不幸衰退薬
真夜中に煌々と光る店。
僕は光に吸い寄せられる蛾のように、その店に入った。
ガタついた引き戸を開け、足を踏み入れた瞬間、鬱蒼とした埃の匂いが肺の奥まで入り込んできた。舌の上に、わずかな苦みが残る。
店内には古びた棚が所狭しと並び、天井まで箱が積み上げられている。レジも、店員の姿も見えない。あるのは、棚に詰め込まれた、角の潰れた箱ばかりだった。
僕は一つの箱に顔を近づけ、かすれた文字を目でなぞった。
「頭痛成薬」
一瞬、意味が飲み込めなかった。
喉が鳴る。
「ずつう……せいやく?」
頭痛薬ではなく、頭痛を“成す”薬。
背中に、冷たいものが落ちた気がした。
ほかの箱にも視線を移す。
そこには、見覚えのない薬がぎっしりと詰め込まれていた。
「仮病薬」
「被害妄想薬」
「視力低下薬」
「寿命短縮薬」
どれも治すためのものではない。
病気を、意図的に人へ与える薬。
理解した途端、胸の奥が急に冷えた。鳥肌が腕から首筋へと這い上がり、鼻腔をツンと刺す酸性の匂いが、今さら強くなった気がした。
棚の奥で、ガタガタと何かが揺れた。
僕は息を殺し、身体を固くした。
棚の隙間から、目玉が一つ、ギョロリとこちらを覗いた。
僕の背中は一瞬跳ねた。
「なんだい坊主、また記憶抹消薬を買いに来たってのかい」
優しげな声だった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が嫌な具合に波打つ。知らないはずなのに、懐かしい。
白髪に小さな眼鏡をかけた老人の顔が、勝手に頭の中に浮かんだ。
「……僕は、それを買ったことがあるのですか」
自分の声が、思ったよりも震えていた。
棚の奥の目玉が、わずかに細くなった。
「それを坊主が覚えてたら、りすく屋の名が廃るってものよ」
胃の奥がきゅっと縮んだ。
喉の裏に、薬の味のようなものが蘇りかける。苦く、冷たく、舌に残る何か。
僕は反射的に口を押さえた。
「りすく屋、ですか」
そう口にした途端、その名の意味が自然と頭に浮かぶ。
飲むことでリスクを負うこと。
そして「くすり」を反対から読んだ言葉。
考えた、という感覚はなかった。
思い出した、と言うほうが近い。
「いい名前ですね」
「ははは、そうだろう」
老人の笑い声が、棚の隙間から滲み出す。
僕は、自分がここで何を飲んできたのか、確かめる勇気がなかった。
「これはとっておきだ」
箱を持った老人の腕が、ぬっと棚の下段から現れた。
僕は反射的に半歩退き、それでも手は前に伸びていた。その箱を受け取ると、その腕は蛇のように滑らかな動きで棚の中に消えた。
僕はその箱に書かれた文字を読む。
「不幸衰退薬」
なんとなく想像は、できた。けれど聞かずにはいられなかった。
「これはどんな効能が?」
老人の声はわずかに高くなった気がした。
「そいつはな、飲んだ人間の不幸の感覚を麻痺させるクスリだ」
「言い方が怖いですね。麻痺させる以外に言い方があるような気がしますが……」
老人はまったく動じなかった。
「不幸の感覚を”麻痺させる”ってのが肝なのさ。無くなるなんてのは、おとぎ話だろ。でもな、そいつを飲めばこの世界の幸福度が上がることは想像できるだろ」
僕は喉を鳴らした。確かに、冷え切った社会において、これほど有用なものはない気がした。
「副作用は、ないのですか?」
目玉にぎゅっと力が加わるのが分かった。
「ねぇよ。身体的にはな。強いて言うなら、効果期間は空気を読めないやつになっちまうくらいだ」
僕は目玉に向けて首をかしげる。
「どういうことですか?」
「人間にはな。他人の不幸な顔を楽しみにしている奴が大勢いる。嫌味を言ったり、皮肉を言ったりしてな。そんな奴らは、クスリを飲んだお前を見てどう思う」
僕の頭の中には、多くの顔が浮かんでいた。
「おもしろくないですね」
「そうだ。だから気をつけることだ。落ち込んだ演技こそが幸福のコツさ。まぁそんな奴らにはこっちのクスリを飲ませちまっても、いいかもな。へっへっへ」
老人が棚の後ろでどんな薬を指しているのかを、想像したくなかった。
僕は箱を持ち替え、裏面を見た。そこには、効果時間などの注意書きが書かれていた。思ったより親切な表記が少し不気味だった。
「この薬は、おいくらですか?」
目玉は瞬きを繰り返した。
「……そうか。そこまで忘れちまったのか。
値段は、お前さんが決めるんだ」
えっ、と口から言葉が漏れた。
「ここにあるクスリは全部、俺は名付けただけだ。たぶんこんな効果で、これくらいの効果期間だろうってな具合にな」
僕はパッケージの表記を見て、妙に納得した。
「だからな、いくら払うかは坊主が決めろ。それがこの店の決まりだ。払った対価によって効能も変わるかもしれないしな」
目玉は上下に揺れて笑って見えた。
「まぁ、後払いでも構わないぞ。それでお前さんがいいならな」
僕は恐怖に駆られて財布を取り出し、その中の紙幣をすべて抜き取った。
それは恐怖に比べると、とても軽く感じた。
するとまた、老人の腕が棚の下から伸びた。だが、そこに紙幣を乗せる雰囲気ではなかった。血管が浮き出た長い指は棚の右を指した。
そこには、何段にも区切られた棚の一列だけがぽっかりと空洞になっている奇妙な棚があった。
僕の手は自然とそこに、紙幣を置いた。
空洞の視線が、置いたそれを凝視している感覚。緊張した空気が、店内を包んだ。
すると、その紙幣は勢い良く棚の奥に吸い込まれた。そして、それと引き換えのように、バフっと、ひとつの箱を吐いた。
かたっと軽い音を立てて、その箱は床に落ちた。箱が落ちた音に続いて、数個の錠剤が中で跳ねる音が耳に届く。
僕はその箱を見つめた。見つめ続けた。
「坊主、それを使うかも、お前さんの自由だ」
そう言うと老人の目玉は、棚の闇に消えた。
僕は、店を後にした。
──「君の資料さぁ。何を言いたいのか、まったく分からない」
今日も部長は、僕を怒鳴りつけた。
何を言いたいのか分からない。
それは、僕が一番よく知っていることだった。
毎日の理由なき労働。
働くことが正義の社会。
進歩しているのか、衰退しているのか分からない技術。それをどれだけ会社に取り入れようとも、仕事はさらに忙しくなるだけ。
そんな感情が頭の中で膨張していた。
鞄の中で、箱がわずかに鳴った気がした。
──部長の定例業務を聞き終えると、僕は鞄から箱を取り出して、それを見つめた。
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名称
不幸衰退薬
効果
不幸な感覚が麻痺する
効果時間
1時間/粒
注意
他者との会話に無感情になる可能性がある
連続使用により、たぶん廃人になる
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項目以外の文字は、明らかに手書きだった。
きっと、目玉の老人が書き加えたのだと直感する。
箱の中には錠剤が入れられたプラスチック容器が一枚入っていた。
でもすでに、
……ひと粒だけ、抜け落ちていた。




