西浦愛生
まだ夏の暑さが続いている。少し歩くだけで汗ばんできた。横にいる琉生くんの額にキラリと汗が光る。
学校の帰り道、今日は私達二人とも静かに歩いている。いつもなら会話が途切れることはないのだけれど、今はずっと頭の中でお父さんのことを考えている。もうすぐ着くと思うと足がすくむ。
パンの匂いがして、お店の前に植えられている木が見えてきた。
「どうしたの?」
立ち止まった私を、琉生くんが心配そうに見ている。
「あっ、ごめん。お父さんと久しぶりだから、会ってどういう顔すればいいのか、何を話せばいいのか、分からなくて……。緊張する」
彼が優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。愛生はそのままでいればいいよ。緊張したままでいいと思う。きっとお父さんがいつも通りに接してくれるんじゃないかな? 俺もいるし、大丈夫」
「うん。ありがとう。琉生くんがいてくれて良かった。行こう」
お店の前に着いた。大きなガラス張りの窓の向こうには、パンが並べられている。久しぶりに来てみると、私の知らないパンが沢山並べられていた。前とは少し違う雰囲気に少し寂しさを感じた。
前はお店に遊びに来て、パンを食べながら、お父さんが働いている姿を見ていた。
美味しいパンが食べられるし、お父さんの働く姿が格好良くてずっと見ていられた。お父さんは私なんかとは違って自信に満ち溢れていた。
たぶん、初めてお父さんと会った人は、怖い印象をもつと思う。髪をオールバックにして、眉間に皺をいつも寄せているような顔で近寄りがたい雰囲気を出している。でも話してみると、気さくで、笑った時の目尻の皺が深くて、すぐに怖い人ではないと分かる。
お客さん一人一人に合わせた接客で、小さな子供を連れたお母さんがいると、パンを選ぶ時に子供をみてあげていたし、杖をついたお年寄りには、トレーを持ってあげたり、一緒に選んであげたりしていた。常連の高校生には、いつも声をかけて、テストが良い点数だった、と聞くとおまけに一つパンをあげたり、カフェのほうにいる子の相談に乗ったりしていた。相談に乗っている間にも、他のお客さんの接客を決して疎かにしなかった。
お父さんが頑張っているから、お店の評判は良くて、私はお父さんのことを本当に尊敬していた。
そんな尊敬するお父さんの働く姿が、また見られるのも少し楽しみだった。
ふぅ、と一息ついて、ガラス張りのドアを開けた。
カランカラン、と音が鳴り、いらっしゃいませ、と店員の声がお店に響いた。
お店の右側にはパンが売られていて、左側に併設されているカフェがある。
パンとコーヒーの混ざった香りが、鼻腔をくすぐる。お父さんの匂いだ、と咄嗟に思った。
「お久しぶりです」
レジにいたパートの田中さんに声をかけた。
「あらぁ! 愛生ちゃんじゃない! 久しぶりだね。パン買いにきたの?」
「ううん。今日はバイトの面接に来たの」
「ここで、バイトするの?」と言って、田中さんが琉生くんのほうにも目をやった。
「うん。お父さん奥にいる?」
「いるいる! 呼んでくるね!」
小走りで奥へと消え去った田中さんは、相変わらずきびきびしている。この感じが懐かしくて安心する。
お父さんと会えなくなってから、お店に行くのもやめていたので、田中さんとは二年ぶりだった。
田中さんはお店がオープンした時から、パートとして働いてくれているらしい。
私は物心ついた時からこのお店にいることが多かった。保育園のお迎えはいつもお父さんで、そのままお店に直行して、お店のお客さんの邪魔にならない所で遊んでいた。
田中さんは、そんな私のことを気にかけてくれた。子供がいないらしく、私のことを、娘のように可愛がってくれた。
