何もない
頬が床に縫い込まれたような痛みによって、目が覚めた。重力が「動くな」と全身を押さえつけている感覚。冷や汗だけが背中を滴る。もう、覚めることはないと思っていた。
俺は、死んだと確信していた。
「……窒息薬じゃ、なかった、のか」
小さく息を吸い込み、小さく吐く。
呼吸は、できる。ただ、寒い。
馬鹿馬鹿しくて泣けてくる。俺は何をしているのだ。
ゆっくりと記憶を思い起こす。
冷蔵庫を開けて、箱が溢れて、渇き、溺れて──そんなことがあってたまるか。
幻覚でも見ていたのだろう。あの白い粉末は、やはりその手の薬物だったとみて、間違いないだろう。
俺は黒い視界の目を閉じた。重力の重みを感じながら、身体の回復を待った。徐々に身体は熱を持ちはじめ、軽くなってきた。
──しばらくして、もう一度、自分の意思でまぶたを持ち上げた。相変わらず視界は黒い。俺は腕を床に突き立てて起き上がろうとした。
すると、ゴンッと頭に何かがぶつかった。
鈍い痛みが全身を駆け抜ける。そこには開いた冷蔵庫の扉があった。
開けすぎていたのか、内部の照明は消えていた。
俺はカチコチに固まった身体をゆっくりと起こし、冷蔵庫の前に座り込んだ。
「何もないじゃないか」
冷蔵庫の中は缶ビールが数本だけだった。
無数の箱は、なかった。
──目玉も。
「何もない」
周囲を見渡す。
溢れた箱も、持ち上げると腕が震えるほどの紙幣もなかった。
「……何もなくて……いいのか……」
安堵と同時に得もしれない恐ろしさが、喉元までこみ上げてきた。
紙幣の感触だけが、やけに鮮明だった。
指先に残っている気がして、何度も手を握り直した。
冷蔵庫は黙っている。
床も、壁も、何も言わない。
俺だけが、取り残されていた。
──窓を開けて、煙草に火をつけた。
煙草の香り。吐き出した白い煙。それだけが、現実のような顔をしていた。
現在を形作る感触。
それはあの店によって曖昧になってしまった。
煙草から立ち昇る、白い線をじっと見つめた。
確かにここにある。けれど、いずれ薄れ、霧散してしまう。
あのときの記憶は、
……もう頭から失われつつあった。
俺は煙草を押し潰すと、掛け時計の短針を見た。
夜十二時。夜が浅すぎる。
俺は”もしかして”と、カレンダーを横目で見た。
丸一日寝ていたのかもしれない。その疑念の解消は簡単なこと。
けれど、今日の日付を確認することは、しなかった。したく、なかった。
身体を動かしていないと、思考してしまう。
俺は道具を整え、仕事に出掛けることにした。
まだ少し浅い夜道を散歩のように歩いた。
そして俺はその建物を視界に捉え、足を止めた。
最初から狙っていたのは、この豪邸だ。
……あの店に入るつもりは、なかった。
家の周りには、街路と隔絶するような鉄製の柵。
敷地内には森のように木々が植えられていて、小動物が住み着いている。
使用人は一人。五十代後半に見える男。
背筋は伸びていて、歩く速さが一定だった。
今週は、社長の娘以外、誰もいない。
その娘も最近は、夜な夜な街を出歩いている。
そのとき、この家の防犯装置はすべてオフになる。そして、バルコニーの鍵が開いていることも知っている。
俺は監視カメラの赤いLEDが消えていることを確認すると、静かに柵を乗り越えた。木々の隙間に身を潜め、家の中を覗く。人影は見当たらない。
太い木の影には、足場があった。俺は音がしないように、ゆっくりとバルコニーから部屋に入った。
明かりを絞った懐中電灯をつけ、室内を見渡す。
きちっとした木製の机、何も乗っていない丸テーブルとソファー、整ったベッド。大理石の床には大きな白いマットが敷かれている。
部屋の中は、整然としていた。
洋服の一枚はおろか、ゴミのひとつも見当たらない。
”本当に社長の娘は、ここに暮らしているのだろうか”と気味の悪い思想が頭の中を駆け抜けた。
俺は変な妄想を振り払い、机に手をかけた。
高級そうな木製の机。天板には何も乗っていないが、その下に引き出しがひとつ付いている。
引き出しはスーッと小気味よくスライドした。
懐中電灯で中をそっと照らす。
……懐中電灯を支える手が小刻みに震えた。
そこには見たことのある箱が、引き出しの中に、びっしりと詰まっていた。箱と箱の隙間はなく、手前から奥まで同じ向きで揃えられている。
光の先の文字が、俺の脳をチカチカと刺激する。
頭痛成薬・足釣り薬・仮病薬・痙攣薬・しゃくり薬──
頭が文字を受け入れられない。しかし、目は滑るように、それを読み進めていた。まばたきも呼吸も忘れ、そこに書かれた文字を読み込んでいく。
鳥肌が全身を包み込む。カチカチと歯がなった。
「なんで……この箱が、ここに……」
思考が黒い記憶の中に溶け落ちようとしていたそのとき──
バチンッ。
部屋の中に炸裂音が響いた。
視線は彼方へと飛び、手と頬が、じんと痛んだ。
その衝撃によって、ようやく俺の思考は、箱から剥がれた。
はぁ、はぁ、と忘れていた息を吐き出す。
……俺は、自身の頬を、無意識に叩いていた。
「あの記憶は、悪夢じゃなかったのか」
そう言って、いつの間にか壁を照らしていた懐中電灯を握り直す。
はぁ、はぁ。
息は落ち着くことはなかった。
この部屋は、あの店と一緒だ。
そう思って部屋を照らすと、
そこには人が、立っていた。
声にならない叫びが、心臓を貫いた。懐中電灯は彼方へ吹き飛び、全身はビクリと浮き上がる。血液は粟立ち、身体は一瞬、銅像のように固まった。
それから、力が抜け、床へ崩れ落ちた。
今度こそ、死んだ。そう思った。
「あのー……泥棒さん、ですよね?」
くすぐるような声は、頭上から問いかけた。




