第六章 小一郎秀長(1)
「おっとうー」
小さな影が近づいてくる。
「お弥々―っ」
兄者はこっけいなほど顔を笑み崩して両腕を広げる。弥々丸はその兄者の腕に勢いよく飛び込んだ。
知らぬ者は何事かと足を止め、よく知っている者は微笑を浮かべる。
「会いたかったぞ、おっとう。先の年の冬以来やな」
「そやなあ。どれ、また背が伸びたか?」
「そうか?松がぐんぐん伸びるで、わしとしては伸びている気がまったくせえへん」
な、吉、と傍らの吉助に言う。
「はい」
吉助はくすくすと笑って、こくりとうなづいた。
半兵衛殿の面影がありながらも、吉助には半兵衛殿にあった翳りがない。無邪気な表情を見せながらも、それだけではない思慮深さを感じさせる。
「どうれ、もっとよう顔をみせてくれ」
お弥々が可愛くて可愛くて仕方のない兄者は、お弥々を抱きしめて頬擦りし、その無事と成長を確認する。そばにおらなんでも……いや、そばにいないからこそ更に度を超す溺愛は、羽柴の家中ならば知らぬ者がない。
播磨の陣中でも、お弥々からの手紙をすべて御守りじゃと言うて胸元にしまっていたほど。
(とはいえ……)
かくいうわしも似たようなものだ。この聡明な甥が可愛くて仕方が無い。変に賢しいわけではなく、子供である面と大人びている面がうまく同居しているのだ。
弥々丸は、わしにもとても懐いてくれており、わしが留守の家のことも何くれとなく気をつかってくれている。女所帯では不都合もあろうと、この正月からは奥や姫は城の奥で預かってくれていたという。
「……吉助」
兄者は弥々丸をおろすと膝をつき、真面目な顔で吉助に向かった。
「はい」
吉助はきょとんとした瞳で見上げた。
それだけを見れば、父を失ったことを未だ知らぬのではないかと思えるほど。
だが、早馬でとうに知らせてあるし、そもそも、お弥々はわしらが語らぬ事も承知しているフシがある。おそらくは、野猿と呼ばれる者らの働きによるものだろう。
「半兵衛はようわしに仕えてくれた。……そなたもお弥々によう仕えてくれておる。いずれ、そなたが元服の暁には竹中の領をそなたに返そうぞ」
「はい。ありがとうございます」
にこっと吉助は笑う。
「菩提山の山奥なんかに引っ込むつもりかや?吉」
「えー、嫌ですよー、そんなの。だから、領地がもどってきたら弥々さまに献上しますね。それ」
そっから、僕に俸禄を下さい、と吉助は笑う。
わしと兄者は思わず顔を見合わせた。
同じことのように思えるかもしれないが、それはまったく違う。そして、それはなかなかに重大な示唆を含んでいるように思える。
「おう。俺もその方がいい」
「……や、弥々丸さま、儂は?儂は?」
既に背丈だけは大人並の松寿丸が泣きそうな顔で二人を見下ろしている。
「え、官兵衛殿、長生きしそうじゃん。だから、松もずっと一緒やろ。官兵衛殿はおっとうのところで働いて、おまえが俺のところで働く。これで、黒田家は安泰じゃろ」
「黒田言うの、何か馴染みません」
「慣れろ」
びしっと一言のもとに弥々丸が言う。
「は、はい」
松寿丸はこくこくとうなづいた。
(まるで大きな犬のようじゃのう)
わしが人質と受け取り、安土に送った松寿丸もすっかり弥々丸の家来だった。まるで大きな犬が飼い主に懐くかのようにじゃれている。
「なあ、おっとう、姫路城の話を聞かせてくれや。俺の絵図面も取り入れてくれたんか?」
「もちろんじゃ。おまえが言ってたとおり、ちゃーんと刑部明神を天守に勧請して厚く祀ってあるぞ」
「うん」
「まあこまいところはまだまだこれからやがな。大まかにはほとんどできたで。……しっかし、あの黒鍬の者達はすごいのう」
「そやろ。城の出来はどうや?」
「素晴らしいもんじゃ。安土のお城にはかなわんやろが、小さいが、ほんま美しい城やで」
(小さくてええ……上さまを刺激したらまずいかんな)
弥々丸は小さく笑う。
目が、合った。
そのどこか苦笑に似た色にわしと同じことを考えていたのだと理解する。