私の相手をしながら、仕事をするなんて、今考えれば本当に大変だったと思う。嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔でいてくれて安心する存在だった。もしかしたら、お母さんよりも一緒にいる時間が長かったかもしれない。
中学生になってから、お店に来る頻度は少なくなったけれど、いつ行っても田中さんは笑顔で迎えてくれた。
お母さんには相談できない話を聞いてくれたこともあった。
田中さんが戻ってきた。
「オーナーすぐ来ると思うから、カフェの空いてる席に座って待ってて」
田中さんが、併設されているカフェのほうを指さした。
「うん。分かった。ありがとう」
田中さんが頷きながら、まるで子供を見守るお母さんのように微笑んだ。
田中さんの笑顔を見ると、もっと早くお店に来れば良かった、と後悔した。
お父さんに会うのを躊躇わずにお店に来ていたら、お父さんと田中さんにもっと会えていたのに。
私と琉生くんは、お客さんの邪魔にならない端のテーブルに向かい合わせで座った。
彼も私も緊張からか、お店に入ってから一言も喋っていない。
彼が突然会釈をした。
後ろを振り向くと、黒いエプロンを身につけたお父さんが立っていて、カフェラテとパンが乗っているトレーを持っている。
「おう。久しぶり。これ食べろ」とお父さんが言って、テーブルにトレーを置く。
「久しぶり。ありがとう」
もっと感動の再会なのかと思っていた。でも、至って普通の態度で、話し方もいつものトーンでなんだか気が抜けた。
琉生くんは立ち上がって、初めまして黒嶋琉生です、と自己紹介をする。
「てっきり、女友達連れてくるのかと思ってた」
そう言ってお父さんが肩をすくめた。
椅子に座りながらお父さんが、食べろ食べろ、と言い、一応持ってきた私達の履歴書を眺めている。
私達はチラチラとお父さんを見ながら、パンを食べた。
パンを食べ終わる頃に、よし、とお父さんが履歴書を勢いよく置いた。
「愛生。琉生。週三でいいか? 愛生がお母さんにばれないようにするには毎日は無理だろ。お母さんが夜、家にいる時は、学校終わって二時間。夜勤の時は四時間。学校が休みの時は、バイトは休め。休みの時は遊べ。今のうちだぞ遊べるのも」
彼と私は同時に、はい、と返事をした。
お父さんがテーブルに人差し指をトントンさせながら、履歴書にまた目を通す。突然、あっ、と彼を見た。
「琉生。愛生と同じマンションだよな? すまないが、バイト終わったら愛生を送ってやってくれないか?」
「も、もちろんです。今も毎日一緒に帰ってるので」
「毎日?」
お父さんは眉間に皺を寄せて訊く。
琉生くんの目が泳いでいる。
「あ、いえ。あ、はい。えーと……」
「二人は友達だよな?」
「お父さん! 友達だから! 友達が毎日一緒に帰っちゃいけないの?」
「いや、いけないことはないけど。その……可愛い娘が取られそうで悔しい」
「何言ってるの?」
可愛い娘がとか、よくさらっと言える。でも、それが嬉しくて、怒っている表情にしようと思うけれど、口元が緩んでしまう。
家族三人でいた時は、いつもこんな感じだった。お父さんには不思議と強く言える。
お父さんは娘に溺愛みたいな感じで、それに呆れて私が何言ってんのやめてよ、と言うと、お母さんが笑ったりして、本当に仲が良かった。
今の私は、お母さんに言いたいことを言えていない。お父さんに言うみたいに、正直な気持ちを言えるようになりたい。
「愛生から怒られるの、懐かしいな」
お父さんが、ふっ、と笑いながら言った。同じことを考えていると思うと、私も、ふっ、と笑いが出た。
「うん。懐かしい」
懐かしむ余韻を残しながら、よし、とお父さんが立ち上がった。
「明日から来れるか?」
私は彼と目を合わせて、彼が頷いたので、大丈夫、と答えた。
お父さんは彼の肩に手を置き、よろしくな、と声をかけた。
彼は勢いよく立ち上がって、よろしくお願いします、と警察官がお辞儀するような素早い動きで、思わず私は笑ってしまった。
