第四章 吉助(3)
その年の夏は暑く、播磨の戦況は、一進一退だった。
この長浜にいながら、弥々さまはいろんなことをご存知だった。というのも、弥々さまのところにはこまめにいろんなところから文が来ていたのだ。
殿や秀長様をはじめとし、殿の小姓衆からも。それの一つ一つに弥々さまは返事を書き、時には絵なども添えた。
それらを運んでくる商家の家人などとも弥々さまは親しく話をなさったし、時には大阪や堺にいるそれらの主人とも文のやりとりをなさっていた。商家の主人への文は僕が代筆することもしばしばあった。
僕は、父が僕に書の基礎を教えていてくれたことにこの時ほど感謝したことはない。
書だけではない、小太刀や剣術の基礎や、厳しすぎると思った学問やそういったすべてに僕は感謝した。父がそれを仕込んでおいてくれたから、僕は今まがりなりにも弥々さまのおまけの遊び相手ではなく、弥々さまの小姓として何とかやっていけているのだ。
父は遠い播磨の戦陣にあって、以前よりずっと遠くて顔を合わせることもままならなかったが、今は不思議と近く感じられるようになっていた。
僕にも父の気持ちが少しわかるようになっていたからかもしれない。
「文以外のものも運べるといいのになぁ」
「何を運ばせるんです?」
「え、播磨のおいしいものとかさ。讃岐のうどんとか食べたいなー」
「いいですね、それ」
「播磨の名物って何があるんだろうな」
「さて……」
弥々さまはごろりと寝転がる。
だらしがないと言われそうなことも、弥々さまがするとそうは見えない。
「海が欲しいなぁ、吉」
「海?」
「そ。海はいいぞー」
「弥々さまは海をご存知なんですか?」
弥々さまは近江近隣しか知らないはずだ。
近江の『うみ』と言えば、琵琶湖になる。琵琶湖は広いけれど湖だ。
「うん。……そうだな……まあ、いろいろとな」
弥々さまは曖昧に笑う。それは弥々さまにしては珍しい曖昧さだった。
「……敦賀か、若狭ですね」
頭の中で絵地図を広げて僕は言う。
「だな。越後は……無理やもんな」
越前は柴田様の領地であり、越後上杉家と対峙しているのも柴田様で、羽柴のお家が出る幕はない。
「海があるといろいろ便利ですよね」
僕はただぼんやりと港があれば町が活気付くし、弥々丸さまが喜ぶようなものが手に入るだろうな、と思っただけだった。
「港があれば、情報も流れ込むし、物流の新しい経路が開拓できるからなぁ。……水軍が欲しいなぁ」
まるで瓜が欲しいとか、新しい釣り竿が欲しいとかと言うのと同じ調子で弥々様は言った。
「……そう簡単に手に入るものでもないですよ」
「そやけどなぁ」
目を閉じて何事かを思案なさる。
線の細い弥々さまは、ともすれば姫に見間違えられることもあるくらいで、こんな風に無防備な姿を見せられると少しどきどきした。
「なあ、吉」
「はい」
「おっとうの小姓衆は羽柴の家のもんだけどな、吉は俺のやからな」
「……はい」
突然の事で、声が震えた。
嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、言葉がでなかった。
「だから、吉は俺に遠慮のう自分の意見を言うのじゃぞ」
「……はい」
握り締めた拳に、ぽたりと涙が落ちた。
「吉は俺の鏡なのやから」
僕はその言葉を一生忘れないだろうと思った。
何度も何度も耳の中でその言葉を繰り返し、そして、自分の胸に刻み込んだ
この先、弥々さまには他に側近が何人もできるだろう。でも、弥々さまが僕を特別に思ってくれていることを僕はきっと二度と疑わない。
「……弥々さま」
小さな寝息。いつのまにか弥々さまは眠ってしまったようだった
弥々さまの眠りを妨げないように静かに立ち上がり、羽織をもってきてそっとかける。ぴくりと小さく身体が震えたけれど、弥々さまは目覚めない。気配に敏感な弥々さまは、殿や奥方様、秀長様以外の人間が近づくとすぐに目覚めてしまっていたが、最近は僕がいても気にしなくなった。
そのことが信頼の証のようで嬉しい。
そして、僕はいつもそうしているようにいつでも刀を抜ける姿勢で襖の前に陣取った。
■■■■■
真夜中だった。
ふと誰かの気配がして目が覚めた。
『……吉助』
そこにいたのは父だった。
「……父上?」
端然と枕もとに座っていた父は、僕が目覚めるとどこか困ったように笑った。
『見つからぬつもりでいたのだが……』
「……弥々さまのおかげで気配には敏感になっているんです」
弥々さまは、よく夜中に抜け出して遊びに行く事を誘いに来るのだ。
『そうか……弥勒丸さまとは仲良うしてもらっているようだな』
「はい」
僕はしっかりとうなづいた。
それだけは自信があった。
『……そうか。良かった』
父は笑った。
父のそんな笑みを見たのは初めてだった。
『弥勒丸さまはおまえを自分の鏡だとおっしゃられた。生きるも死ぬも一緒だと……ゆえにおまえは望みすぎてはいけない』
「はい」
父は、僕のところに来る前に弥々さまのところに行ったのだとぼんやりと思った。
『私は……おまえが羨ましい』
「……父上が、僕を、ですか?」
『ああ。……あの方と共に戦い、あの方と共に生き、共に死ぬるだろう、おまえが羨ましくてならないよ』
溜息のような声音。
「……初めて聞きました。そんなこと」
