私だけの楽園
鬱蒼とした埃の匂いと鼻腔をツンと刺す酸性の香り。扉を開けた瞬間に、現実を忘れられる。ここは、私だけの楽園。
「いらっしゃい」
今日も目玉のおじさまが出迎えて下さった。
私は片足を曲げて、挨拶した。
「今日もとっておきをお願いしますね」
おじさまの目玉は優しげな表情で棚の奥に消えた。
蜘蛛の巣と埃にまみれ、見事にくすんだ棚。そこに積み重ねられた箱はベコベコにへこんでいて、少し黄ばんで見える。私は少し笑った。”ベコベコ”なんて形容のやり方をこの前教えてもらった。それがとても嬉しかった。
「うん、最高の空間ね」
床はギシギシと軋み、歩くたびに音楽を奏でる。私は棚からひとつの箱を取り出して、じっと眺めた。
「咳き込み薬」
咳止め薬ではない。頬が自然と緩んだ。
注意書きには、おじさまの字で色んなことが書かれている。それもまた魅力のひとつ。
効果時間
10分/粒
注意
止めたくても止まらない
大量に飲むと、呼吸困難でたぶん死ぬ
背中がゾクリとした。生々しい警告に痺れる。この刺激によって、私の呼吸は深くなる。
「こいつが今日のとっておきだ」
血管が浮き出た長い指に乗せられて、ひとつの箱が棚の下から現れた。
ワクワクが止まらない。
震える手でそれを受け取る。
「皮肉吐き薬」
心臓がドクンと鳴った。
足がその場で浮き、ギィギィと床が鳴る。
「なんて、素晴らしいものなのかしら!いつもありがとうござ……違ったわね」
私は意識して無表情を取り繕うと、おじさまの口調を真似て言った。
「もらってく」
口元だけは、緩んでいたと思う。
鞄から財布を出して、中身を取り出すと棚の下段にある空洞にソッと置いた。紙幣の束はふわりと揺れて、しっとりと棚になじんだ。
私はじっとそれを見つめた。吸い込まれる瞬間がとても嬉しい。それは私の存在を肯定してくれる気がしていた。
音もなく、紙幣は空洞に消えた。鳥肌が背中を伝う。そしてボフッとひとつの箱が出てきた。私はそれを鞄に詰め込み、おじさまに向けて手を振った。
「また来ますね」
「あいよ」
その目玉は、どこか遠くを見つめていた。
私は、りすく屋さんを出た。
外の景色に、はぁっと息を漏らす。
街灯に照らされた夜道は冷たく、黒い落書きのように広がっていた。
安物の絵の具で塗られた夜。
道が変わっても、その印象だけは変わらなかった。
私は敷地を分かつ柵を飛び超え、バルコニーから自分の部屋に戻った。退屈で冷たい部屋。ただただ広いだけで息が詰まる。
私は、りすく屋さんの部屋を思い返しながら、ベッドの中で丸くなった。
ベッドの手すりに掛けた鞄から、小さな鼓動を感じた。それだけが温かかった。




