黒嶋琉生
バイトを始めて二ヶ月。学校が終わって、週に三回バイトに行って、それ以外の日は愛生と一緒にスーパーに行った。スーパーでおじいさんに会うと荷物を車まで運ぶ手伝いをして、家まで帰った。
時々俺の家に彼女が遊びに来たりして、遊びに来るたびに、hand numberノートに、やりたいことを書き加えていた。ノートを覗くと、膨大な量の文字が見えて、こんなにやりたいことがあるのか、と目を見張った。
愛生は、「やりたいこと多すぎだって思ってるでしょ? いいの。やりたいことがなくなったら、もうすぐ死ぬんだって実感させられちゃうから……だから、やりたいことをいっぱい書いておくの。全部叶えられなくてもいい。叶えられなくても後悔しない」と言っていた。
バイト代が出て、彼女が俺に、買いたい物がある、一人では心細いからついてきてほしい、と言った。
ついて行った先は、家電量販店だった。
「私ね、カメラが欲しいの。残された時間楽しかった思い出を撮って、最後の日に写真を見返したい」
彼女がそう言って、ミラーレスカメラを手に取った。
彼女は、「うわぁ……かっこいい……」と見惚れていた。しばらくして、彼女はそっとカメラを棚に戻した。
俺が、「どれにする?」と訊くと、「やっぱり買わない」と彼女が言う。
値段を見ると、今のバイト代だけでは買えない額だった。でも、俺のバイト代を合わせると買えなくもない。俺は提案した。
「半分払うよ」
彼女は目を見開いた。
「それは絶対ダメだよ。お金は大事にして……自分のために使って!」
彼女のやりたいことを叶えたい。彼女の喜ぶ顔がみたい。これは自分のためなんだ。カメラで彼女の思い出を残していってほしい。
「じゃあ、こういうのはどう? 俺もカメラを使わせてもらうって言うのはどうかな? 俺もカメラで写真撮りたいし」
「え……でも……」
「お願い! 一生のお願い!」
俺は、顔の前で手を合わせて目を瞑った。しばらく愛生から返事がなかったので、少し目を開けると、彼女が何か思いついたように、あっ、と言った。
「それなら、カメラを交代して使って、私がいなくなったあとは、琉生くんがカメラを使って。私の形見……なんてね。いやだったらカメラ売ってお金に変えてもいいよ」
さらっとこんなことを言いながら笑う彼女は、今日みたいな冬の澄み切った青空のように透き通って綺麗で、吹っ切れたような表情だった。
***
今年の学校は、今日で最後だ。クラスのみんな、今日はクリスマスイブだ、明日はクリスマスだとか、盛り上がっているが俺には関係ない。俺には恋人はいないし、仲の良い友達は部活だし、何より今日も明日もバイト。いつものように愛生とバイトに行くだけだ。俺は彼女とバイトに行けるだけで満足だ。
机の上に置いているノート、筆記用具を鞄に入れて、机の中に忘れ物がないか確認する。よし、忘れ物はない。椅子にかけていたマフラーを手に取り、首に巻く。鞄を肩にかけて帰ろうとすると、陸人が俺の机に腰掛けて、いつものように俺を引き止める。
「もう少しいろよ〜部活までまだ時間あるんだよ〜。今日クリスマスイブじゃん? 寂しいじゃん?」
陸人が俺のマフラーを掴んで離さない。
「俺は今からバイトなんだよ。早く行かないと遅刻する」
俺は陸人の腕を掴んで、離せ、と言うが離してくれない。
「え〜。それよりさ〜琉生って西浦さんと付き合ってんの?」
突然何を言っているんだこいつは。思わず掴んだ腕を離した。
「付き合ってない」
「でも、毎日一緒に帰ってるだろ?」
マフラーがグッと引っ張られて、陸人が顔を近づけてくるので、俺は顔を背けた。
「一緒に帰ってるだけだよ。家が隣だから」
「そっか。結構噂になってるぞ、お前ら」
陸人が急にマフラーから手を離し、俺は少しよろけた。
俺は噂になっても別にいいけど、困るのは愛生だ。きっと俺と付き合ってるなんて思われるのは嫌だと思う。
「まぁ一緒に帰ってたら噂にもなるでしょ。こういう話題みんな好きじゃん?」
「そうだな……」
はぁ、とため息が出る。愛生が心配で一緒に帰るようになって、噂になることなんて考えていなかった。
