第五章 松寿丸(1)
「あなたが、松寿殿ですか?」
優しげな面差しの人だった。
「はい」
「ふむ」
目の前の人は、なにやら得心げにうなづいた。
「私は竹中半兵衛重治といいます」
「……竹中半兵衛殿……」
羽柴の御家の参謀として高名な人だった。
智謀にも武勇にも優れ、二十歳になるやならずやの時期に十数名で稲葉山城を占拠した事は今も語り草になっている。それは、各地を回る講釈師の物語の種にもなっていて、儂も何度か聞いた。それだけでは足りなくて、父にねだってその話を書き留めてもらったこともあるくらいだった。
その物語の主人公が目の前にいた。
想像よりもずっと優しげな人であることに驚いた。確かに講談師は見目麗しき好漢だと言い、筋骨隆々とは言わなかったが、こんなにもはかなげな人だとは思わなかった。後にして思えば、それは半兵衛殿が既に病に侵されていたせいだろう。
この時、儂がいたのは安土の城下だった。
荒木殿の謀反が噂され、父がその説得の為に有岡城に入ったと聞いた。二月たっても父は帰らず、信長様が儂を殺すように命じるのもそう遠くは無いと儂の世話をしている者達が言っていた。
『織田の殿様は裏切りを決して許さない』
そう噂されていることをわしは知っていた。
(父上は、裏切らない……)
父は、確かにいろいろな策謀を巡らせる人間だ。だが、それは頭の中だけのことで、実際にそれを実行できるかはまた別の話だった。基本、父上は露悪的な人で、口ではいろいろ大げさに言うし、その言葉を信じて嫌悪を覚えている人も多い。
だが、信頼をいただいた人間を裏切れるほど強くはない。少なくとも、儂の知る父上はそうだった。
だが、それは父上を知らない織田様にはわからぬことだろう。
(父をご信頼いただいているのは、織田の殿さまではなく羽柴殿だろうし……)
誤解で殺されるのは損だなぁと思ったが、仕方がないとも思った。
儂に誤解をとく術はない。
「……儂は、殺されるのですか?」
儂はこの人に殺されるのかと思い、この人になら殺されても良い、と思った。
くつくつと半兵衛殿はおかしげに笑った。
「……何がおかしいのですか?」
「いや。随分と落ち着いているようだったので……。松寿殿、私はあなたを助けに来ました」
「……儂を?」
思わぬ言葉に儂は驚いた。
「このままでは上さまは貴方を殺すよう命じるでしょう。ですが、羽柴の家では官兵衛殿が裏切ったとは思っておりません」
思わぬことに、儂は目をしばたかせる。
「ですから、貴方を逃がします。貴方には長浜に隠れてもらいます」
「……長浜に?」
「はい。長浜には羽柴の殿の御嫡子、弥勒丸さまがおられます。弥勒丸さまがすべて承知されておりますから、貴方はそこで御父上の救出をお待ちなさい」
「弥勒丸さま……」
「何かある時は弥勒丸さまに相談なさると良い。弥勒丸さまが良いようにして下さいます」
儂は半兵衛殿の言葉にうなづいた。
父が、この方に複雑な感情を抱いている事を儂は知っていた。羽柴の殿の参謀、あるいは軍師と言えば、この方であり、父はこの方と肩を並べねばならなかった。
儂は、半兵衛殿と一月の間一緒に過ごし、そして、書写山に戻るという半兵衛殿と別れた。
「弥勒丸さまによろしくお伝えください」
「はい」
半兵衛殿は弥勒丸さまという若君とよほどお親しいらしく、長い長い手紙と笛とを預かった。儂はそれを胸元に入れた。荷物は無くしてもそれだけはなくさない為だ。
「……松寿殿、参りますよ」
「お願いします」
羽柴の家と懇意にしているという商人の一行に同行させてもらうことになっていた。
「さて、ではしばらくはわしのことは番頭さんと呼んで下さい。わしらはあなたを松吉とお呼びします」
「はい」
供の者達は荷の護衛のフリをし、儂は小僧のフリをしていた。半兵衛殿の策略で儂は死んだことになっているとはいえ、用心にこしたことはなかった。
こんな場合なのに、儂は少しだけワクワクしてもいた。
本当だったら、こんな商人の、しかも丁稚風情の真似事などは死んでもしたくないというところだったが、今の儂にはそれを楽しむ心の余裕があった。
「弥勒丸さまの元へ行ったら、小僧に化けて抜け出した話をしてさしあげるといいですよ」と半兵衛殿に言われていたからだ。
「……弥勒丸様はとてもやんちゃな方で……野菜売りの農家の子供のフリをして城を逃げ出した事が何度もあります。あの方の農家の子供のフリは天下一品です。あなたのそういう冒険の話を喜んでお聞きになるでしょう」
「……儂は話下手ですし……」
「大丈夫です。弥勒丸さまが聞き上手ですから」
儂は考え込んでしまう性質なので、父からは、鈍いとかどんくさいといつも言われていた。使い物にならないとも。
「……こんな儂でもお仕えすることができるでしょうか?」
だが、半兵衛殿は違った。儂が考え込んだ理由を聞き出し、それの一つ一つに回答をくれた。儂は少しだけ自分に自信が持てた。
「ええ、きっと。……うちの吉助は弥勒丸さまのお止めする重石になることはできませんでしょうから、松寿殿はぜひとも重石になって下さい」
期待しています、と笑った。
「儂はどんくさいだけです」
「それが必要なこともあります。大丈夫です。弥勒丸さまはちゃんとおわかりになる方ですから」
半兵衛殿のお言葉があったからこそ、儂は弥勒丸さまにお会いするという希望をもち、正体がバレてつかまったら処刑されかねない危険な中を、泣き喚かずに進むことができたのだ。
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「あれ、松吉……いや、松寿様、もう迎えが来てるようですよ」
大津に入ったのは夕刻だった。
大津港を中心に広がった町並……港町というのは、夜が近くなるほどに朝とはまた別の意味の喧騒を増すようで、ひどくにぎやかだった。
「なぜ、わかるのですか?」
「あの紺無地に沢瀉の紋は羽柴様の紋です。御用船ということです」
「御用船……」
「羽柴様の御用船が今、大津の港にいる理由はただ一つ。あなたを迎えに来たんですよ、松寿さま」
予定より早いですねと番頭の伊介さんは言った。
大津から船で湖を渡る。陸路を行くよりも何倍も早いのだと伊介さんは教えてくれた。
伊介さんは、長浜の安藤家の番頭だった。
安藤家というのは、長浜十人衆に数えられる富裕な商家で、羽柴との縁が厚いのだという。ことに今の御当主は弥勒丸さまの信任が厚いらしい。
「約束は明日ですが、港に行って見ましょうか」
「……はい」
儂はうなづいた。
誰が来ているのかはわからなかったが、これでやっと安心できるのだと思った。