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残された時間を知ってしまった私達は  作者: 七瀬乃


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2/19

西浦愛生(にしうらめい)

 私の左の手の平に、突然hand numberが現れた。


 期末試験が明日に迫っている時だった。

 その日はとにかく暑くて、学校が終わって、家に帰る途中から汗だくになっていたので、家についてすぐにシャワーを浴びた。

 のんびりする暇もなく勉強を始めるが、ふぁ、とあくびが止まらない。正直、勉強が苦手な私は集中力がないし、眠気に襲われる。眠気を吹き飛ばすために、スースーするガムを噛んでみるけれど効果なし。インスタントコーヒーを入れて、コーヒーの香りを楽しみながらグイッと飲むけど効果なし。一番効果があったのは、冷水で顔を洗う、だった。

 洗面所へ行き、水道のハンドルを上げた。勢いよく水が出て、あちこち飛び散り、あわてて水量を調整した。温度を確かめると、今の季節にしては手を引っ込めたくなるくらい冷たい。よし、これで顔を洗ったら一気に目が覚める。

 私は両手で水を受け止め、顔にかけようとした。その時、手の中で揺れる水面の奥のほうで何かが見えた。

 左の手の平に数字が見える。急いで水を捨てて、数字を確かめた。


 数字は "2" だった。


 数字を見た瞬間から、心臓の鼓動が強く速くなって、息苦しくなってきた。

 嘘でしょ……。

 "2"ってありえない。だって"2"って、私はあと二年しか生きることができないってこと?

 違うよね? 寝ぼけて手の平に数字を書いてしまっただけだ。

 そう思って、石鹸で何度もこすって洗った。手が赤くなるほど洗った。でも、数字は全く消えない。

 ズボンのポケットに入れてあったスマホを取り出し、手の平の写真を撮ってみる。写真に数字は写っていない。

 私にしか見えないんだ。やっぱり間違いない。


 私に残された時間はあと二年なんだ。

 

 やだ。何であと二年なの? 私、まだ十六歳だよ? 何でよ。何で私なの?


 突然、目の前に手が見えた。驚いた私は、咄嗟に手を握りしめて座り込んだ。

「愛生、大丈夫? お母さん、ただいまって言ったんだけど気づかなかったの? 水も出しっぱなしだし、止めたよ」

「お、おかえり。ごめん。ぼーっとしてた」

「顔色悪いよ? 体調悪いんじゃないの?」

「大丈夫……」と精一杯の笑顔で答えた。

 お母さん。本当は大丈夫じゃない。お母さんに言いたい。私、あと二年しか生きることができないって。でも、数字を言うと寿命が五年縮まるっていう話があるし、私が数字を言ってしまったら、すぐに死んでしまうことになる。

 どうやって伝えたらいいの? 今の私にはどうしたらいいのか分からない。

「今日は早く寝るね」

 真っ暗な自分の部屋に戻り、ベッドの中に潜りこんだ。

 全身を脈打つように心臓が激しく動いている。まだ息苦しい。

 怖い。怖いよ。死にたくない。

 この明かり一つない真っ暗な部屋と同じで、私の心も真っ暗だ。

 どうすることもできないの?

 私は死をただ待つしかできないの?


 そうだ。数字を口に出すと寿命が五年縮まるなら、増えることもあるんじゃないかな。

 私はスマホを取り出した。真っ暗な部屋にスマホの画面だけが光って、この光が私には希望の光に見えた。

 ネットの検索欄にhand numberと打ち込むと、検索結果がずらりと並んでいる。

 上から順番にサイトを開いて見ていくと、そこには特別授業で聞いた内容とほとんど一緒のことが書かれていた。

 さらにスクロールして、あるサイトの記事を発見した。

『数字は増えることはあるのか?』という題名で、読んでいくと、数字が減ったというのは世界各国で報告されているが、増えるということは現在まで確認されていない、と書かれていた。

 一筋の光が儚く消えた。

 運命は決められているんだ。もう、私に残された時間は二年なんだ。

 スマホを床に投げ捨て、ただ真っ暗な部屋で涙を流すことしかできなかった。



***



 私は、クラスのみんなを見下ろしていた。ずっと見下ろしていた。授業中も、休み時間にみんなが笑って話しているのも、みんなを羨ましく思いながらずっと見ている。

 学校が終わってからは、琉生くんの後ろをついていく。一言も話さないし、琉生くんは私を見ようともしない。あ、私、幽霊になったんだ、と思っていたら目が覚めた。

 こんな夢を見るなんて、思わず、ふっ、と鼻で笑ってしまう。昨日hand numberが出てきたからだ。だからこんな夢を見たんだ。もっと楽しい夢が見たかった。


 手の平を見ると、昨日と変わらず "2"が見える。

 これからどうすればいいんだろう。まだ信じられない。私、二年後には死ぬんだ。どうやって死ぬんだろう。怖くてこれ以上考えたくない。

 お母さんに言ったほうがいいのかな。数字は口に出して言えないし、私の命は短いって言うべきなのかな。でも、お母さんを悲しませたくない。どうやって伝えるべきか考えないといけない。

