名もなき薬
僕は部屋の中で、途方に暮れていた。
朝日は、カーテンの隙間から、ためらうように漏れ始めている。
また、僕はクスリによって暴走してしまっていた。
常識無効薬によって無くしたのは、
本当に“常識”だったのだろうか。
常識とは何か。
その根源的な疑問は、浮かんでは消え、掴めないまま頭の奥に沈んでいった。
はっきりした答えなど、最初からない。
それだけは、分かっている。
社会人の常識。
プログラマーの常識。
人としての常識。
……薬の、常識。
それらはすべて、僕の思考の中にしか存在しない。
そして、クスリの効果を打ち消す鍵は、“矛盾”なのだと、僕は結論づけていた。
もう少しで、何かが掴めそうな気がする。
けれど、決定的に、何かが足りない。
ジリリリッ。
けたたましく、目覚まし時計が鳴り響いた。
「……会社に、行かなくちゃ」
無意識に、口から言葉がこぼれた。
社会人としての常識は、クスリの効果が切れれば、治らない病気のように、何度でも再発する。
治すべきなのは、僕なのか。
それとも、この世界の方なのか。
そんな考えが頭をよぎって、思わず笑ってしまった。
「ファンタジー映画を観たばかりの子供かよ」
僕はゆっくりと支度をし、家を出た。
いつもなら気になる時間は、今日は、どうでもよかった。
──「君は、社会人だってこと、分かってる?」
部長は半ば諦めたような口ぶりで、こんこんと一般論を吐き出し続ける。
僕はそれを聞いて、適当な相槌を返す。
反論も意見もしない。
それがこの場を解決する最善の方法だから。
同調性。
それが社会において、もっとも、大切なこと。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、思考は曇ったままだった。
それが僕の役目なのか、と。
「坊主、もう手に持っているだろう」
どこからか声がした。目の前で続く耳障りな声ではない。りすく屋の老人の声だった。
僕はいつの間にか、右手をギュッと握り締めていた。部長に呼ばれたとき、鞄から無意識に取り出していたらしい。
僕は小さく頷く。
これが、僕の中の”常識”なのだ。
僕は部長の目がモニターに逸れた一瞬の隙をついて、何の味もしないそれを、飲み込んだ。
ゴクリっと喉が鳴る。
まるで、戦隊ヒーローのような高揚感があった。それは、新しい自分への変身。
僕は胃の中で溶けるクスリを想像していた。成分が体中に広がり、脳の回路が組み変わる。
一種の快楽にも似た感情に、僕は浸っていた。
まだそこにある社会性の常識は、僕自身に言う。
「お前ってヤク中だよな。やばい奴だ」
言われて身体は、少し小さくなる。けれどそれは、この社会が作り出した妄想に過ぎないことを、今は理解していた。
誰もが薬を飲んでいるし、何かに依存して生きている。
それは僕にとって、普通だ。
社会の妄想に従う必要はない。
ようやく僕は、下向きの頭を上げ、部長の目をじっと見つめた。
「従業時間内に帰宅するなんて、何を考えている」
僕は、背筋をピンと立て、静かに言った。
「申し訳ありませんでした。
規定の業務が完了しましたので、問題ないと判断していました」
部長は眉をひそめて言った。
「会社では、常に次の業務を行うのが普通だ」
僕は一拍おいて、口を開く。思考は徐々に透き通っていく。
「最新技術やAIによって、業務完遂時間は短くなりました。けれど、仕事量が増え、疲労は増すばかりです。会社にとって利益はあっても、これでは労働強化だと思うのです」
「何が言いたい?」
部長は僕を睨みつけた。
「このままでは、従業員はずっと救われないと思います。ですから、業務が早く終わったら……その、
無駄話をしませんか?」
部長の両手に力がこもる。
「君は、それが許されると──」
僕は続けて言う。鼓動はドクンと高鳴った。
「コミュニケーションなんです。張り詰めた業務は息苦しい。多少はリスクを取らなければ、斬新なアイディアなんて思い浮かびません。ですから、これは提案です」
部長は手の力を弱め、口を閉ざした。
「早く終わった分、会社公認の雑談時間としませんか。それがあるなら、気がとても楽になります。これは会社と従業員の双方に利益があると思います」
部長の肩から力が抜け、視線はふっと下がった。
「……もういい。席に戻ってくれ」
──僕は、いつも通りの業務を淡々と片付けた。
終業のチャイムが鳴る。
