対話
パッと照明が光り、俺の目を焼いた。
「やっぱり大きな家には、来るものなんですね」
その声は少し嬉しそうだった。
──ようやく身体は落ち着きを取り戻してきた。
その間もその声は、楽しそうに語りかけていた。
俺は恐る恐る顔を上げる。
そこには泥棒だと理解している俺を、薄い笑みで見つめる、社長の娘が立っていた。
「泥棒さんなのに、暗闇が怖いんですね」
彼女の言葉に声が出なかった。
「もう明るいですから、ちょっとお話しませんか?私今、きっと嬉しいんです」
促されるまま、俺はソファーに腰を下ろした。
彼女は、俺が何か話し出すのを待つみたいに、じっとこちらを見ている。
目が合うたび、薄く笑ったように見えた。
「……怖くないのかよ」
パチンッ。
彼女は顔の前で手を叩いた。
反射的に、俺の背中が跳ねる。
それを悟られたくなくて、視線を逸らした。
「はい。私、感情がなかったんです」
「……感情が、なかった?」
「はい!」
弾む声だった。
「恐怖も、驚きも、楽しさも、悲しさも。ぜんぶ、ありませんでした。でも──」
彼女は、少しだけ身を乗り出した。
「泥棒さんが来て、取り戻せたみたいなんです」
「……何を言ってる」
「泥棒さんが来たとき、怖くはなかったんです。でも、鼓動が大きくなったんです」
彼女は胸に指を当てる。
「それで思ったんです。あ、防衛本能は消えてないんだなって」
「……最初から、見てたのか」
「はい!」
即答だった。
「光に映らないように、ベッドの中にいました。感情がないはずなのに、心臓は高鳴って、様子を見たいと思ったんです」
彼女は首を傾げる。
「おかしいですよね。怖くないのに、隠れて。隠れてるのに、見たくなる」
俺は眉間に皺を寄せた。
「だから、なんだよ」
「矛盾なんです!」
彼女は楽しそうに言った。
「無感情なのが薬の効果なのに、心臓は高鳴ってしまう。隠れるはずなのに、見てしまう。──矛盾してるんですよ」
ベッドの上で、彼女は腰を浮かせた。
「あはは。そう思うと、おかしくて」
笑いながら、言う。
「怖いから、ワクワクして。楽しいんです」
俺は、もう訳が分からなくなっていた。
「意味、わかんねぇよ」
「私にも、分かりません」
それでも、と彼女は続ける。
「でも今は──嬉しいんです」
あはは、と笑った瞬間、
彼女の顔は、どこか壊れたみたいに歪んだ。
その笑顔に耐えきれず、
俺の顔も、同じように、砕けた。
彼女は笑いながら言った。
「何か飲みますか?それとも現金ですか?」
その言葉に寒気がした。
窒息しかけたときの記憶が、まだ脳裏に存在していた。
俺は苛立ちを込めた低い声を出した。
「お前、俺をおちょくってるのか」
しかし、彼女はまったく怯まない。それどころか、俺の身体に顔を近づけ、鼻から息をしてみせた。
俺は身体を反らせ、眉間のしわを深める。
「やっぱり。りすく屋さんの香りがします。あそこに行ける人に、悪い人はいないんです」
彼女は俺との距離を詰めたまま、体勢を崩さない。
「それに私、逃げなくていいんです。慣れてますから」
俺はこの空間から、一刻も早く出たかった。また、悪夢のような時間を過ごしたくない。
「邪魔したな。帰る」
彼女は残念そうに言う。
「そうですかー。あっ、お父様の壺をひとつ持っていってもいいですよ。感情を取り戻せたお礼です」
彼女は、皮肉めいた表情でさらに続ける。
「対価は、自由に決めていいですよ。はは」
俺は見送られて、玄関から部屋を出た。
何も盗れなかった。
盗ったらきっと、死ぬと思ってしまっていた。
──俺は街をひた歩いた。
どこへ向かえばいいのか、見失ってしまった。
何かを盗ることは、もうできそうになかった。
喉の奥がふさがるような感覚と、無数の箱がきっちりと並んだ光景が、黒い染みのように、ときおり脳裏に滲んでくる。
街には朝日がゆっくりと昇っていく。
何もないことが、こんなに清々しく思えたことは、はじめてだった。
人々は忙しそうに、過ぎ去っていく。
黒いスーツのサラリーマン。
キャリーケースを転がす旅人。
寒空の下でも素肌の多い若者は、どこに向かっているのだろう。
俺は交差点の端で、彼らの行方を想像していた。
だが楽しそうな表情の人は少ない。
大半は暗い顔をしていた。俺も、そのひとりだった。
しばらくすると、着崩れた茶色いスーツの老人が声を掛けてきた。
「兄さん、これ、必要なんじゃないかね。安くしとくよ」
差し出された手には、小さな白いポリ袋があった。
俺は一歩、無言で後ずさりし、睨むように視線を向ける。
老人は肩をすくめただけで、それ以上近づいてはこなかった。
この世界は、気づいた隙を、誰かが必ず覗き込んでくる。
誰もが、その弱みを正義面して突いてくる。
自分が突く側に回らなければ、生き抜くことは難しい。
──そう思っていたはずなのに。
俺は日差しの強い交差点を避けるように、
自然と、日陰の路地へ足を向けていた。