僕はどういう顔をしていいかわからなかった。でも、心の中で弥々さまを自慢にしている自分がいることに気付いていた。
『……重門』
「……はい?」
『元服したら、重門と名乗りなさい』
僕は父をまっすぐ見た。
父は少し困ったように笑った。父のそんな表情を見たのも初めてだった。
「…………はい」
僕はうなづいた。不意に状況を理解していた。
喉元まで熱いものがこみあげていた。
父は満足そうに笑い……そして、消えた。
「……父上……」
拳を握り締める。手のひらに爪が突き刺さった。
すっと襖が開く音がした。
「……吉……?」
寝間着姿の弥々さまだった。
「……弥々さま……」
「……今、半兵衛が俺のところに来た」
僕のところにも来たのだとうなづいた。口を開いたら、何かがこぼれだしてしまいそうだった。こらえきれない何かが涙となってぼろぼろと溢れた。
弥々さまは僕の手をひき、布団の中に押し込む。
「風邪ひくでな」
そして、自分も僕の隣に潜り込んだ。
「……菊花の契りって覚えてるか?」
こくりと僕はうなづく。唐の国の話で、再会の約束を果たすために魂となって戻った男の話だった。
「魂は千里を駆け抜ける……半兵衛はようやっと自由になったんや」
病で弱った体をいつも呪っていたからなぁ、と弥々さまは言う。
「……ちちが、ですか……?」
ぐすっと鼻がなった。
「うん」
弥々さまは僕の知らない父を知っていた。
「落ちついたら、おまえの知らない半兵衛の話をしてやるよ」
僕はうなづく。
そして、泣き止んだ僕に弥々さまはぽつり、ぽつり父の話をしてくれた。
でも、もっぱら話すのは僕だった。あまり一緒に暮らした事のない父だったのに、こんなにもたくさんの思い出があるのかとびっくりするほどにいろいろなことがあった。
空が白むまで話を続け、そのうちに僕も弥々さまも眠ってしまったらしい。
翌日、弥々さまの布団がもぬけの殻で城中が大騒ぎになっていても、僕らはまったく目覚めなかった。
またしても神隠しかと騒がれ、弥々さまの行方不明が奥方様の知るところとなり、そこで初めて僕もいないことに気付いた奥方様によって、眠る僕らは発見されたらしい。
あんまりにも幸せそうに眠る僕らを起こすのは忍びなかった、と奥方さまは笑って教えてくれた。僕らが目覚めたのは昼近くだった。
僕は、十日後の早馬で父の死を知ったけれどもう泣く事はなかった。
悲しみは胸のうちによどんでいたけれど、それと共に生きることが父と生きることなのだと僕は知っていた。
■■■■■
「そういや、吉、小寺の子供が来るで」
前を歩く弥々さまが振り向く。
「小寺の子供って誰ですか?」
「……半兵衛が助けて手元に置いておった子や。小一郎おじの手紙にあったぞ」
「父の話が聞けるでしょうか?」
「聞けるやろ。そいつが来たら、船で迎えに行くぞ」
「……船、ですか?」
「安藤に作らせてるんや」
安藤というのは十人衆と呼ばれる長浜城下の富裕な商家で、そこの現在の当主である喜右衛門と弥々さまは仲がよい。
喜右衛門は既に50歳過ぎ、弥々様は数えで7つになろうというところ。爺と孫にしか見えないが、内実はかなり対等だ。むしろ、喜右衛門は弥々さまを神の子の如く敬っているようなところがある。
「……船を、ですか?」
「そや。大きな船でな。100人くらいは乗れるやろ」
「へえ……」
「九鬼の水軍の船はもっとデカいんやって。上様はもっと大きい船を作ろうとしてるって今井が言うてた」
今井というのも十人衆の一人で、こちらも弥々様の崇拝者の一人である。
「……早く、そいつが来るといいですねぇ」
「おう」
僕らはまだ子供だった。
でも、弥々さまはただの子供でいられるはずもなく、僕もまた弥々さまといる限り、ただの子供ではいられなかった。
僕らはいつも考え、話していた。
遠い播磨で起こること。京都や大阪のこと。自然、聴こえてくる安土の上様のこと……それから、これからの羽柴の家のこと。
僕と弥々さまの意見がすべて一致するわけではなかった。
何しろ、弥々さまの頭の中は僕の何倍もの速さで回転していて、僕にはついていけないことも多かったからだ。
そのたびに僕は弥々さまに説明を求め、弥々さまは僕に説明することでそれが普通の人間には理解できないことを知り、いろいろと修正を加えた。
話の種がつきることはなかった。
そして、その合間に、僕は弥々さまの神隠しの話を何度も聞いた。
殿にも、奥方様にも詳しくは話したことが無いというその話を、僕だけがちゃんと聞かせてもらったのは、たぶん、弥々さまも誰かに話したかったからなのだろう。
長い長い話を僕は涙なしで聞くことはできなかった。
まだその時に側にあがっていなかったのにも関わらず、弥々さまをお一人にした自分に腹がたったりもした。
「……僕も手伝います」
「ん?」
「『栞姫』を見つけること」
「……名前も違うやろし、俺のこともわからんよ、きっと」
「それでもきっと『栞姫』は弥々さまが見つけなければ幸せになれない、そんな気がします」
正直に言って、この時、僕は本当に二人の絆をわかっていたわけではなかった。ただ、弥々さまを喜ばせたかっただけだった。
僕は心のどこかで見つからぬことを祈り、同時に同じだけの強さで見つかることを祈っていた。