皮肉吐き薬
──次の朝。私は執事が来る前に、薬をひと粒飲み込んだ。
ゴクリッと喉を通った瞬間、頭の中に黒いノイズが走った。
視界が少し暗くなっている気がする。
私は部屋の電気をつけた。
「まぶしっ」
思わず手で顔を覆う。
窓まで歩いて、カーテンを開けた。柔らかい日差しが心地よかった。外は清々しく晴れ、庭の木にとまった小鳥たちは、かわいい声で合唱していた。
雑然とした街の景色と違って、自然はとても心地いい。窮屈な家でも、この景色だけは好きだった。
私は部屋の中に向き直した。
強い光は部屋を照らしている。
すると、思考よりも先に口が勝手に動く。
「こんなに強い光で、みんなよく普通にしていられるわね」
私は大きく目を開き、口を手で押さえた。
自分の言葉に驚くよりも、感動していた。
「皮肉ってこんな感じなのね!」
もう一度、りすく屋さんの箱を見た。
”皮肉吐き薬”
私は頷いた。皮肉を思いつくのではなく、吐いてくれる薬。私にはできないこと。それが今はできる。私は飛び上がるように執事を呼んだ。
すると
「私が必要と思うまで来ないなんて、良い仕事ですこと」っと口は言う。
私は鳥肌が止まらなかった。
これが皮肉。今までとは全然違う言葉。
執事は私の目を見つめていた。
私はなぜか、斜め下に目線を反らせた。真っ直ぐに顔を向けることができない。
だけど、胸の奥が、熱を持っていた。
「お嬢様」
その瞬間、私は少し浮いた。
「大変申し訳ありません。以後気をつけます。しかし、ご立派な態度になられましたね。いいことでもありましたか?」
執事は笑ってみせた。
なんとなく、皮肉を返されたような気がした。
けれどそれが、不快ではなかった。
口はまた、勝手に動く。
「そんなことも察してくれないのなんて、いったい毎日何を見てきたのかしら」
これは言い過ぎなのではないかと、一瞬だけ思う。
けれど執事は、さっきよりも大きく笑った。それにつられて、私も笑ってしまった。
「お嬢様。大人になられましたね。さぁ今日は忙しいですよ。夕方からは会食ですからね」
私の頬は張力を失ったように、落下した。忘れていた。会食。最も嫌な行事。
私の口は、なぜか大人しかった。
執事を部屋から追い出すと、箱の裏を見た。
印刷された”効果時間”に取消線が引かれている。
代わりに”効果回数 3回/粒”と手書きされていた。
私は驚愕した。ひと粒で、たったの三回。
……でも確かに高度ではある。脳が考えた言葉を口が勝手に吐き出す。それは、今までの病気を患う薬とは性質がまるで違っている。
「皮肉を数えて、そのたびに飲めばいいのね」
私はそう理解して、箱を鞄にしまった。その他の記述には目を通さなかった。
午前中はピアノに社交ダンスのレッスン。午後はパパの会社で洋服のデザインレビュー。
私はレビュー会の直前に、薬をひと粒飲み込んだ。
「なぜこの生地が、若者に好まれると思って?」
「このデザインを考えるのは、たいそう時間がかからなかったのでしょうね」
「あなたが着てみたら、答えは分かるんじゃないかしら。鈍感でない限りね」
賞賛の声が上がった。いつもは思っても、褒めて終わるのに、今日は違った。
皮肉は、良いものを壊すための言葉じゃない。
見定めるための言葉だ。
いや──そう思わせてくれる薬だった。
私は嬉しくなった。この薬があれば、きっと、うまくいく。
その後も私は、誰にも見られないように、回数を数えながら薬を飲み続けた。
……私はとても高ぶっていた。
──夕方。執事に連れられて、会食に出掛けた。パパの会社に関係がある、社長の息子。彼は世界の中心が自分であるかのように自信家で極度のナルシスト。私はその言動を見るたびに嫌気がさしていた。
上品なレストランには、すでに彼がいた。
茶色いパーマの髪の毛を塗り固め、への字の眉毛は不自然に整っている。ラメの入った灰色のジャケット。その中には白い──たぶんタンクトップ。黒光りするピチッとしたズボン。振り上げる手には金色の時計が輝いていた。
もうこの時点で帰りたかった。
でも、パパの大切なお客様だ。その扱いを無下にすることはできない。
案の定、会食はとても辛かった。
「──でさ、俺が言ってやったんだよ。そんな中小企業、買収しちまえってね。そしたら青ざめちゃってさ」
うるさい。
「──俺が顔をしかめれば一発なんだよ」
知らないよ。
「──俺が、──俺が、──俺が、」
私はガタリと椅子を引き下げた。
「申し訳ありません。少々お化粧直しに行ってまいりますわ」
彼は目を細め、何か言っているようだったが、それは耳に入らなかった。
何度もお化粧直しに行くことはできない。しかし、ひと粒では、たったの三回しか皮肉を言えない。三回などでは全然足りない。すでに私は、”飲むか飲まないか”ではなく、”何粒飲むか”を考えていた。
「はっはっは!だから言ったろ、俺が──」
彼の無神経な声がここまで届いた。
もう我慢の限界だった。私はすべての錠剤を取り出すと、それをぐいと飲み込んだ。
視界が黒く染まる。箱を鞄に投げ込むと、箱の注意書きは、黒く滲んで読めなかった。
彼は私が席につくなり、話しかけてきた。
それと同時に、黒い思想が私を包み込んだ。
「戻ったか、俺が思うに……」
「さきほどから、俺が俺がとそれしか、能がないのですか?」
その場にいる人々は凍りついた。
私の胸の奥で、何かが弾けた。
これだ。これが欲しかった。
私の口は止まらない。
「あなた方も本当に彼の言葉に賞賛しているのですか?こんなに無能で無頓着な話を聞いて楽しいですか?」
彼はガタリと椅子を跳ね除け、立ち上がった。
「おい!誰に向かって口を聞いている!?」
「なるほど、お可哀想に、理解できなかったのですね」
黒い思想は執事が止めに入っても、止まることはなかった。
私は、半ば引きづられるようにレストランから連れ出された。
車の中で何も言わない執事に、私は意味もなく皮肉を言い続けた。しかし、何も返答はない。
家に戻り、無言で私の部屋に連れられる。
ようやく執事の口から声が聞こえた。
「お嬢様。今日はもう、お眠りください。大変お疲れと見えます」
私の口は待ってましたと、捲し立てるように大きく開く。
「どうしてこんなに、絶好調なのに……」
執事は私の口を塞ぐように優しく抱きしめた。私の口はパクパクと勝手に何かを告げる。
やがて私の思考から、黒いものがゆっくりと薄れていった。すると身体の力が急に抜け落ちた。執事の肩を借りて、ベッドに横たわる。
その後の記憶は、すべて淡い黒だった。