 お父さんは、離婚してから会っていないし、いきなり会って伝えても混乱するだけだ。考えていたら、また涙が出そうになる。

 今日から期末試験が始まるのに、勉強は全然できなかった。お母さんに心配かけないように、とりあえず学校に行こう。


 ドアをノックする音が聞こえた。

「愛生〜! そろそろ起きないと間に合わないよ〜」

 お母さんの声だ。お母さんの、よく通る声が聞けなくなるんだ。私はこの世から消えてしまうんだ。

 起きてリビングへ行くと、お母さんが仕事に行く準備をしていた。

「愛生、おはよう。朝ごはん適当に食べてね」

「うん。ありがとうお母さん」

「何〜? ありがとうなんて珍しい」

 お母さんは笑いながら、私の頭を優しく撫でた。

「あっ愛生〜目腫れてるよ。勉強頑張りすぎじゃない? じゃ仕事行ってきます。戸締りよろしく」

「うん。いってらっしゃい」


 洗面所へ行き、鏡で自分の顔を見ると、目が腫れている。いつもの半分しか目が開いていなかった。酷い顔だ。メガネをかけて隠そう。

 はぁ、とため息をついて、学校へ行く準備をし、家を出た。


 駅のホームについた。

 ホームで笑いながら話す女子、参考書を開いて真面目に勉強している男子、腕時計を見て時間を気にしているサラリーマン、スーツを着こなして高いヒールを履いているお姉さん。

 この中に私みたいな人がいるのだろうか。あと何年しか生きられないとか、あと何日しか生きられないとか、そんな人はいるのだろうか。

 たぶんここにいる人のほとんどが、私より生きられる時間は長いと思う。

 表情で分かる。何の心配もなく笑って、勉強して、当たり前の日常を過ごしている。この雑踏の中で、私一人だけが浮いている気がする。


 色々考えていたら、学校にいつの間にか着いた。校門を通って、コンクリートでできた校舎に入ると、夏なのにひんやりとした空気が肌にまとわりつく。段々と体の中心、心の奥底まで冷えていく感覚に陥った。私の心は凍っている。

 教室に入ろうとした時、「愛生〜! おはよう!」と陽菜に声をかけられた。

 陽菜の明るく弾むような声に、凍った心が少し溶けた気がした。

 今できる精一杯の笑顔で、「陽菜。おはよう」と言う。

「今日メガネじゃん! 初めて見た! 似合ってる!」

「ありがとう」

 ふと後ろに気配を感じて振り向くと、琉生くんが立っていた。

「黒嶋おはよう」

「おはよう琉生くん」

「おっす」

 琉生くんが、私の目をじっと見てくる。じっと私を見るなんて珍しい。いつもなら私が目を合わせても、すぐに目を逸らすのに。たまに目を逸らさずに見てくれることもあるけれど、目が合うきっかけはいつも私から。私が琉生くんの目を見ないと、私を見てくれない。

 そんな彼が今日は自ら目を合わせてくれた。思わず私のほうが目を逸らしてしまった。

「目、腫れてる」

 琉生くんがぼそっと言う。

「えっ……」

 私は恥ずかしくて手で目元を隠した。

「黒嶋! 女の子に向かって目腫れてるとか言うな! 女の子は気にするんだから! 女心を分かってないんだから!」

 陽菜が呆れたような顔をして言う。

 琉生くんはばつが悪そうに、「ごめん……」と言った。

「あっ、全然大丈夫だよ。目が腫れてるのは本当だから……」

「うん。ごめん……」

 そう言って彼は教室へ入っていった。

 陽菜が琉生くんを見ながら、「デリカシーないわ〜」とまだ呆れているようだ。

「陽菜、大丈夫だよ。昨日寝る前にコーヒー飲んだからかな。ははは」と明るく言ってみた。


 教室に入ってしばらくすると、期末テスト一教科目が始まった。

 あっという間に今日の試験は全部終わって、もう帰る時間になっていた。

 こんな状態でテストなんて、まともにできなかった。きっと赤点だらけだ。留年したらどうしよう、と思ったけれど、留年しても大丈夫だった。あと二年しか生きられないから、どうでもいい。また、ふっ、と鼻で笑った。

 明日のテストもやる気が出ない。もう何もかもどうでもいい。何のためにあと二年、生きるの。あと二年ただ死を待つだけだなんて生きている意味がない。


 今死んだっていい。


 昨日ネット検索をしていたら、運命は変えることはできないと書いていた。

 hand numberが "0" にならない限り死ぬことはないと書いていた。この情報は本当なのかな。本当に運命が変わらないのか、試してみようかな。私が今死ねば、hand numberなんて関係ないことが証明される。"0" にならなくても死ぬ。運命は変わるって証明できる。

