨斗があてられた水干姿。萌黄に緑を重ねた地味な色目の装いだが、大変品がある。童水干ではないのは、大人用のものを仕立て直しているせいだろう。
今、この安土には、上様に拝謁の為の御家中の人々が続々と集まっておられるから、おそらくはその中のどなたかの御子息に違いない。お小姓が二人ついているところを見ると、かなりよい御家なのだろうと思える。
「こちらにお預かりいたします」
荻江様が伸ばした手に、若君はそっと大切そうに姫さまを渡す。
けれど、姫さまの小さな手が、若君の袖をしっかりと握っていた。
「……申し訳ございませぬ」
「いえ。……ああ、力をいれてほどいたら目が覚めてしまうかもしれない……」
荻江さまを手伝って、あたしがその小さな手をはずそうとしたら若君はそのままで、というように押しとどめた。
若君の腕に抱かれた姫さまは、すっかり安心しきって眠っていたけれど、元々が過敏な方なので確かに目覚めてしまう可能性は高かった。
若君は水干の組みひもをほどき、するりとお脱ぎになって、そのままそれを眠る姫様にふわりと掛ける。
ごくごく自然な、思いやりのあるなさりようだった。
「若様、お風邪を召します」
「大丈夫だ。すぐに屋敷に戻ろう」
小姓が案じる声をあげる。
まだまだ冷え込みが厳しい季節だ。ましてや、この安土のお城は湖に程近く、湖を渡る風は身を切るように冷たい。
「では」
若君は私たちに軽く会釈をした。恩着せがましいことをくどくど言うこともなく、当然のことをしただけというその風にあたしたちは感心する。
上さまのご息女というだけで媚を売ってくるような人間もいる中で、この若君の様子はとてもさわやかだ。
「若君、これはどちらにお返しすればよろしゅうございましょう?」
「ああ……大手門そばの羽柴筑前守の屋敷に」
「羽柴様のお身内でいらっしゃいますか?」
「はい」
若君はこくりとうなづいた。
羽柴様は元々は農民の子だとか、針売りだったとか噂される方だが、上様のご信頼の厚い重臣のお一人だ。
(お子様はいらっしゃったっけ?)
代々の重臣というわけではないので、ご家族のことはあまり知られていないように思う。
少なくとも、あたしは知らない。
「ねねさまはお元気でらっしゃいますでしょうか?」
荻江さまの言葉に若君は、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。長浜で健やかに暮らしております」
「荻江が会いたいと申していたとお伝えくださいませ」
「はい」
若君はしっかりとうなづき、一礼して踵を返した。
小姓の二人も主にならって一礼すると、足を速めて若君の後を追う。
「あの、ねねさまとおっしゃるのは?」
「羽柴さまのご正室です。今はおねさまとお呼びすることが多いようですが、娘の頃はねねさまと申し上げておりました。かつて、奥向きで共に市姫さまにお仕えしていた時期があるのです。……ほんの娘の時分の一時ですが」
「市姫さまと申しますと、浅井に嫁がれたお市さまですか?」
浅井の御家はもうなく、お市さまとその娘御たちもこの安土におられる。
「ええ。そのお市さまです。……ねねさまは親御さまの反対を押し切って、羽柴様の下に嫁入られ……ずっと御子もありませんでしたが、だいぶお年を重ねてから若君を設けられたと聞いておりました……」
荻江様が何かを懐かしむ表情をなさった。
「それが、いまの?」
「ええ。羽柴さまには、御子はねねさまの生んだ御嫡子お一人しかいないと聞いております」
荻江さまは、上さまのお乳母である大御乳さまの姪で、池田家の本家に近いお血筋の方だ。
あたしは、池田のおうちにお出入りさせていただいてきた津島の商家の生まれで、去年、両親を亡くし、店を継いだ叔母たちと折り合いが悪くて縁を辿ってこちらにご奉公に出ることになった。
(もう、あたしに帰る場所はない)
琴さんや菊さんは行儀見習いがてらの女中奉公だったけれど、あたしは違う。
あたしの居場所はもうここだけだと……あたしは、姫様に生涯お仕えするのだと心に決めていた。
そして、その瞬間をあたしは知らないけれど、これが姫さまと若君の初めての出会いだった。