第四章 吉助(2)
「吉は、栗飯好きか?」
弥々さまは、食べることがとても好きな方だった。
といっても食い意地がはっているというわけではなく、さりとて、こだわりが強いというわけでもない。強いて言うのならば、食べることをとても楽しまれる方だったというべきだろう。
僕は好き嫌いの多い子供だったけれど、弥々さまと食事をとるようになってからは、不思議なくらい食べられないものがなくなった。
「はい。大好きです。……弥々さまは?」
食べ物の好き嫌いを論じることはあまり良いことではないと思っていたけれど、素直に答える。それから、付け加えてたずねてみた。弥々さまについて、僕は知りたかった。
「俺も好きじゃ。芋飯や菜飯も好きやな」
「何か具が入っているのが好きなんですね」
「白い飯も好きやぞ。炊きたての飯を塩だけで握ったむすび飯は最高やし、それにひしおをつけて焼きむすびにしても旨いな」
「青菜の漬物を刻んでゴマふって混ぜごはんにしてもうまいですよ」
それは、育ち盛りでしょっちゅうおなかをすかせていた僕に母がよくつくってくれたおやつだった。
ここのお城で食べるような白米ばかりのごはんではなく、麦の分量が多いごはんだったけれども、それでもとてもおいしかった。
「へえ」
弥々さまは目を輝かせる。
こんな風な表情をしていると弥々さまは普通の子供だった。僕らはうまい食べ物の話をしながら厨へ向かう。
弥々さまは、道々にあるいろんな場所を説明してくれた。
僕は教えられるたびに、それを忘れないように頭の中に書き込んでゆく。
長浜のお城は、僕が育った山の屋敷と違ってとても広くて、一度には覚えきれなかった。
厨には奥方様がいらっしゃった。
僕はそれにもちょっとだけ驚いた。北近江十三万石の城主夫人ともなれば、厨に入る必要はまったくない。
だが、奥方様も弥々さまもまったく気にしていなくて、そこに奥方様がいるのが当たり前というように弥々さまは声をかける。
「おっかあ、栗飯は?」
「勿論、できとるよ」
(……栗の分量が……)
栗のむすび飯は、米と栗が半々じゃないだろうかと思うほどの栗の量だった。
「栗がいっぱいやな」
「弥々は栗が好きやろうが」
「うん」
にこにこと弥々さまは笑う。
「あと、きのこの味噌汁も作ったよ」
「ありがとう、おっかあ。……吉、食べよう」
「……ここでですか?」
「うん」
弥々さまはうなづく。
普通は部屋に運ばせて食べるものだった。厨に膳を並べるのは身分低き者だけ。
殿がお留守の今、幼くとも弥々さまは城主様なのだから厨で食事をするのはあまりよくないことだと僕は思った。
「あの、部屋で食べた方が……」
僕と同じ考えの人が他にもいたようで、おそるおそる申し述べる。
「あったかいうちに食べたいし、せっかくの初物の栗やもん。ここでおっかあと一緒に食べる。その方が旨いやろ」
弥々さまはにっこりと笑う。
ほわりと空気が柔らかくなり、そこにいた皆がつられて笑った。
「そういうことやから、さあさ、弥々と吉助の膳の支度をおし」
おね様がぱんぱんと手を叩くと、すぐに栗のむすび飯ときのこの味噌汁と古漬けの瓜を薄く刻み、生姜醤油をかけたものが出てくる。
「これが俺の好物なんや」
この古漬けの瓜をきざんだものに生姜を散らし、醤油をかけまわしたものを弥々さまがとても好きなのだと僕は父から聞いて知っていた。
夏の最中、膳部の者がしくじって大量の瓜を古漬けにしてしまった時に、弥々さまが作り方を教えたもので、膳に上ることの多い品なのだと。
その時、父は言っていた。
『弥勒丸さまがそれを本当にお好きだったかはわからない。だが、それが弥勒丸様の好物となったことで、膳部の人間は一人も処罰されなかった……本来ならば、たいそうな失態で、殿も怒り狂っていたのだがな……』
『それは……』
たかが漬物一品のことと笑う無かれ。漬物というのは城中の人間全員に当たるようにまかなわれているものだ。そして、だめになったのは決して一日分の量ではあるまい。だとすれば、その損失はかなりのものになる。
『……弥勒丸さまは、他の漬物はほとんどお食べにならない』
僕は少しだけ驚いた。もしかしたら、漬物は嫌いなのかもしれなかった。
