記憶抹消薬
僕はポカンと口を開けながら、りすく屋の店内を眺めた。
「僕は、どうやってここに来たのですか?」
棚越しに声が響く。
「そんなことは知らん。お前さんは、他の客がどうやってここに来たのか理由が分かるのかい?」
老人の問いに返す言葉が見つからなかった。
「……そうです、ね」
「どうやって来たかは知らんが
──入り口からすっ飛んできて、小一時間意識を失っとったのは確かだ」
老人はそう言いながら静かに笑った。
店の中は相変わらず箱で埋め尽くされていた。
すると急に、頭が軋んだ。視界が重力を失ったようにぐにゃぐにゃに歪む。その瞬間、屋上から地面に墜落した記憶が鮮明に思い浮かんだ。
背筋はビクンとその恐怖に慄く。鳥肌が足元から一気にかけ上がってきた。震えが止まらない。全身を悪寒が支配した。
頭の中に死のイメージがこびりつく。内臓が浮き上がる感覚。地面が迫ってくる映像。そして、真っ暗で冷たい感覚。
何度も、頭の中で反芻する。
そこにある、死。
僕は、嘔吐した。
身体の内側が膨らむように全身を吐き気が覆う。
「ほれ、こいつを飲みな。特別サービスだ」
老人は白い錠剤を僕に投げた。
「これは、何の、薬ですか?」
吐き気を抑えながら、僕は聞いた。
どこかで見たことがある気がした。
老人は、少しだけ笑った。
「知ってるだろ。記憶抹消薬だ」
僕はそれを拾い、手の平の上で転がした。
強い頭痛と酷い吐き気は視界を歪め続けている。
その白い錠剤は、まるで溶けたグミのように、
ぐにゃりと歪んでいる。
これを飲み込めば、楽になれる。
けれど……いったい僕は、何度繰り返してきたのだろう。
そのたびに何かを失い、人間ではなくなっていく気がした。
口と手は、強力な磁石のように引き合っていた。僕は必死にこらえた。
急激に視界が白くぼやける。
「おいおい、逝っちまったら意味がないだろう」
老人は笑っていた。
「ッッ……」
頭の痛みに弾かれて、僕の手は口にとりついた。
舌が錠剤を認識する。
苦味、酸味、辛味。その味を、知っている。
ざらついた成分がじわりと溶けだす。
それとともに、痛みが曖昧になっていく。
思考が虚ろになっていく。
また、消えていく。
痛みと虚ろの狭間で、僕の中の何かは、弾けた。
……ダメだ!!
僕は燃えるような頭の痛みを振り払い、
口の中に指を突っ込むと、舌の上の錠剤を、ぐいとつまみ出した。
そのとき、老人の目玉が僕を見つめていたことだけは、覚えていた。
僕は震える足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。白い視界が明滅する。
──ここにいてはならない。
ぼんやりとした思考はそれだけを僕に伝えていた。
一歩、また一歩と足を踏み出す。そして、店の扉を開けた。
白く濁った視界は、急に鮮明になる。
すると、背中にドンという衝撃が走った。
僕は転ばないように足を前に出す。
するとそこには、手を洗う蛇口が三つ並んでいた。正面には大きな鏡。周囲を見渡せば小便器と個室が並んでいる。水が流れる音が耳に届く。
「……なんで」
言葉が小さく漏れた。
ここは、会社のトイレだった。
……早く戻らないと、怒られる。
僕は事務所に小走りで戻った。
ふと、少しだけ胃がキリキリと傷んだ気がした。