それだけで、わしは何とはなしに、言葉にせぬ労苦をねぎらわれたような……それを報いられたような気がした。
半兵衛亡き後、わしが相談できる者はもういないのだと思ったが、わしにはまだお弥々がいるのだと思えた。
「堀割もな、井戸も、全部、おまえの図面の通りにしてあるで……小一郎のところの藤堂に監督させてたんやけどな、いろいろ聞きたい言うておったぞ」
「ええよ。あののっぽやろ」
「そや」
「叔父上すきすきーやもんな、あののっぽ」
「そうやな、小一郎好きなこと丸わかりや」
「ああ、それ、わかります」
吉助もうなづき、皆の視線がわしに集中する。
「高虎はほんまよう仕えてくれるでな」
わしの答えにほお、と弥々丸は溜息をもらす。
「のっぽ、哀れやなぁ」
「いやいや、それがいいんじゃないですか?きっと」
「うん、そうかもな」
わしのわからぬことで何かを合意する子供達にわしは何も言えない。兄者は何がおかしいのか腹を抱えて笑うている。
「……何の話ですか?弥々さま、吉殿」
「おまえはええよ、松」
「後で教えてあげますから」
「はい」
理解していない松寿は、それで納得したらしくにこにこしている。
官兵衛がここにいたら、そんな息子にハラハラしたり、怒りを覚えたりときっと忙しいことだろう。そして、二人きりになったらきっと説教が始まるに違いない。
ここに官兵衛がいないことは幸いなことだった。
「なあ、おっとう、播磨のうまいうどんをはもってかえってきてくれたんか?」
「それが、うどんは生なんでな。土産に持ち帰ることはムリじゃった」
兄者の言葉に、子供たちは目に見えてがっかりする。
「お弥々や、そんながっかりするでない。土産には持って帰ってこれなんだが、うどんうちの名人がおってな、ちゃーんと連れて帰ってきたんやで。今日のメシ時にはちゃーんとそれを出してやるからの」
「おっとう、すごい!!」
弥々丸は目をきらきらさせて喜ぶ。
「そんなことはないぞ」
謙遜しつつも、褒められることが大好きな兄者は嬉しそうに笑う。
「吉、松、今日はうどんじゃで!」
「楽しみですね!」
「うどんってどんな食べ物なんですか?」
「出てきてからのお楽しみじゃ!」
弾む足取りの子供たちはとても可愛らしく、わしは、何だか微笑ましい気持でいっぱいになる。
「うどんは嬉しいが、やっぱ、姫路の城を見に行きたかったのう」
「お弥々や、わしも連れて行きたいのはやまやまじゃが、そなたは戦場につれていくにはまだ小さすぎる」
「うん。わかっておるよ」
忘れがちなことであったが、お弥々はまだ幼い元服前の童である。
おそらく、兄者はあと5年もせぬうちに元服させることを考えるだろうが、それでもいまはまだ童である。しかも、播磨は対毛利の最前線だ。たとえ最前線でなかったおとしても、戦場に子をすき好んで連れてゆきたいと思う親はいないだろう。
「そなたの願いは何でもかなえてやりたいんじゃがな」
「おっとうは、わしに甘すぎるものな」
「何を言う。そなたにはどれだけ甘くなってもええんじゃ!わしのたった一人の子なのじゃもの」
兄者の言葉にそこにいた全員が笑った。それが、お弥々が必殺技と呼ぶ、兄者のいつもの決め台詞だった。
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「で、おっとうと叔父上が揃って戻るなんぞ、何かあったんか?」
「うんにゃ、ちぃーっと、安土に呼び出しくらっとるだけじゃ」
播磨の戦は膠着している。
それでなくとも、この年の瀬に軍を動かすようなことはほとんどないだろう。
とはいえ、兄者とわしが一緒に戦地を離れたことがお弥々は気になったのだろう。
「……叔父上も一緒にか?」
「わしは別件じゃ」
大坂とここ長浜での金策……場合によっては安土に参らねばならないやもしれぬ。
それを思うと、つい溜息がこぼれた。
戦には金がかかる。ことに、兄者のように金に糸目をつけぬような使い方をすれば尚更だ。