「もし付き合ったら報告しろよ」
陸人がにやけている。
「付き合わねぇよ」
「でも、琉生は西浦さんのこと好きだろ?」
今度は真剣な顔で言ってくる。そんな顔をされると素直な気持ちを言ってしまいそうになる。俺は目を逸らして黙った。
「否定しないんだ」
陸人が見透かすような視線を俺に送ってくる。
俺の今まで心に押し込めていた気持ちが出ようとしている。この気持ちは出してはダメなんだ。この気持ちを出してしまったら、彼女を困らせることになる。出てきそうになるのを必死に押さえ込むように、マフラーをぐっと握った。
「今は色々言えないけど、今度話すよ。その代わり陸人の好きな人も教えろよ」
「分かったよ。じゃあな」と陸人が満足そうな顔をして去っていった。
校門で待ち合わせている愛生の所へ急いで向かった。
校門の前で待っている彼女は、カメラを空に向けて撮っているようだ。彼女が優しく微笑んでいる。一見、何も悩みなんてなさそうな、何にも脅かされていない純真な、その姿をカメラに収めたい。
彼女がこちらを向いた。そして、俺にカメラを向ける。今撮られた? と思いながら彼女に近づく。
「おまたせ。今、俺撮られた?」
ふふっ、と笑いながら、彼女がカメラの画面を見せてくる。
「ほら、かっこいい」
たしかに自分じゃないみたいに、格好良く見える。これは俺自身が格好良いからではない。きっと彼女が写真を撮るのが上手いんだ。
「すげぇ。愛生、撮るの上手いね」
「私、撮るの下手だよ。モデルがいいんだよ! 琉生くん……かっこいいから」
彼女が真剣な顔をして、また大きな瞳で見つめてくる。
俺は目を逸らして、「バイト行こう」と歩き出した。
「待って琉生くん!」と呼ばれて振り返ると、彼女がカメラを俺に渡す。
「次は、琉生くんがカメラを使う番だよ。また沢山撮って見せてね」
「うん。ありがとう。楽しみにしてて」
うん、と彼女が元気よく頷き、目を輝かせながら笑った。
この笑顔を見たら、もうあの噂なんてどうでもいい。初めは、俺達が付き合っているなんて噂を聞いたら、彼女は嫌がるだろう、俺とは帰らないほうが良いだろう、と思っていた。でも、彼女はきっと、噂を聞いても嫌がらない。この笑顔を見て、そう思った。だって俺といて、こんなに楽しそうなんだから。
俺は彼女にカメラを向けて撮った。
「えっ? 撮られた? やだ恥ずかしい」
「仕返し。ほら行くよ」
カメラをカバンに入れて、俺達は歩き出す。
バイト先に着くと、お客さんは誰もいなかった。愛生のお父さんであるオーナーが、今日はお客さん少ない、とテーブルを拭きながら呟いていた。
それからしばらくしてもお客さんは来ないし、することも今はない。カフェの厨房に目をやると、愛生とオーナーが話している。それを見て俺はふと思いつき、カメラを取りに行った。
バイト中にこんなことをしたら怒られるかもしれないけれど、ばれないように愛生とオーナーをカメラに収めた。二人が笑い合っている良い写真だ。きっと、今から写真を撮ります、と言われると、身構えて、こんな自然な笑顔は出せない。良い感じに力が抜けた自然な笑顔だ。
明日愛生がこの写真に気づいて喜んでくれたら嬉しい。
それから、オーナーの一人の写真やパンやコーヒーの写真を撮りまくっていたら、案の定ばれてしまったけれど、お客さん来たら撮るなよ、と注意されただけだった。
オーナーは基本優しくて、ノリも良くて、誰が見ても格好良い。俺もオーナーみたいになりたいな、と憧れている。もっとオーナーと一緒に働きたかった。
もうすぐオーナーは、お店を辞めてしまう。
***
今年最後の営業日で、愛生のお父さん、オーナーの最後の出勤日となった。
俺達は、今日だけ営業終了まで働かせてもらうことにして、愛生と俺は、最後オーナーにプレゼントを渡そうと思っている。
営業終了時間になり、お店の片付けを終え、他の従業員の人達は帰っていった。
戸締りするから外に出ておけよ、とオーナーから言われて、俺達は外で待っていた。