部長は相変わらずヘッドセットをしていた。けれど、僕と一瞬目が合うと、それを外し、
「お疲れ様」と柔らかく言った。
僕は会釈して、事務所を出ようと振り返る。
そのとき、誰かの肩に触れたような小さな衝撃があった。
とっさに「すみません」と口にする。
「すごいですね。いい提案だと、私は思いますよ」
聞き覚えのある声だった。
視線を上げると、そこには自宅に招いた社長のお嬢様が立っていた。
「ありがとうございます。見ていたのですね」
「ええ。ちょっと用事があったので。でも、聞き入っちゃいました。雑談タイム、賛成です。そしたら、また遊びに来れますね。さ、帰りましょ」
彼女はとても優しい笑顔を浮かべた。
僕らは並んで会社を後にした。
夕暮れの空が美しかった。
清々しい空気が、街全体をゆっくりと満たしていくような気がした。
僕は、そっと尋ねた。
「感情が、戻ったのですね」
彼女は嬉しそうに、小さく跳ねた。
「ええ。おかげ様です」
「……あれ、なんでしたっけ」
僕が首をかしげると、彼女は少し考えてから言った。
「あなたが、感情の矛盾だって教えてくれたからです。それに気づかなかったら、きっと感情は戻らなかった。ありがとうございました。あの……一緒に行きませんか?」
「いいですね。でも、まだ少し早いですし、お食事でもどうですか?」
「いいですねっ」
彼女は嬉しそうに街を歩いた。その足取りは無重力なのかと、錯覚するほど軽かった。
僕らはゆっくりと食事をして、
真夜中に煌々と光る店に入った。
そこは、りすく屋、というらしい。
鬱蒼とした埃の匂いが鼻をくすぐる。
それは不思議と、心地よかった。
彼女も目を閉じ、静かに息を吸い込んでいた。
「二人とも、いい目になったじゃねぇか」
老人の目玉が、僕らをやさしく見つめていた。
彼女は無邪気に箱を吟味している。
「このお店のクスリのおかげです」
僕は、ひとつの箱を手に取った。
そこには、まだ何も書かれていなかった。
「……効きますか?」
自分でも驚くほど、自然に口から出た。
老人はすぐには答えなかった。
視線が、僕の手元をちらりとかすめる。
「坊主」
低い声だった。
「それはな、効くかどうかじゃない」
一拍、間があった。
「もう、効いたと思ったかどうかだ」
彼女が、くすっと笑った。
僕の頭に、ある考えが浮かぶ。
けれど、それを言葉にする前に、老人が口を開いた。
「坊主。そいつは企業秘密だ。思考の中だけにしときな」
僕は静かに頷いた。
──そんなわけないか、と心の中で打ち消しながら。
「え?何かあったのですか?」
「お嬢ちゃん。それを知っちまったら、りすく屋の名が廃るってもんよ」
彼女は、少しだけ残念そうな顔をした。
その表情があまりに豊かで、胸の奥が和らぐ。
僕は箱を棚に戻した。
並べてしまえば、ほかの箱と見分けがつかない。
どれが、どれだったのか。
最初から、区別なんて必要なかったのかもしれない。
老人の長い手が棚から伸びた。
そしてひとつの箱を僕に向かって投げた。
「坊主、そいつは──とっておきだ」
僕は、名もなき薬を買った。
それでも、店を出る頃には、
もう“その名前”を知ってしまっていた。
この街は毎日、何も変わらない顔をして、冷たく回り続ける。
りすく屋も、きっと明日も変わらず営業するのだろう。
世界を変えるには、相応の対価が要る。
だから人々は、ノーリスクの良薬を探し続ける。
けれど──
ほんの少しでもリスクを引き受けた者にだけ、
見えてしまう世界があるのだとしたら。
それは、案外、悪くないのかもしれない。
少なくとも僕は、もう以前と同じ目では、
この街を見られなくなっていた。
僕は名もなき薬の箱を見つめた。
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名称
効果
効果時間
注意
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空白の箱に、心の中で、文字を刻んだ。
「そのクスリ、どんな効果なんでしょうね」
彼女は明るい声で言った。
僕は、そのクスリをひと粒取り出すと、
ゴクリと飲んだ。
すると、透明な思考がゆっくりと染み込んでくる気がした。
「きっと、新しい景色を見せてくれるクスリです」
彼女は楽しげに前を進む。
「そうですね。
でも、リスクには気をつけてくださいね」
僕は静かに頷く。
会社帰りの夜なのに、
その足取りは、とても軽かった。




