第五章 松寿丸(3)
弥々丸さまは不思議な方だった。年も幼く身体も小さいというのに、不思議と幼さを感じさせなかった。
弥勒丸様と呼ばれることをあまり好まないので、吉助殿は『弥々さま』と呼び、わしは『弥々様』と呼んでいた。
長浜の城は、弥々丸さまを中心に回っていた。
何かあればすべてが弥々丸さまに報告される。弥々丸さまはまずこの城の中で知らないことはなかった。
「……松は安土のお城におったのやろ?」
「はい」
「ええなぁ。……な、どんなやった?」
「どんなというても、わしが対面させてもらったのは、下の座敷でしたのでたいしたことは……ただ、朱塗りの柱や金の飾りや襖絵や……外から見た形もかわっていて、よくは知らんのですけど、どこか外つ国の雰囲気を思わせるお城でした」
「へえ。……絵図面とか絵図が欲しいなー。誰かもっとらんかな」
「そりゃあ難しいです」
「なんで?」
「上様は同じものも似た物も作ることは許さぬと、全部絵図面を焼いてしまわれたそうですから……」
「うわー」
「天守のご様子を屏風にしたものをどこぞに贈ったとも聞きますが……どこにさしあげたのかまでは……」
「そやなぁ……かといって、乱波の類を安土にいれるのは痛くもない腹探られそうで嫌やし」
ごろごろごろと弥々丸さまは畳の上に転がる。
(いや、そんなことしたら謀反疑われます……)
儂は溜息をつく。
「弥々さまはお城の絵図面とか絵図とかが大好きなんですよ」
「へえ……」
「まあ、機会があればおっとうに安土につれていってもらうんやけど……」
ごろごろごろ。
「……弥々丸さま」
「ん?」
「弥々丸さまはできるだけ上様にはお会いしないほうがいいような気がします」
「?」
「なんでといわれると説明は難しいのですが……」
悪口や陰口というわけではない。儂にとって上様は遠目に一度だけお目見えさせていただいただけの方でしかない。
だが、強烈な、あの気配……信長公は、ほの昏い闇の深淵で強烈な暗黒を生み出す黒い太陽だった。
「そやな。まあ、俺のような小僧っ子がお目通りするような機会はないやろ……」
弥々丸さまは笑ってうなづかれた。
その笑みはどこまでも輝く光だ。
弥々丸さまは、信長公とは相容れないかもしれない、という気がした。
(でも、弥々さまやから、逆にものすごい気に入られるかもしれん……)
表面上どうであれ、あの方に中途半端はない。ものすごく好かれるか、ものすごく嫌われるかのどちらかだけだと思った。
■■■■■
この長浜の城で、播磨での戦の話が話題にのぼらぬ日はない。
「兵糧攻めはいややなぁ」
「食べるものないのは切ないですよね」
「……儂、まっさきに死にますね、たぶん」
「普通に戦やるよりエゲツない気がしますね」
「でも、普通に戦やるよりは被害は少なそうや」
ここ数日、儂らの間で話題になっているのは兵糧攻めの話だった。
「……それ、考えつくのうちの親父殿だと思います」
「わからんよ。うちのおっとうや小一郎叔父は元が農民やからそういうの思いつきそうや……。官兵衛殿は、有岡で牢にいる時に食わせてもらえなかったんやないか?」
「いや、そんなのなくてもうちの親父殿なら思いつきますから」
何しろ、あの人の最大の折檻はメシ抜きだった。
「でも、よく考えてますよ。兵糧早く食いつぶさせる為に近隣の農民をたくさん城に追いこんだっていうし……お金、どっから出てるんですか?」
「ああ、それは小一郎叔父の腕やな。商人にたんまり金ださせてるやろ」
「商人ですか?」
「そや。あれらは勝つと思えばいくらでも金出すからな」
「なるほどー」
「……吉、そりゃあ、松の口癖やろ」
「えっ、えっ、俺の?」
「あははは、バレました。真似してみたんです」
広い座敷に笑い声が響いた。
儂らはいつも一緒で、いつもこんな風にいろんなことを話していた。
播磨の平定も進み、戦況は織田家に優位に運んでいたし、羽柴の本隊にも特別何かがあるわけでもなかった。
「……お二人とも、行儀が悪いですよ」
弥々丸様と吉助殿が寝転がってみている絵図は、畳二帖ほど。これは、弥々丸様の手になるもので、北陸・畿内・中国・四国にかけての国々と宿場町、港、主だった街道や河川などが描かれているものだ。
弥々丸様は手紙を届けに来る商人や旅芸人などと語らっているうちに、その話を元にこの絵図をつくりあげてしまった。これはかなり詳細で正確なものらしく、目にした者達が大変に驚く。
「……ここの間道がどうなってるか知りたいなぁ」
「蜂須賀の乱波が戻ったら聞いたらどうです?」
「そやな。知らなきゃ、調べさせてもええ」
二人はああでもない、こうでもないと絵地図を前に話している。
「……なんで、そんな道、知りたいんですか?」
儂はそれが不思議だった。
ぴたりと二人が動きを止める。
「……松、おまえ、今更何言うてるんや」
「えっ、ええっ、知らなきゃいけないことだったんですか?」
