箱入り娘
僕は少し嫌味を込めて聞いてみた。感情を失うなんてことはあり得ない。
「今、嫉妬という感情を抱いていませんか?それに、どなた、ですか?」
彼女は顔を俯かせて、少し考えてから答えた。
「あなたのことは、知っているわ。今日、デザイン評価システムを導入した方でしょう」
僕はとても驚いた。そして、顎に手を当て、透き通る思考でありとあらゆる仮説を立てた。そして一番納得がいく問を投げてみた。
「あなたは、社長のお嬢様ですね?」
彼女は目を大きく開く。
「……なんで」
考えるより先に言葉が溢れ出た。
「今は全従業員に対して、システムを導入したわけではありません。部長を含めた上役だけです。そんな地位の人が業務時間内に外をうろつくことは基本的にあり得ない。でも、あなただけは、特別な気がしただけです。単なる仮説です。本当にそうだとは」
「へー。頭が切れるようね。でも、そこまで考えたとしても、普通は社長のお嬢様なんて、本人に対して言わないわよ」
僕の頬は緩んだ。
「それは失礼しました。事実を申し上げただけです。気を悪くしたなら謝ります。でも、感情がないのでしょう?」
彼女は僕の悪意を込めた言葉にも、平然とした表情を崩さなかった。
「それにしても、論理飛躍が過ぎるわね」
その言葉にズキリと頭が痛んだ。
りすく屋の老人の言葉が脳裏をよぎる。
論理飛躍薬。
僕はそれを以前、飲んでいたことを思い出した。とっさに口から言葉が漏れる。
「もう、論理飛躍薬の効果は切れて──」
そこで僕は彼女がそのことを知る由もないことを悟った。けれど、彼女の目は何かを物語っていた。
「……論理飛躍薬。もしかして、それは、こんな箱に、入っていたのかしら」
彼女は鞄から、白い箱を持ち上げた。
「なるほど。あなたもあの店の対価を払ったのですね」
「薬って、思ったより長く残るのよ」
僕は感情を抑えられなかった。
「僕の家で話しませんか?」
「社長の娘を家に連れ込む気?」
「あなたもそれを望んでいるでしょう?」
返事はなかった。
すると、就業時間の終わりを告げるチャイムが、かすかに耳に届いた。
会社の人間がやって来る。
僕は彼女に会釈して、帰路を急いだ。
もう一つの足音は、静かに僕の後ろをついてきた。
──「適当にくつろいで下さい」
彼女は僕の家にスタスタと入った。本当に感情を失ったのかもしれないと、僕はこの時はじめて思った。
「狭くて、汚い部屋ね」
その言葉に、僕は、ただただ嬉しかった。
忖度ない酷い言葉。でもそれは、安心にも似た感情を抱いていた。
「率直に聞きます。感情を失う代わりに何を手にしたのですか」
彼女はちょこんとソファーに腰掛けると、小さな声で言った。
「皮肉よ……皮肉を言うことと引き換えに感情を失ったの」
僕は驚いた。
「皮肉なんて、誰でも言え──」
そこで彼女は口を挟んだ。
「言えないのよ。少なくとも、過去の私には」
僕は頭をかいた。
「やっぱり、お嬢様だったのですね。ふふ、箱入りの。でも、前からりすく屋のクスリを?」
「そうです。机の引き出しには、色んなクスリの箱が閉まってあります。その……日常的にクスリを飲んでいました」
彼女の口調はさっきまでと、どこか違う気がした。でも、なぜか本当の言葉のような雰囲気があった。
「人間だれでも、クスリやその場しのぎの嘘のようなものに依存してしまうものです。今はクスリのおかげで、透き通るような思考を手にしています」
そう告げると、僕の脳はとても熱くなった。
……思ってしまっている。
クスリを飲むことは常識、と。その理念は”常識無効薬”に矛盾している。だが、どっちに転んでも矛盾するように思えた。クスリを飲まないことが常識とも言える。常識とは何なのか。僕の視界は徐々に色を失った。
「大丈夫ですか?急に顔が赤くなりましたよ」
彼女の心配する顔は人間味に溢れていた。
だが、さらに口が勝手に開いたように見えた。
「いかがわしい妄想でも、しているのでしょう?」
彼女は口を押えた。その瞬間、表情が消え、態度が冷たくなった。
矛盾している。この世界はいつもどこかおかしい。それをクスリで強制しても、辻褄が合わなくなる。
僕は、理解してしまった気がした。
それが、リスクなのだと。
頭が、燃えるように熱い。
思考の輪郭だけが残り、内容が溶け落ちていく感覚だった。
かすかに声が聞こえたが、それは彼方に消えた。




