窒息薬
靴底が床に触れた瞬間、警報が鳴る気配はなかった。
それなのに、胸の奥だけが妙にうるさい。
ガラスケースは開いていた。
開けた記憶はない。
指先が、そこにあるはずのない小瓶をつまみ上げる。
軽い。拍子抜けするほど軽い。
盗るつもりはなかった。
少なくとも、これじゃなかった。
背後で風が揺れた気がして、振り返る。
誰もいない。店内は静まり返っている。
内ポケットに小瓶を滑り込ませた瞬間、
理由の分からない安堵が、喉をなぞった。
ぼうっと光る裸電球は周囲を薄暗く照らしていた。
光の中を白い粉末がキラキラと光る。
その粉末は、俺の視線に合わせて、奥へ奥へと流れているように見えた。
酸性の匂いが徐々に濃くなる。露出した皮膚からチクチクするような痛みが走った。
警鐘が、頭の中に響く。
しかし、底知れない魅力がここにはあった。
カサッと薄い紙を踏んだ感覚が靴底から伝わる。俺はピタリと動きを止め。息を殺した。
……人の気配はない。
けれど、視線のような違和感だけが、心のどこかを貫いていた。
俺は足元の紙を手に取り、指でなぞった。ざらついた手触りの長方形。紙のこしは強い。
俺の顔は自然とにやけた。
懐中電灯でそれを確かめる。透かしの人物の名前は知らない。俺はゆっくりとそれをかき集め、バックに詰めた。部屋にばらまかれた紙幣。集めても集めても終わりが見えない。
大量に、それも無造作に。
……放置され過ぎている。
集めている手には喜びよりも、違和感が勝っていた。
ふと、壁の一片を見ると、天井まで続く棚に無数の箱が押し込まれていた。
その時、ゆっくりと扉が開く音がした。俺は棚の隙間からそれを覗く。そこにはスーツ姿の青年の姿があった。まるで、何かを失った直後みたいに、顔色が抜け落ちていた。
一瞬、目線があった気がした。慌てて、顔を棚から離す。しかし、青年の顔は、「やっと来た」とでも言うように、なぜか緩んで見えた。
これ以上の長居は無用だな。
俺はゆっくりと、もとの通路をたどった。
店から出る直前、店内に風が舞った。紙幣が重なり合い、宙を舞う音。それに続いて、バフっという何かを吹き飛ばす音が鳴る。
背筋をなぞるような寒気が走った。
……背後に、何かいる。
俺は店から出ると、足早にその場を後にした。
夜風が頬をなでる。
いつもの仕事なのに、妙に実感がなく、身体がどっと疲れていた。
自宅に戻り、バックを開いて驚愕した。
一千万円はくだらない量の札束。俺はそれを机に取り出す。だが、紙幣の端々に白い粉が付着していた。さらには紙幣と紙幣の間に、白い錠剤が挟まっている。
これじゃあ、使えない、とため息が漏れた。
急に背筋が寒くなる。頭が痛い。喉が渇く。筋肉が悲鳴を上げた。
背筋が粟立った。
これは、触れていいものじゃなかった。
まぶたがとても重い。
俺は朦朧とした意識の中、水を飲むために冷蔵庫を開けた。
開けた瞬間、ボロボロと何かが崩れ落ちた。あっという間に冷蔵庫の前は、何かで埋め尽くされた。俺は冷蔵庫の中を、じっと覗く。
──ギョロリ。
俺は後ろに飛び上がった。
目玉。血走った大きな目玉が、そこにあった。
カラカラと尻もちをついた場所は、うるさく鳴った。
身体を支える手は沈み込み、うまく体勢を保てない。足がつるように痛んだ。
俺は埋もれた。視界には大量の白い箱。
手も足も箱に沈み込み、身動きが取れない。
「み、みず……水を」
喉の渇きが、思考を深く貫いている。
喉が焼けるように熱い。
腕が虚しく、空をつかむ。
身体を酷くよじると、ジャケットの内ポケットから小瓶がカタリと飛び出してきた。小瓶の液体が重みを持って波打つ。目に映った瞬間、俺の手は栓を抜き去り、口にそれを突っ込んだ。
喉が潤う。
うますぎる。
思考が渇きへの衝動を弱め、理性が少しだけ、戻ってきた。
”これを飲んではいけない”その思考は確かにある。だが、俺の身体は言うことを利かずに飲み込み続けていた。
すると、冷蔵庫から低い声が聞こえた。
「お前さん、それらを持ち帰るには対価が大き過ぎたようだな」
視線だけ冷蔵庫に向ける。目玉は俺を見つめ続けていた。
低い声は冷たく突き放すように続ける。
「窒息薬と名付けよう。お前さんのことは、箱にだけ、刻んでおいてやるよ」
俺は箱に埋もれ、
もう、呼吸を必要としなかった。