愛生は少し震えながら、プレゼントを大事そうに抱きかかえている。彼女が、真っ暗な空を眺めながら、白い吐息をもらし、寒いね、と俺のほうをチラッと見て言う。
彼女の首元は肌が見えて寒そうで、俺のマフラーをかけてあげた。
「えっ! ダメだよ。琉生くんが寒くなるよ? 私は大丈夫だから」
マフラーを返そうとしている彼女は震えている。全然大丈夫じゃなさそうなのに。
「いいから。愛生、震えてるよ? ほら、しっかりマフラー巻いて」
俺がマフラーを首に巻いてあげると、彼女は申し訳なさそうに、ありがとう、とマフラーに口を隠しながら言った。
「琉生。愛生に変なことしてないだろうな?」
突然声がして後ろを振り返ると、オーナーが俺をじっと見ていた。
「へ、変なことしてないですよ……」
「嘘嘘。全部見てた。愛生にマフラー貸してくれたんだよな。ありがとう」
少し意地悪に笑うオーナーが、いつになく格好良く見えた。何年も働いてきたお店を辞めるというのに、何故かスッキリとした表情というか、寂しさとか一ミリも感じさせない雰囲気だ。
「もぉ。お父さん、琉生くんいじめないで」
彼女が眉間に皺を寄せながら、少し笑っている。
「ごめんごめん」とオーナーが両手を合わせながら笑う。
オーナーが、はぁ、と白い吐息をはいて、夜空を見る。
俺も夜空を見ると、さっきは見えなかったオリオン座が見える。
「あーついに終わったなー! 俺、おつかれ!」
「うん。お父さん、お疲れ様! ねぇこれプレゼント」
彼女が抱きかかえていたプレゼントを差し出した。
「おー! 何だ何だ? もらっていいのかー?」
「うん。開けてみて」
オーナーが、プレゼントの袋を開けて、中身を取り出した。
「マフラー!」と叫んで、オーナーは嬉しそうに笑って、早速首にマフラーを巻いている。
「ありがとなぁ。娘からのプレゼントなんて嬉しくて涙が出るな。俺が死んだ時、柩に一緒に入れてくれ」
オーナーが目頭を押さえた。
「お父さん。そのマフラーおじいちゃんになっても使うの? 分かった。柩に入れとくね。ねぇ……涙出てないよ」
「ばれたか」
月に照らされた二人は、舞台の上でスポットライトを浴びているようで、二人だけの世界で、俺の入る隙がない。
笑い合う二人の笑顔を見て、俺も、ふっ、と笑う。
ふとオーナーがこっちを見て、「琉生もありがとうな。愛生を頼んだぞ」と俺の肩をポンと叩いた。
「はい! オーナーも今までありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています」
オーナーは微笑んで、愛生、と呼ぶと同時に大きく手を広げて彼女を抱きしめた。
彼女は戸惑っている様子で、手をバタバタさせている。
「お、お父さん。びっくりするじゃん。恥ずかしいって。子供じゃないんだから離してよ」
「何言ってんだ。愛生はずっと俺の子供だ」
「そういう意味じゃないんだけど……」
オーナーの顔を見ると、目に涙を浮かべていた。さっきみたいな、嘘泣きではない。涙が溢れないように、必死に抑えている表情だ。
オーナーが、ふぅ、と息を吐いて、愛生から離れると同時に、じゃあな、と背中を向けて歩き出した。
「お父さん!」
彼女が呼び止めるけれど、オーナーは足を止めない。
「気をつけて帰れよ」と背中を向けて手を振っている。
「お父さん! 今度会う時は、ちゃんとお母さんに言ってから会いに行くね! またね!」
オーナーは最後まで振り向くことはなく、夜の暗闇に消えていった。
「お父さん。マイペースだよね。少しは振り向いてくれてもいいのに」
彼女は気づいていなかったけれど、きっとオーナーは涙が目から溢れ落ちたんだと思う。娘に泣いている姿を見られたくなかったから、振り向けなかったんじゃないかな。
結局オーナーは、何年も働いてきたお店を辞めるのが寂しかったのかもしれない。娘とも、また頻繁には会えなくなる寂しさもあっただろうし、それで涙を流したのだろう、とこの時は思っていた。
一ヶ月後、今シーズンで一番冷え込んだ次の日、朝起きてスマホを見ると、愛生からメッセージが届いていた。
『今日、明日学校休むね。昨日お父さんが亡くなった』と。




