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りすく屋のクスリ  作者: TOMMY


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13/13

名もなき薬

僕は部屋の中で、途方に暮れていた。

朝日は、カーテンの隙間から、ためらうように漏れ始めている。


また、僕はクスリによって暴走してしまっていた。

常識無効薬によって無くしたのは、

本当に“常識”だったのだろうか。


常識とは何か。

その根源的な疑問は、浮かんでは消え、掴めないまま頭の奥に沈んでいった。

はっきりした答えなど、最初からない。

それだけは、分かっている。


社会人の常識。

プログラマーの常識。

人としての常識。


……薬の、常識。


それらはすべて、僕の思考の中にしか存在しない。

そして、クスリの効果を打ち消す鍵は、“矛盾”なのだと、僕は結論づけていた。


もう少しで、何かが掴めそうな気がする。

けれど、決定的に、何かが足りない。


ジリリリッ。


けたたましく、目覚まし時計が鳴り響いた。


「……会社に、行かなくちゃ」


無意識に、口から言葉がこぼれた。

社会人としての常識は、クスリの効果が切れれば、治らない病気のように、何度でも再発する。


治すべきなのは、僕なのか。

それとも、この世界の方なのか。


そんな考えが頭をよぎって、思わず笑ってしまった。


「ファンタジー映画を観たばかりの子供かよ」


僕はゆっくりと支度をし、家を出た。

いつもなら気になる時間は、今日は、どうでもよかった。


──「君は、社会人だってこと、分かってる?」

部長は半ば諦めたような口ぶりで、こんこんと一般論を吐き出し続ける。


僕はそれを聞いて、適当な相槌を返す。

反論も意見もしない。

それがこの場を解決する最善の方法だから。


同調性。

それが社会において、もっとも、大切なこと。

そう自分に言い聞かせる。

けれど、思考は曇ったままだった。

それが僕の役目なのか、と。


「坊主、もう手に持っているだろう」


どこからか声がした。目の前で続く耳障りな声ではない。りすく屋の老人の声だった。


僕はいつの間にか、右手をギュッと握り締めていた。部長に呼ばれたとき、鞄から無意識に取り出していたらしい。

僕は小さく頷く。


これが、僕の中の”常識”なのだ。


僕は部長の目がモニターに逸れた一瞬の隙をついて、何の味もしないそれを、飲み込んだ。


ゴクリっと喉が鳴る。

まるで、戦隊ヒーローのような高揚感があった。それは、新しい自分への変身。


僕は胃の中で溶けるクスリを想像していた。成分が体中に広がり、脳の回路が組み変わる。

一種の快楽にも似た感情に、僕は浸っていた。

まだそこにある社会性の常識は、僕自身に言う。


「お前ってヤク中だよな。やばい奴だ」


言われて身体は、少し小さくなる。けれどそれは、この社会が作り出した妄想に過ぎないことを、今は理解していた。


誰もが薬を飲んでいるし、何かに依存して生きている。

それは僕にとって、普通だ。

社会の妄想に従う必要はない。


ようやく僕は、下向きの頭を上げ、部長の目をじっと見つめた。


「従業時間内に帰宅するなんて、何を考えている」


僕は、背筋をピンと立て、静かに言った。

「申し訳ありませんでした。

規定の業務が完了しましたので、問題ないと判断していました」


部長は眉をひそめて言った。

「会社では、常に次の業務を行うのが普通だ」


僕は一拍おいて、口を開く。思考は徐々に透き通っていく。

「最新技術やAIによって、業務完遂時間は短くなりました。けれど、仕事量が増え、疲労は増すばかりです。会社にとって利益はあっても、これでは労働強化だと思うのです」


「何が言いたい?」

部長は僕を睨みつけた。


「このままでは、従業員はずっと救われないと思います。ですから、業務が早く終わったら……その、

無駄話をしませんか?」


部長の両手に力がこもる。

「君は、それが許されると──」


僕は続けて言う。鼓動はドクンと高鳴った。

「コミュニケーションなんです。張り詰めた業務は息苦しい。多少はリスクを取らなければ、斬新なアイディアなんて思い浮かびません。ですから、これは提案です」


部長は手の力を弱め、口を閉ざした。


「早く終わった分、会社公認の雑談時間としませんか。それがあるなら、気がとても楽になります。これは会社と従業員の双方に利益があると思います」


部長の肩から力が抜け、視線はふっと下がった。

「……もういい。席に戻ってくれ」


