プロローグ
「おまえさまっ、また浮気したねっ」
「痛っ、いたい、いたい、いたい、おね様、堪忍っ、堪忍してちょーだい」
風采の良くない小男が、気丈そうな女に怒鳴り飛ばされている。
「何度目だと思ってんの!」
「えーと、えーと……5回目だがや」
「今年に入って、12回目やーっ」
指折り数えた男の頬に女の拳が会心の一撃を見舞った。
そのあまりの見事さに思わず感心してぱちぱちと手を叩いた。
「弥々丸……どうしたね?もう遅いから寝んと。子供は寝るのも仕事だよ」
驚いた顔で女が振りむく。
正式には弥勒丸と言うが、そう呼ばれるのは改まった席でだけだ。
「かわや、いく」
「おやおや、あんたはエライ子やねぇ。それくらいの年の時、市やお虎は、しょっちゅうおねしょしてたんだけどねぇ」
立ち上がった女は、羽織っていた打掛をそのまま畳に落とし、間着姿で歩き出す。
「……いちととらがおねしょ?」
「そうさね。市は今は大人な顔してるけど、やんちゃなくせに泣き虫だったんよ」
「ふぅん」
手をつないで長い廊下を歩く。
厠までは遠い。途中の道は暗いし、段もあって幼児には困難だ。そして、市松が厠の肥溜めに落ちた話を聞いて以来、絶対に一人では行かないと決めていた。
「……おっかあ、おっとう、のびてたな」
ぎゅっと握り締める手の暖かさが好きだった。
「あれくらい、ええんよ。まったくおっとうは浮気もんで仕方ないわ。……あんたはよそで女子こさえて、女房を泣かすような真似したらあかんよ」
「……うん」
よくわからないながらもうなづいた。
呆れたような母の笑みは慈しみに満ちていて、本当に仕方ないと思っているようだった。
その笑みをとても美しいものだと感じる。
「弥々丸はいい子だね。あんたはあたしの宝だよ」
「たから?」
「そうや。あたしとあの人の一番の宝だよ。……この城も、上様からいただいた駿馬も、立派な茶碗やお道具も、おまえに比べたら何の価値もないさね」
嬉しくなって笑うと、母も笑った。
心がほっこりと温かくなった。