常識無効薬
気づいたときには、すでに仕事をしていた。
僕の指はキーボードの上を迷いなく走り、画面には意味のあるはずのコードが並んでいる。
息をしていないことに、しばらく気づかなかった。
苦しくない。胸も上下しない。ただ、それが当たり前のように感じられた。
洋服のデザインに関わる仕事。
正確には、その裏側。形ではなく、仕組みを作る。最新技術を縫い込むプログラマー。
頭の中で、自分自身を定義する。
そうしなければ、思考の輪郭が崩れ、何もない空白に落ちてしまう気がした。
普通じゃない。
けれど、そう思い起こすことさえ、今の僕には必要だった。記憶抹消薬を口の中からつまみ出した。その記憶が、今までの記憶を侵食していた。
「部長、デザインプログラムの実装が完了しました。確認をよろしくお願いします」
部長は視線だけで頷くと、忙しそうにヘッドセットを頭につけた。
部長は引き出しから小袋を取り出し、口に含む。そのパッケージにはストレス緩和チョコと書かれていた。
僕は自席に戻り、同僚の机を見た。
そこにはエナジードリンクの空き缶が散乱していた。
遠くの席の知らない人は、黄色い錠剤を手にしていた。
誰もが、何かを、口にしていた。
それが薬かどうかを、気にする者はいなかった。
言われた仕事を遂行するのは、常識。
毎日会社に向かうのは、当たり前。
一年の八割を社会に服従するのは、一般的。
体調が悪いとき薬を飲むのは、普通。
僕は机から箱を取り出して、ひと粒飲んだ。
特に何も感じなかった。
会社帰り、りすく屋がそこにあった。
クスリに対する恐怖は、あっという間に薄れていた。むしろ今は飲むことが”当たり前”とさえ思えた。
「何を飲めば……」
そのつぶやきは棚の中に消えた。
棚の奥に、いつもと雰囲気が違う目玉があった。今日の老人はどこか静かな雰囲気だった。僕の顔は少しだけ緩んだ気がした。
店内のクスリを吟味していると、奥から老人の声が聞こえた。
「探しものは、これだろう?」
老人は一つの箱を僕に差し出した。
その箱に書かれた名前を見る。僕の鼓動は静かに跳ねた。
「常識無効薬」
僕はそれを見た瞬間、目の前が真っ白になった。
時間が止まったかのように頭の中を思考がかけめぐった。
今までの人生。
社会での行動。
朝起きてから夜寝るまで。
僕は、常識の奴隷だった。
「……それ、です」
僕は財布をそのまま、棚に置き、老人に会釈した。
そしてりすく屋の扉を出た。僕は無意識に箱からクスリを取り出していた。白い錠剤が月明かりに溶けた。
──「遅刻して、何の連絡もなしか?」
僕は、淡々と言った。
「昨日夜遅かったので、寝ていました」
それ以上、説明する理由が思い浮かばなかった。
部長は僕の顔を睨みつけていた。
僕は自席につくと、仕事をはじめた。
カタカタとプログラムを作る。
この会社に必要なこと。人を助けることを。
休憩時間も会議の時間も関係ない。
僕がそこにいなくても、会社は回る。
だから問題ない。
僕はプログラムをアップロードした。
洋服のデザインが作りやすくなるシステムではない。
デザインに対して匿名で評価できるシステム。
この会社のデザインだけではない。
世の中のすべての洋服を評価することができるシステム。
その積み重ねが、真にいいデザインが生まれると僕は思った。
僕は、評価に感情を混ぜなかった。
それが一番、公平だと思った。
時計の針はまだ、業務時間を指していた。けれど、僕は会社を後にした。雑務も最低限こなした。帰っても問題ない。
僕は自由を謳歌した。
心が軽い。今日は何にも、縛られることはなかった。
でも……クスリがなければ、この世界は虚無だ。
僕はまた、常識無効薬をひと粒飲み込む。頭が透明になる。さらにカバンから様々なクスリを取り出した。そしてそれをひと粒ずつ飲んだ。
すると、頭の中が、ゆっくりと壊れた。
でも、それでよかった。
感情が溢れてくる。
悲しみ、怒り、焦り、笑い、驚愕。
顔の表情が、定まらなかった。
すると、背後から冷たい声が聞こえた。
「楽しそうで、何よりですわね」
僕は振り返った。
そこには、冷たい表情の女性が立っていた。ブランドの鞄に、華やかなワンピースを着こなしている。僕に構わず、続けて口を開いた。
しかし、身体の向きと顔の表情が違う気がする。まるでその口は、彼女の意思に反して動いているかのように見えた。
「私にも、その顔から溢れ出る感情を分けてもらえないかしら。私、感情を失ってしまったの……」