「っていうか……知らないのに、これまでずっと黙っていた松寿殿が凄いです」
尊敬します、と吉助殿が目を丸くする。
「え、いや、そんなこと言われても……」
「あんなぁ、道っつーのは大事なんやで。人を運び、物を運ぶ……おまえにわかりやすいように言うならな、兵糧運ぶにせよ、進軍するにせよ、道がなきゃ戦もはじまらんのや」
「なるほど」
儂は弥々丸さまや吉助殿のする難しい話はあまりわからない。でも、戦の話になおしてもらえればよくわかる。
弥々丸さまも吉助殿も儂よりだいぶ年下なのだが頭が良い。儂は、親父殿の子でありながら、あまり頭は良くない。だが、弥々丸さまはそれで良いと言ってくださる。
『松は頭は悪くない。ただ、わしらより考える速度が遅いだけや。それは別に恥じることじゃない。人にはそれぞれの考える速度というのがあるのだからな。それに、松は武道に優れているし、勇気もある。なによりもな、松は誠実や。それは大事なことじゃぞ。俺はおまえのそういうところを良いと思っておる』
弥々丸さまがそう言ってくださった言葉は、儂の宝だ。
「そうしたら、その細い間道は何に使うんです?」
「伝令や。街道を押さえられても情報だけでも届けられれば違うからな」
「……播磨の殿にですか?」
「……おまえは時々、信じられんほどに鋭いの」
弥々丸さまは溜息をついて続ける。
「その通りじゃ。情報言うのは大事じゃぞ。……例えば、わしらを人質に取ったぞと敵がおっとうを脅す。おっとうにはその真偽はわからぬ。脅しに屈することなくとも、おっとうの中にはもやもやした感じが残る」
「はい」
「そういうところがつけいる隙になるんや……でも、文が届けばそんなこともないやろ。そやから、もしもの時にそなえて情報の道を整備しておきたいんや」
「……そうしたら、運ぶ人間も必要になるのでは?」
「それは問題ない。鹿屋がおる」
「ああ。なるほど」
儂はどこまでも無駄の無い弥々丸さまにほとほと感心した。
「鹿屋」という姓は、本来は「鹿野谷」と書く。鹿しか住まわないような野や谷と言う意味で、元は、信州の山深い里に暮らし武田に仕えた一族だった。武田滅亡後、所領を失ってちりぢりになり、辛酸を舐めていたところに手を差し伸べたのが弥々丸さまだったのだと言う。
そもそもの始まりを儂は知らない。吉助殿はご存知なのかも知れぬが、話したことはない。ただ、儂が気付いた時にはもう弥々丸さまの周囲は、鹿屋の一族……一部からは『猿』の一族と呼ばれる人間達に守られていた。これは鹿屋の一族が己の顔を隠すときに猿の面をかぶることからそう呼ばれるようになったのだという。
羽柴の家が抱える忍は蜂須賀を頭とする乱波、素波の一団と、武田滅亡後にこれまた弥々丸さまの手引きで抱えられた甲賀衆だ。猿の一族はこの中にはまったく入っていない。彼らは羽柴の家ではなく、弥々丸さま個人に仕えているからだ。
「……もしや、鹿屋の者達を早馬に使って文を運ばせているのはその練習なので?」
「そうや。ようわかったのぅ、松」
「はあ」
儂は溜息をつく。
(……この方には、いったいどこまで見えているのだろう……)
そして、どこまでが計算で、どこまでが無意識なのか……何にせよ、弥々丸さまが儂らの遥か先にいることは間違いが無かった。
「弥々や、まだ難しい話をしてるのかえ?」
奥方さまの訪れだった。
本来、城主夫人ともなれば、例え我が子の元であろうとも先触れなしで訪れたりはしないものだが、この長浜城においてはあてはまらない。
「おっかあ。……いや、もう終わったで」
「良かった。饅頭を蒸したからもってきたんだよ」
弥々丸さまは面倒な儀礼を嫌われ、奥方さまは気さくさを失わない。
そういう意味ではこの二人は似た者親子だった。
「饅頭の餡はつぶし餡じゃろ?」
弥々丸さまは可愛らしく首を傾げる。
「勿論じゃ。弥々はつぶし餡がすきじゃものな」
「うん」
満面の笑顔。この笑顔だけみていると普通の可愛らしい子供でしかない。
「さ、吉助も松寿もおあがり」
「ありがとうございます」
「いただきます」
「熱いからやけどしないようにな」
ふかしたての饅頭は本当においしい。
食べ盛りの子供達だから、と奥方様はいつもおやつを山盛り作ってくださる。実家にいるよりも安土にいる時よりもずっといい生活をしているような気がする。
(……儂は人質のはずやのに)
弥々丸さまは、儂を人質とは決して言わない。
「……どした?松」
「いえ。……おいしくて幸せだっただけです」
「そやなぁ。うまいもん食ってる時って幸せ感じるよな」
弥々丸さまはうんうん、とうなづく。だから、儂も吉助殿も同意だというように大きくうなづいた。
でも、儂は本当はちょっとだけ違った。
(弥々丸さまと吉助殿と三人で一緒に食っとるから幸せなんだ)
こんな時間がずっと続けばよいと、儂は祈るような心持ちで思っていた。