『弥勒丸様とはそういうお人だ』
父の言葉に僕はうなづいた。
「僕も好きです、これ」
それを聞いたときから、僕はこれを好きになった。
弥々さまは、うん、と満足げにうなづいてくれた。それが何だかとても嬉しかった。
「弥々、おかわりは?」
「にぎり飯がもう1個欲しいな」
「1個でいいの?」
「うん。吉にもな」
「……ありがとうございます」
僕は軽く頭を下げる。
少し物足りない感じだったから、弥々さまがそう言ってくれて嬉しかった。
まだ城に来て間もないのに、ずうずうしくおかわりを申し出ることができるほど僕は肝が太くない。
弥々さまはそんな僕の様子をよく見ていて、いつも気遣って下さる。
「前、佐吉と虎が食い物のことでケンカしたんや」
「……いつものことですね」
佐吉殿とお虎殿は犬猿の仲だ。佐吉殿のいつでも冷静沈着なところが虎殿には嫌味に感じられ、虎殿の豪放磊落でおおらかなところが佐吉殿には乱暴で大雑把に感じられるらしい。
まあ、僕にいわせればどっちもどっちだ。
「虎が今日の味噌汁は塩辛い言うて、佐吉が君子たる者、食い物についていちいち申し述べるのは卑しいって言ってな」
この二人のケンカの原因はいつもたいしたことではない。
「そん時に言ったんやけどな、『食べる』いうのは生きることの基本だから別に卑しくないと思うのや。塩辛い言うのも、まあ時々うるさいこと言うなって思うかもしれんが、おいしく食べるのは大事だからええと思うのや。俺は、卑しいのは、『食べる』ことに真摯じゃなくなった事を言うのだと思うんや」
「食べる事に真摯じゃない、とは?」
「あんな。大阪の商人の間で流行ったそうじゃが、鯛の頬肉だけをこそげてそれに大根の甘いところだけをおろしたものをかけて食べる料理があるんやとか」
「残りの部分は……」
「自分では食べんそうや……驕っとるやろ」
使用人や下の人間に下げるのだから確かに無駄にはならないのかもしれない。でも、それはひどい驕りだと僕は思う。
「……それは……」
「俺は、そういうのは好かぬ」
「僕もです」
「そやろ。俺は確かに食べる事が好きやけど、そんな珍奇なものを食べたいわけじゃない……異国にはなぁ、猿の脳味噌やら熊の手やらをありがたがって食べる国もあるのじゃぞ」
「へえ……」
弥々丸さまはいろいろなことをご存知だった。
「弥々丸さまは嫌いなものがありますか?」
「……俺は大概のものを好き嫌いなく食べられるつもりだが、蝗は無理だなぁ」
「蝗、ですか?」
「尾張にはなぁ、蝗の佃煮があるんや……なんていうか……俺は見るだけで食欲なくす」
あと、身体にはいいかもしれんが、蜂の子の食えぬ、と顔を顰める。
そのげんなりとした表情を初めて見て、僕は何となく嬉しかった。好きなものについてはよくお話になるけれど、嫌いなものについてお話になるのはとても珍しいことだった。
弥々丸さまは僕に対し、とても正直に素直に接してくれた。だから、僕も同じように正直に素直になることができた。
語り合う言葉の一つ一つが、弥々丸さまの見せる表情の一つ一つがとても大切に思えた。
「……おっかあ、味噌の味が変わったな」
「まあ、わかったかね」
「うん。塩が違うんやろか?」
「そうや。越後の塩で作ったんよ」
「へえ」
「やっと満足のいくものができたで、おまえの膳にあげたんじゃ」
これまでは厨の者と下働きの者で消費していたのだと奥方さまはおっしゃった。
「うん。……これは、うまいな」
「お弥々はちゃんと味わってくれるから、皆もつくりがいがあるというものだね」
おね様の言葉に弥々さまは、「皆、ありがとう」と笑って言った。
皆、一瞬、ぽかんとし、誰も何も言えないでいた。それから、差配の老女が「もったいないお言葉にございます」と申し述べて叩頭した。皆がそれに続いた。感激のあまり目頭を押さえる者もいた。
羽柴の殿の人誑しは天下一品と言われるが、弥々さまもまた人誑しがうまかった。
殿が故意にそれを行うなら、弥々さまのそれは無意識だったから余計に性質が悪いような気がしなくもない。
(親子なんだなぁ)
顔はあんまり似てなくても、やっぱり親子なんだな、と僕は変なところで感心していた。