EP 15
帝都の夜は、ダーナ村のそれとは違い、どこか冷たくて人工的な静けさを持っていた。
リリアーナ伯爵の屋敷、その豪奢な客室の片隅で、良樹は天蓋付きのベッドに腰掛けたまま、深くうなだれていた。
水竜討伐の熱狂も、特上鰻丼の極上の味も、今の良樹の心を晴らすことはできない。豪華な絨毯を見つめる彼の背中は、中二病の覇気など微塵もなく、ただの自信を喪失した青年のそれだった。
「どうしたの? ヨシキさん」
ふわりと、石鹸の甘い香りが漂ってきた。
気がつけば、ルナがベッドの傍らに立ち、心配そうに良樹の顔を覗き込んでいた。薄手の寝着に着替えた彼女の、無防備な鎖骨のラインと、ほんのりと上気した白い肌がランプの灯りに照らされている。普段ならドギマギしてしまう距離感だが、今の良樹にはそれすら目に入らなかった。
「……ルナたん」
良樹は力なく言葉をこぼした。
「せ、拙者は……ただ丼を出すだけでござる。モウラたんのように竜を殴り飛ばせるわけでも、ロード殿のように炎を吐けるわけでもない」
良樹は、自分の不甲斐ない両手を見つめた。
「拙者って……丼を出さなかったら、何の価値も無い。戦闘力は皆無で、いつも逃げ回ってばかりの足手まといでござる。拙者は……丼を出せなかったら、こうやって、ルナたんたち猛者と肩を並べて一緒に居ることだって、許されない存在なんでござるよ……」
ギリッ、と良樹が唇を噛み締めた、その時だった。
「そんな事ないわよ!!」
ルナの強い声が、静かな部屋に響いた。
彼女は良樹の前に屈み込み、その両手を、自身の温かく柔らかい両手でギュッと包み込んだ。
「何を言ってるの!? ヨシキさんはヨシキさんだから、私たちは一緒にいるんじゃない!」
ルナの真っ直ぐな瞳が、良樹の右目(眼帯の奥)を真っ向から射抜く。その顔が極限まで近づき、彼女の甘い吐息が良樹の頬を撫でた。
「思い出してよ。一番最初、私が野盗に襲われそうになった時、ヨシキさんは震えながらも、私を背中に庇って助けてくれたじゃない! ロードがボロボロになって倒れていた時だって、徹夜で薬草をすり潰して手当てしてくれたのはヨシキさんよ!」
ルナの胸元が激しく上下し、その熱を帯びた声が良樹の胸の奥底を揺さぶる。
「それは、丼の力じゃないわ! ヨシキさん自身の、優しくて勇気のある心があったからこそよ! 丼が出せなくたって、ヨシキさんは私たちの、かけがえのない大切なリーダーなんだから!」
「ルナたん……」
良樹は、自分を力強く握りしめるルナの小さな手の温もりに、思わず目頭を熱くした。
中二病の殻を被って虚勢を張っていただけの自分を、こんなにも真っ直ぐに肯定してくれる存在。彼女の健気で甘酸っぱい愛情が、冷え切っていた良樹の心にじんわりと染み込んでいく。
「……少し、夜風に当たってくるでござる」
良樹は、これ以上彼女の顔を見ていると情けない涙をこぼしてしまいそうで、照れ隠しのようにそっと手を離すと、足早に客室のバルコニーへと出た。
外に出ると、帝都の夜風が火照った頬を冷ましてくれた。
バルコニーからは、月明かりに照らされた広大な庭園が見渡せる。ふう、と大きく息を吐き出した良樹の鼻腔を、今度はルナの石鹸の香りとは違う、大人の女性特有の、濃厚で甘い薔薇の香水がくすぐった。
「悩んでいるようですね、ヨシキ様」
バルコニーの隣の区画から、しっとりとした声が響いた。
見れば、薄いシルクのネグリジェを一枚羽織っただけのリリアーナが、月明かりの下で手すりに寄りかかっていた。透けるような生地の奥に、豊満な胸の谷間と、女性らしい柔らかな腰の曲線が官能的な影を落としている。
「リリアーナ殿……」
良樹は、その夜の帳に溶け込むような妖艶な姿に一瞬息を呑んだが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……拙者は、今になってようやく、馬車の中でのリリアーナ殿の気持ちが痛いほど分かりましたる。強力すぎる異能、あるいは偏りすぎたスキル……それに振り回され、自分自身の本当の価値を見失う恐怖。拙者は……拙者は、ただのメシ炊き係に過ぎないのではないかと」
良樹の弱音を、リリアーナは静かに、慈愛に満ちた瞳で受け止めた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、良樹のすぐ隣に立つ。ネグリジェ越しの豊かな胸部が良樹の腕に触れそうなほど近い距離。彼女の体温と甘い匂いが、良樹の理性を甘く麻痺させる。
「ヨシキ様。ここに行きなさい」
リリアーナは、胸元から一枚の小さな羊皮紙を取り出し、良樹の手にそっと握らせた。彼女の白魚のような指先が、良樹の掌を艶かしく撫でる。
「これは……?」
良樹が羊皮紙を開くと、そこには帝都の入り組んだ路地裏の地図と、ある一つの住所が記されていた。
「私の知り合いの、ドワーフの鍛冶師が工房を構えている場所ですわ」
リリアーナは、夜風に金色の縦ロールを揺らしながら、優しく微笑んだ。
「私が『ランダムボックス』から出した出処不明のガラクタ(謎の素材)を、嫌な顔一つせずに買い取って、見事な細工に加工してくれる、帝都でも指折りの偏屈な職人ですの」
「鍛冶師……」
「ええ。彼なら、今の貴方の力になるかもしれません」
リリアーナは良樹の頬にそっと手を添えた。その手のひらは、伯爵令嬢の冷たさではなく、一人の女性としての温かい熱を持っていた。
「ヨシキ様……貴方は、かつての私のように、自分自身の『スキル』の呪縛に負けてほしくない。貴方の根底にあるその優しさは、決してスキルなんかじゃありませんわ」
その言葉は、先ほどのルナの言葉と全く同じ温度を持っていた。
(ルナたん……リリアーナ殿……)
二人の女性からの、異なる形でありながらも深い愛情と肯定。
良樹の瞳から、迷いの霧がスッと晴れていく。自分は無力かもしれない。戦闘力はないかもしれない。しかし、自分を信じてくれる仲間がいて、自分の作る『丼』が皆を笑顔にしているのは紛れもない事実なのだ。
ならば、自分のこの貧弱な手で、どうやって皆と肩を並べるか。その答えを、見つけるしかない。
「……ありがとうでござる、リリアーナ殿」
良樹は、しっかりと前を見据え、握りしめた羊皮紙を胸ポケットにしまった。
その表情には、帝都に来てからずっと張り付いていた社畜の疲労感は消え、中二病の誇り高き覇気が、静かに、しかし確実に炎を上げ始めていた。