お父さんも豪快に笑いながら、良い挨拶するなぁ、と褒めた。
「あ、ありがとうございます」
彼は、少し顔を赤くしている。
「じゃあ仕事戻るな。好きなだけいていいし、好きな時に帰れよ」
「うん。ありがとう。明日また来るね」
ふっと肩の力が抜けた。ずっと肩に力が入っていたんだと今気づいた。お父さんは、いつも通りのお父さんで、こんなに緊張していたのが馬鹿馬鹿しく思えた。
彼はため息をついて、カフェラテを一気に飲み干した。
***
バイトを始めて一週間が経った。
「今日は、お客さん流石に少ないね」と田中さんが言う。
ガラス張りの窓がガタガタと揺れる。外ではお父さんが、台風に備えて、お店の前に置いているメニューボードを片付けていた。
そんな時だった。田中さんから聞いたのは。
この一週間、覚えることが多くて、お客さんも多いし、田中さんと話す時間がなかった。
今日は台風の影響でお客さんが少ないので、田中さんと喋っていた。
「愛生ちゃん達、バイトいつまで続けるの? 年末には辞めるの?」
「年末? いや、いつ辞めるかはまだ考えてなかった。本当はできるだけ続けたいけど、来年の春までかな……まだお父さんにはそんな話してないんだけどね……」
それまでには、お金は貯まっているだろうし、春になったら辞めて、それからは自由に過ごしたい。やりたいことを叶えたい。
「そっか、てっきり年末までだと思ってた。ほら、一月からオーナー変わるでしょ? だから……」
「変わる?」
「うん。変わる……って、えっ? 愛生ちゃん、聞いてないの?」
オーナーってお父さんだよね。変わるってことはお父さんはお店を辞めるってこと? そんなの聞いてない。
私は、エプロンの裾を握りしめた。
「聞いてない。何で変わるの? お父さん転職するってこと?」
「詳しくは私も分からないんだけどね。とにかくオーナーが変わるとしか聞いてないの。もしかしたら体調が悪いのかなって思ったんだけど……。この前、お父さん倒れちゃったのよ」
「えっ……? お父さんが倒れた? 大丈夫だったの?」
「うん。オーナーはただの過労とか言ってたんだけど。心配だよね」
「……ちょっとお父さんに聞いてくるね」
お店のドアに手をかけた。風が強いからか、ドアが重たい。お父さんがお店を辞めること、倒れたことが頭の中を支配して、手に上手く力が入らない。
力を入れてドアを開けると、どうした、とお父さんが訊いてきた。
「お父さん。お店辞めるの? 私全然知らなかった」
一瞬片付ける手を止めて、お父さんが話し出した。
「……近々言おうと思ってたんだ。言うの遅くなってごめんな。オーナー変わっても、そのままバイトできるようには言ってるから、何も変わらないから心配すんな」
「そういう心配はしてない……何で辞めるの? ……体調悪いから?」
お父さんが、私と目を合わせてくれない。
「体調は大丈夫だよ。そうだな……お父さん、昔から飽き性だっただろ? ほら、釣りもゴルフもすぐやめただろ?」
「それは趣味でしょ? この仕事は私が生まれる前からしてたんだよね? 今でもこの仕事好きでしょ? 見てたら分かるよ」
メニューボードを片付け終わり、お父さんが腕を組んで、流れの早い暗い雲を見ている。
「まぁ好きだけど、他にやりたいことがあるんだよ」
「やりたいことって何?」
お父さんが私と目を合わせた。強い風と細かい雨にかき消されそうに弱々しく、「秘密」と言った。
「もぉ。教えてよ」
お父さんが満面の笑みを見せる。
「ほら、中に入るぞ」と言って店の奥へ入っていった。
やりたいことって、何だろう。教えてくれてもいいのに、と思ったけれど、私もお父さんにhand numberのことを言えていない。
だから、お父さんも私には言いにくいことがあるのだろう。そう思ってこれ以上聞かなかった。