──僕は、いつも通りの業務を淡々と片付けた。


終業のチャイムが鳴る。

部長は相変わらずヘッドセットをしていた。けれど、僕と一瞬目が合うと、それを外し、

「お疲れ様」と柔らかく言った。


僕は会釈して、事務所を出ようと振り返る。

そのとき、誰かの肩に触れたような小さな衝撃があった。

とっさに「すみません」と口にする。


「すごいですね。いい提案だと、私は思いますよ」


聞き覚えのある声だった。

視線を上げると、そこには自宅に招いた社長のお嬢様が立っていた。


「ありがとうございます。見ていたのですね」


「ええ。ちょっと用事があったので。でも、聞き入っちゃいました。雑談タイム、賛成です。そしたら、また遊びに来れますね。さ、帰りましょ」


彼女はとても優しい笑顔を浮かべた。


僕らは並んで会社を後にした。


夕暮れの空が美しかった。

清々しい空気が、街全体をゆっくりと満たしていくような気がした。


僕は、そっと尋ねた。

「感情が、戻ったのですね」


彼女は嬉しそうに、小さく跳ねた。

「ええ。おかげ様です」


「……あれ、なんでしたっけ」


僕が首をかしげると、彼女は少し考えてから言った。


「あなたが、感情の矛盾だって教えてくれたからです。それに気づかなかったら、きっと感情は戻らなかった。ありがとうございました。あの……一緒に行きませんか?」


「いいですね。でも、まだ少し早いですし、お食事でもどうですか?」


「いいですねっ」


彼女は嬉しそうに街を歩いた。その足取りは無重力なのかと、錯覚するほど軽かった。


僕らはゆっくりと食事をして、

真夜中に煌々と光る店に入った。

そこは、りすく屋、というらしい。


鬱蒼とした埃の匂いが鼻をくすぐる。

それは不思議と、心地よかった。

彼女も目を閉じ、静かに息を吸い込んでいた。


「二人とも、いい目になったじゃねぇか」


老人の目玉が、僕らをやさしく見つめていた。


彼女は無邪気に箱を吟味している。

「このお店のクスリのおかげです」


僕は、ひとつの箱を手に取った。

そこには、まだ何も書かれていなかった。


「……効きますか?」


自分でも驚くほど、自然に口から出た。


老人はすぐには答えなかった。

視線が、僕の手元をちらりとかすめる。


「坊主」


低い声だった。

「それはな、効くかどうかじゃない」


一拍、間があった。


「もう、効いたと思ったかどうかだ」


彼女が、くすっと笑った。


僕の頭に、ある考えが浮かぶ。

けれど、それを言葉にする前に、老人が口を開いた。


「坊主。そいつは企業秘密だ。思考の中だけにしときな」


僕は静かに頷いた。

──そんなわけないか、と心の中で打ち消しながら。


「え?何かあったのですか?」


「お嬢ちゃん。それを知っちまったら、りすく屋の名が廃るってもんよ」


彼女は、少しだけ残念そうな顔をした。

その表情があまりに豊かで、胸の奥が和らぐ。


僕は箱を棚に戻した。

並べてしまえば、ほかの箱と見分けがつかない。


どれが、どれだったのか。

最初から、区別なんて必要なかったのかもしれない。


老人の長い手が棚から伸びた。

そしてひとつの箱を僕に向かって投げた。


「坊主、そいつは──とっておきだ」


僕は、名もなき薬を買った。


それでも、店を出る頃には、

もう“その名前”を知ってしまっていた。


この街は毎日、何も変わらない顔をして、冷たく回り続ける。

りすく屋も、きっと明日も変わらず営業するのだろう。


世界を変えるには、相応の対価が要る。

だから人々は、ノーリスクの良薬を探し続ける。


けれど──

ほんの少しでもリスクを引き受けた者にだけ、

見えてしまう世界があるのだとしたら。


それは、案外、悪くないのかもしれない。

少なくとも僕は、もう以前と同じ目では、

この街を見られなくなっていた。


僕は名もなき薬の箱を見つめた。


*****


名称


効果


効果時間


注意


*****


空白の箱に、心の中で、文字を刻んだ。


「そのクスリ、どんな効果なんでしょうね」

彼女は明るい声で言った。


僕は、そのクスリをひと粒取り出すと、

ゴクリと飲んだ。

すると、透明な思考がゆっくりと染み込んでくる気がした。


「きっと、新しい景色を見せてくれるクスリです」


彼女は楽しげに前を進む。

「そうですね。

でも、リスクには気をつけてくださいね」


僕は静かに頷く。


会社帰りの夜なのに、

その足取りは、とても軽かった。

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