過剰摂取
「社会人なんだから」
「考えたってしょうがない」
「これをやるしかないじゃん」
会議室の白い壁に、そんな言葉が跳ね返っていた。
誰かが言ったはずなのに、そのときの顔だけが、どうしても思い出せない。
僕はそれを、嫌というほど聞き続けてきた。
資料のページをめくるたび、
「で、結局できるの?」
「難しい話はいらないからさ」
そんな言葉が被さる。
高度な技術でしか成り立たないこの社会で、僕は説明することを諦め、要点だけを削り、角を丸め、うわべだけの会話を続けるようになっていた。
昼休み、誰もいない給湯室で、マグカップの底を見つめながら、言葉が零れた。
「……不幸を感じなくても、意味ないな」
声に出した瞬間、それが独り言だと分かって、少し安心した。
僕は鞄からプラスチック容器を取り出す。
中に残っていた、最後の不幸衰退薬。
指でつまみ、確かめるように一瞬だけ眺めてから、口に放り込んだ。
水は使わなかった。
飲み込むと、胸の奥がすっと静かになる。
安堵だったのか、麻痺だったのか、もう区別はつかない。
用法用量は守っている。
少なくとも、守っている“つもり”だ。
廃人になんか、なりたくない。
けれど──
やっぱり、満たされない。
それも、分かっていた。
そんなことは、最初から。
容器をしまおうとしたとき、
中が空になっていることに、遅れて気づいた。
すると、鞄の底で、箱が小さく鼓動した気がした。
僕は鞄を覗いた。そこは果てしなく暗く、吸い込まれるような闇に見えた。
そこに、ぽつんと白い箱がひとつ。
不幸衰退薬の箱ではない。その対価を払ったときに、吐き出された箱だ。僕は、ゆっくりとそれを手に取った。
それを開けると、
三粒の白い錠剤が、ころん、と手のひらに落ちた。
軽い音だった。
あまりにも軽くて、現実感がない。
僕は手の中で、それを静かに転がす。
白い円が、皮膚の上を行ったり来たりする。
……考える間もなく、
僕はその手を、顔の高さまで振り上げていた。
──「私の話を、聞いていましたか?」
僕は部長に向かって、満面の笑みを浮かべた。
自分でも驚くほど、自然な笑顔だった。
「ええ。十分に考慮しました」
資料を、机の上に突き出す。
「これは、その結果です。ご配慮、ありがとうございました」
「なんだ、これは……?」
部長の眉が寄る。
「無価値な業務リスト、だと?」
僕は、さらに笑った。
「ははは。お分かりでしょう?」
声が、軽い。羽が生えたみたいに。
「どれもこれも、無意味です。やる価値がない。数字のお遊びですよ」
ページをめくる。
指先が、やけに饒舌だった。
「たとえば、この会議。結論は最初から決まっている」
「この業務もそうです。目的は曖昧、責任は分散、成果は幻想」
「やっている“ふり”をしているだけだ」
止まらなかった。
言葉が、論理が、次々と跳ねる。
部長の顔が歪む。
誰かが何かを叫んだ気がした。
そこで、記憶は途切れた。
──気がつくと、目の前にいたのは、暗い顔をした部長だけだった。
僕は、楽しかった。
ただただ、楽しかった。
どんな正論をぶつけられても、関係ない。
社会の常識?
一般論?
そんなものは、床に落ちた紙切れみたいだった。
今の僕には、何でもできる気がしていた。
だから、走った。
この、くだらない世界から跳躍するために。
屋上へ。
柵を越え、空へ。
世界が、輝いて見えた。
すべてから解き放たれ、
時間が、限りなくゆっくりになる。
窮屈で退屈な現実は、ただの空想。
無限に広がる大空こそが、僕の住むべき世界だった。
思考が、流星群のように頭の中をかけめぐる。
それが、とても楽しかった。
──でも。
空には、行けなかった。
全身が、突然、急降下を始める。
臓器が重さを失い、
地面が、壁のように迫ってくる。
……そして。
真っ暗になった。
大きな衝撃とともに、身体の芯から、冷えていった。
………
……おい……
……坊主……
……そりゃ……
かすれた声が、どこかで笑った。
……「論理飛躍薬」だ。
次の瞬間、
鼻腔をツンと刺す酸性の匂いが、突然襲ってきた。
僕は反射的に身体を起こす。
──起こせた。
起こす身体は、残っていた。
胸、腹、腕、脚。
ペタペタと確かめるように触る。
どこも欠けていない。
そのとき、
背後に、はっきりとした気配を感じて、鳥肌が立った。
「坊主、こりゃあ、高くつくぞ」
振り向くと、
白髪に小さな丸眼鏡をかけた老人が立っていた。
目が合うと、
その口角が、ほんの少しだけ上がる。
目玉が、いやにぎょろつく。
間違いない。
あのとき、棚の奥にいた老人だった。
僕は深く頭を下げた。
「……助けていただき、ありがとうございます」
老人は、妙に優しい声色で言った。
「坊主が逝っちまったらなぁ、
りすく屋の名が、廃るってもんよ」
老人はゆっくりと棚の奥に歩いていった。
「過剰摂取は、いい心掛けだ」




