矛盾
彼の顔が赤いことに、私は遅れて気づいた。クスリを飲んでいる人の顔ではなかった。
呼吸が早く、顔は赤いのに、唇は青ざめていた。私は何度も声をかけた。でも、まったく聞く耳を持たないように喋り続け、ついには倒れてしまった。
「大丈夫ですか?」
肩を二度叩く。反応はない。
もう一度、もう少し大きな声で。
「大丈夫ですか?」
肩を二度叩く。反応はやっぱりない。この場合は心音を確認する。私は人命救助の練習通り、彼の胸に耳を近づけた。
すると、ドクンッ、ドクンッと鼓動は鳴っていた。耳で聞かなくても、触ればわかるほど、脈動している。
……いや、鼓動がどんどん大きくなっている。
「こんなの、どうすればいいの……」
私は立ち上がり、その場で思考を巡らせた。
倒れた人が怖いとも思えない。
なにより焦りがないことが、虚しかった。
すると、クローゼットの奥からカタリと乾いた音がした。
私はゆっくりと、そこを開けた。
何となく、そこがどこに”繋がっているか”を分かっていた気がした。
「臨死体験は楽しめたかい?」
おじさまの声は心の奥底に、重く響いた。
クローゼットの中は一面、棚と箱が敷き詰められていた。ギチギチに詰め込まれたように、箱は潰れて見えた。その箱と箱の隙間に、目玉がひとつ浮かんでいた。
私はなぜか、安堵した。
「おかげ様で
──そんなことより、目を覚ますクスリはありますか?」
おじさまの目玉はギョロリと動き、倒れている彼を、まるで舐めるように見つめ回した。
「お嬢ちゃん、心配いらない。じきにクスリの効果は切れる。目覚めるかどうかは、この坊主次第だがね」
私はほっと胸を撫で下ろした。
……ほっとした。当たり前のことなのに、とても嬉しかった。安心という感情がそこにある気がした。
「お嬢ちゃん、クスリの箱に書いた内容は、勝手な考察だ。その通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まぁそんなこと、どんな言葉や文字にも、言えることだがね」
私は小さく頷く。
「確かにそうですわね。私、外に出て、悩んで、ようやくわかってきたの。
教わった通りに足を動かしても、うまくいかない日がある。標識の矢印が指す先に行っても、何もないことがある。
だからたぶん、見るということは、従うこととは、少し違う。
すべてを鵜呑みにするのではなく、自分の目で見定めなくちゃ、ね」
おじさまの目玉はぐるりと一回りすると、静かに闇の中へ消えた。
「今日はこれをいただくわ」
私はひとつの箱を手に取り、数枚の紙幣を棚に置くと、ゆっくりとクローゼットを閉じた。
……りすく屋さんは、やっぱり私を助けてくれる。
──しばらくすると、彼は目を覚ました。
すると私の顔を眺め、ギョッと顔を引き、目線を反らした。
私はその様子をただ見つめる。
彼はゆっくりと身体を起こし、猫背のまま静かに口を開いた。
「申し訳ありません。ここまでの経緯は覚えているのですが──よくわからないのです」
私は、どう返すべきか分からなかった。
私はソファーから立ち上がり、彼の部屋を出ようと会釈した。
彼は私を見つめた。すでに以前のような活発な表情は失われ、呆気に取られたようにポカンとしている。しかし彼の口は、何かを小さくつぶやいていた。
「……む…じゅ、です」
私は聞き返した。
「何て、おっしゃいましたか?」
彼は顔を上げ、私の顔をじっと見つめた。
「……感情を取り戻す鍵は、矛盾です。あの店のクスリには、リスクがある。でも、矛盾した思想はそれを覆すことが──できる、と思い、ます。なぜそう思うのかは、わかりませんが……」
感情を取り戻す。
その言葉は心に響いた。
行動と感情が食い違う。頭では状況を理解していても感情がついてこない。
”矛盾”
その言葉は薄っすらと何かを灯した。
窓の外の光は徐々に失われていった。もう、帰らなければならない。
私はお礼を言って、彼の家を後にした。
──夜の帳が、街に下りる。
コンクリートの田舎道。車通りのない道の街灯が一斉に点った。照らされた私の影がゆっくりと伸びていく。
少し歩き、次の街灯に近づくと、その影は短くなった。街灯との距離によって、影は伸び、縮む。当たり前のこと。それが私にはない。
最近まで、外を歩くのは、どこか怖かった。思考の隅に、得もしない恐怖があったから。
怪物やおばけの類、不審者や殺人鬼の類。どれもこれも、闇の中からやって来て、私を攫っていくと思い込んでいた。
けれど、今はまったく怖くない。無関心なことが危険なことは理解している。
でも、実際に夜の世界を歩いてみて、そんなに恐ろしい世界じゃないことを理解した。
たぶん、変質者にあっても平然と対処できる自信がある、と思ってしまっている。
私は皮肉を言えるようになって分かった。
この世界は本音を語ったほうが前に進めるのだと。
でも、傲慢な態度は取りたくはない。
”自分が”と威張るようなやり方は不快。そうはなりたくない。
そのバランスが大人なのだと思う。
私は部屋に戻り、ベッドに横になった。すると、暗い気持ちは少しだけ、和らいでいる気がした。
ガサガサと暗闇から音がした。
いつもだったら、窓をじっと見つめて、鼓動とともに数分間、身構えていたと思う。私はそっと、目を閉じた。今日はぐっすりと眠れる気がした。




