第二章 玉座の裏に潜む影 ―― 第二部 《奇妙な幻視の訪れ》
ユカリはゆっくりと顔を上げた。
紫水晶のような双眸が、まっすぐ俺を射抜く。
その視線はどこか異質だった。
薄く浮かべた微笑みの奥に、深い霧のような謎が沈んでいる。まるで決して他人に見せるつもりのない秘密を、幾重にも隠しているかのようだった。
エヴリンは俺の表情をちらりと窺い、それからユカリへと視線を移す。
張り詰めた沈黙が部屋を支配していた。
その重苦しさに耐えかねたように、彼女が口を開く。
「……二人は知り合いなの?」
できるだけ穏やかな声音だった。
その言葉で場を和らげようとしているのがわかる。
ユカリはくすりと小さく笑った。
その仕草は優雅で美しい。
だが、どこか人形じみた不自然さがあった。
「申し訳ございません、エヴリン殿下。ただ、HeavLyの伝説と呼ばれるお方に少し興味があっただけです」
――また、その言葉だ。
胸がどくりと脈打つ。
伝説。
ユカリの口から発せられたその言葉は、単なる賞賛には聞こえなかった。
どこか懐かしく。
そして不気味だった。
以前、エリシアも似たようなことを言っていた。
だが、俺にはその意味がわからない。
エヴリンは俺の戸惑いに気づかないまま、小さく頷いた。
「そう。ならちょうどいいわ」
彼女は椅子に腰掛けたまま、真剣な眼差しをユカリへ向ける。
「あなたに頼みたいことがあるの。王国の役人たちを調査してほしいのよ。最近、権力を私物化している者がいる気がするの」
少しだけ目を伏せる。
「王国に悪人を置いておきたくないの」
ユカリは深々と頭を下げた。
完璧なまでに美しい礼だった。
しかし身を起こす直前、その瞳がこちらへ向けられる。
鋭い。
冷たい。
まるで獲物を観察する捕食者のような視線。
「承知いたしました、エヴリン殿下。必ずやご期待に応え、彼らを監視いたします」
彼女は静かに立ち上がった。
「それでは失礼いたします。お二人のお時間を邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
コツ――コツ――コツ。
高い靴音が大理石の床に響き、やがて遠ざかっていく。
だが、彼女が去った後も何かが残っていた。
微かな寒気。
肌を刺すような冷たい気配。
胸の奥をざわつかせる闇の気配。
……あの感覚だ。
ヴォラと対峙した時。
いや、俺自身から溢れていたあの禍々しい力と酷似している。
「リュウ? 何を考えているの?」
エヴリンの声が俺を現実へ引き戻した。
「あ……すみません」
俺は慌てて首を振る。
嫌な予感が頭の中で警鐘を鳴らしていた。
だが今それを口にすることはできない。
「……話の続きを聞かせてください」
エヴリンは柔らかく微笑んだ。
その優しい笑顔が、胸の中の混乱を少しだけ和らげてくれる。
「安心して、リュウ」
彼女は静かに言った。
「あなたの力について、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
青い瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。
「孤児院の院長先生、私の補佐をしているアイリス、そして私。この三人があなたの力を封印する方法を知っているわ」
「だから、その人たちがいる限り、大丈夫」
そう言うと、エヴリンは立ち上がった。
「ついてきて」
俺たちは部屋を後にする。
王城の内部は、まるで神々の宮殿だった。
高く湾曲した天井にはHeavLyの古い歴史が黄金の彫刻で刻まれ、巨大なクリスタルシャンデリアが柔らかな光を放っている。
純白の大理石で造られた壁面は鏡のように磨き上げられ、歩く俺たちの姿を静かに映し出していた。
あまりにも豪華だ。
こんな場所に自分がいることが信じられない。
やがて俺たちは一枚の大きな木製の扉の前で足を止めた。
複雑な彫刻が施された重厚な扉。
エヴリンはそっとそれを開く。
「今日はここで休んで」
優しい笑み。
俺は部屋の中へ足を踏み入れ――その場で立ち尽くした。
広い。
あまりにも広い。
豪邸どころではない。
彫刻が施された天蓋付きのベッド。
雪のように白い絹のシーツ。
足元には厚い絨毯が敷かれ、まるで雲の上を歩いているかのような柔らかさだった。
高い天井には無数の星々が彫刻され、まるで夜空そのものが部屋の中に閉じ込められているように見える。
王か、それ以上の存在のために用意された部屋。
そんな印象だった。
俺はゆっくりとベッドへ腰を下ろす。
身体が沈み込む。
信じられないほど柔らかい。
だが心は落ち着かなかった。
――どうして俺がこんな部屋に?
――以前の俺はここで暮らしていたのか?
――俺は……一体何者なんだ?
答えのない疑問が次々と浮かぶ。
意識を押し潰すように。
その時だった。
――ドクン。
頭の奥が激しく疼いた。
「っ……!」
熱した杭を脳に打ち込まれたような激痛。
「ああっ……!」
俺は頭を抱え込む。
爪が頭皮に食い込むほど強く。
その瞬間。
バタンッ――!
大きな窓が突然開いた。
夜風が部屋へ吹き込む。
カーテンが大きく翻り、冷気が肌を刺した。
だが、それ以上に恐ろしかったのは頭の痛みだった。
「な……何が……起きてる……」
視界が暗転する。
そして次の瞬間。
世界が赤黒い光に包まれた。
――無数のAbberents。
地平線を埋め尽くすほどの大群。
黒い津波のように押し寄せる怪物たち。
空は闇に覆われ。
大地は絶望に呑み込まれる。
数千。
いや、数万。
その軍勢は世界そのものを食い潰そうとしていた。
俺は息を呑む。
身体が凍りつく。
そして――。
「っ……!」
視界が元に戻った。
俺はベッドから飛び退くように後ずさる。
呼吸が乱れていた。
額からは冷たい汗が流れ落ちる。
肩が震えている。
「あれは……何だったんだ……?」
掠れた声が漏れる。
その時だった。
――リュウ・セレスティア……
女の声。
甘く。
どこか艶を帯びながらも。
底知れない重さを孕んだ声。
誰もいない部屋の中で、確かに俺の名前を呼んだ。
俺は咄嗟に耳を塞ぐ。
「やめろ……!」
だが意味がない。
その声は空気から聞こえるのではない。
直接、頭の奥へ響いてくる。
「やめろ……やめてくれ……」
姿はない。
気配もない。
それでも確かにそこにいる。
俺の記憶の奥底に。
失われた何かを求めるように。
忘れてしまったはずの過去を呼び覚ますように。
その声は、静かな夜の闇の中でなおも俺の意識へ囁き続けていた。