計数に明るい能吏を多く抱えるようになったとはいえ、そういった交渉ごとはまだまだわしか兄者でなければならない。内密にしなければいけない話も多すぎる。
「……播磨には誰がおるんや?」
「官兵衛がおるで」
「……官兵衛殿が悪いとは言わんけど、おっとうと叔父上が二人とも留守ってのはちょっと心配じゃな」
そうは言いつつも、お弥々は少しだけ安堵したような表情をする。いつだったかの兄者の命令違反の一件が頭にあったのかもしれない。
「そうやなぁ」
兄者もわしも、それなりに心配がないわけではなかったのが仕方のないことだった。
正月の参賀も兼ねた諸将の召集に代理を派遣することは考えられなかったし、その兄者に大坂や長浜で金の工面をしろというのもややムリがある。兄者は骨惜しみするような男ではないが、それでも一人の人間ができることには限度というものがあるのだ。
「……ああ、そや、叔父上、これ」
弥々丸は何気ない風で薄藍の表紙に綴じられた帳面を差し出した
「なんや?」
「いつだったか生野の銀を送ってよこしたやろ」
「うん」
「あれを京の町衆に投資したもんが、半分ほど戻ってきたでな。金と米に直しておいた。大坂にあるでな。帰るときに持ってってな」
その言葉にわしは唖然とし、帳面をめくって更に目を剥いた。
「や、や、弥々丸」
「なんじゃ?おじうえ」
「これで半分かや?」
「そや。残り半分はまだ投資中や。半年したら回収やけど……そんだけあれば当面余裕ができるやろ?」
「もちろんじゃ」
わしは帳面を押し抱いた。
戦には巨費がかかる。米も金も無尽蔵ではない。ましてや、今は無茶な米の買占めをやったばかりだった。
「小一郎おじならば無駄にはせんやろし、米も金も戦には必要なもんやからな」
ありがたかった。ありがたくて涙がでそうやった。
「ありがとうな」
「何言うんや、水臭いやないか。羽柴の家のことやもの。槍働きはまだまだやけど、俺だって後方の手伝いくらいはできるんやぞ」
「……ああ」
わしはたまらずに弥々丸を抱きしめた。
この小さな子供は本当に救いの神だった。
(この子はほんまに宝じゃ)
例えば、探すのはかなり難しいと思うのだが、この子より漢籍に通じていたり学問に通じている子供は他にもいるかもしれぬ。
あるいは、この子より武勇に優れている子もいるだろう……だが、この子が宝だというのは、この子にだけにしかないその在り様だ。
この子の噂は既に安土の上様の元に届いているらしく、今回の安土への伺候に同道するようにと兄者は命じられておるという。
(まあ、直接呼び出さないだけマシやが……)
長浜と安土は湖を挟んですぐの距離だ。
もっとも、弥々丸がまだ幼いということで気を使って下さったのかも知れない。松寿の時は別としても、上様はあれで存外、子供には優しいところをみせることがある。
「なあ、おっとう。戦が終わったら、俺も播磨つれてってな。姫路のお城をこの目で見たいんや」
「おまえが言うんなら、国中、どこへでも連れてってやるで」
約束、と二人は指切りをする。
そんな姿にわしは何だか心がぬくもった。
「とりあえず、姫路のお城と書写山だけでええよ」
お弥々が静かな笑みを浮かべる。
その表情が何とはなしに、半兵衛殿の面影が重なった。
「……ああ、勿論じゃ」
その兄者の応えが、どこか湿り気を帯びていると思えたのはわしの気のせいではなかっただろう。
「もちろん、吉も一緒やで」
「……ありがとうございます。弥々さま」
吉助が笑い、お弥々も微笑う。
そんな二人をみて、兄者も笑っていた。
このところ、戦場で内心の苛立ちを隠し無理に明るく振舞ってばかりいた兄者を見ていたからかもしれないが、兄者が心から安堵し、楽しげなのが嬉しかった。
(ああ……)
家に帰ってきたのや、と不意にわしは思った。
播磨での滞陣がどれほど長くなろうとも、お弥々のおるこの長浜こそが、我らにとっての家だった。