 

 駅についた。私は、ホームの黄色い線の外側に立った。一歩踏み出せば落ちる距離だ。電車が来た時に一歩踏み出して落ちればいいだけ。


「西浦さん危ない!」


 私は腕を掴まれて、強く後ろへ引っ張られた。

振り向くと、琉生くんが眉間に皺をよせて、真っ直ぐ私の目を見ている。

 こういうことか。今死のうと思っても助けられてしまうんだ。hand numberが "0"にならない限り死ぬことができない。

「大丈夫?」

 大丈夫じゃない。声が出ない。足が震える。

 琉生くんに腕を引っ張られて、ホームにある人気の少ないベンチのほうへ連れてこられた。

「ちょっとここ座ってて」

 ベンチに腰掛けると、彼はどこかへ行ってしまった。

 手の平を見ると、変わらず"2"が見える。本当に運命って変えられないんだ。こんな気持ちで、あと二年、生きないといけないんだ。


 しばらくして戻ってきた琉生くんは、ジュースを買いに行っていたみたいで、これ飲んで、と渡してくれた。

「ありがとう……お金……」

「いいよ。おごる」

 彼もベンチに腰掛ける。

「ありがとう。あ、もう電車くるよ」

 私が立ち上がろうとすると、琉生くんが私の腕を掴んできた。彼のほうを見る。

「ごめん。わがまま言っていい? 一本遅い電車にしない? これ飲んでから電車に乗りたい」

 琉生くんは私から視線を外しながら言った。

「うん……」

 たぶん彼のわがままなんかじゃない。

 私に合わせてくれている。私が危ないことをしていたから、落ち着くのを待ってくれているんだと思う。気遣ってくれている。

 彼は自然とそういう気遣いができて、周りのことをよく見ている。

 いつもそう。困っている人がいたら、さりげなく助けてあげる。

 

 つい最近も、あるクラスメイトが困っていると助けてあげていた。そのクラスメイトが放課後までにクラス全員分のノートを職員室に持っていく予定だった。けれど体調が悪く、ノートを持って行くことができずに困っていた。彼はそのことにいち早く気がついて、「俺、職員室に行く用事があるから、ついでに持って行くよ」と声をかけていた。職員室に用事なんてないのに。そうやって周りをよく見て、自然と気遣いができる人だ。

 私なんて気づいていても、誰かを助けるとか勇気が出ない。


「ごめんね。琉生くん」

「いやいや。謝るのは俺のほうだよ。電車一本遅らせてしまって、ごめん」

 琉生くんがグビッと缶ジュースを飲んだ。

 優しくて気遣ってくれる彼は、何も聞かずにただ一緒にいてくれる。彼の静かな優しさが心地良い。

 そんな彼を見て、私も缶ジュースを飲んだ。

 しばらく沈黙が続いたけれど、彼との沈黙は嫌じゃない。


「大丈夫?」

 突然、琉生くんが心配そうな顔をして訊いてきた。

「えっ?」

 彼が私の頬に優しく触れた。何だろうと思い、私も自分の頬に触れると濡れている。気づかないうちに涙が頬を伝っていた。

「私、泣いてる。何でだろう……気づかなかった」

 涙を流しながらも笑いが出てきた。

「はははは……やだなぁ琉生くんの前で泣くなんて恥ずかしい」

 琉生くんは私の目を真っ直ぐ見ている。彼はこういう時は目を逸らさない。周りなんて見えていない。私のことしか目に入っていない。二人だけの世界にいるような錯覚に陥る視線。

「西浦さん。西浦さんの笑顔はすごく素敵だけど、今は無理に笑わなくていい。涙が出るって心が悲鳴をあげているんだと思う。だから、今は泣きたいだけ泣いたらいいよ。時間気にしなくていいし、俺、向こうむいてるから」

「うっ……」

 もうそこから涙が止まらなかった。さすがに学校の人が他にもいるかもしれないし、見られたくなかったから声を殺して泣いた。

 

 どのくらい時間が経ったのか分からないけれど、たぶんこの涙は止めないと出続けてしまう。さすがに明日も期末試験があるし、琉生くんに迷惑がかかる。何度も深呼吸をして、どうにか涙を止めた。

「琉生くん。もう大丈夫。ありがとう、待っててくれて。帰るの遅くなってごめんね」

「あやまらなくていいよ。俺は全然大丈夫だから」

 彼は、私のほうを見ようとしない。私の泣き顔を見ないようにしてくれているんだと思う。

 こんな気遣ってくれる姿を見ると、もしかしたら朝、目が腫れてる、って言ってきたのは、デリカシーがないとかではなく、私を心配して言ったのかもしれない。

 電車に乗ってからも、家に帰るまでも、琉生くんは一度も私の顔を見ることはなかった。



***



 次の日の朝、マンションのエントランスを出ると琉生くんが立っていた。

「琉生くん……。おはよう。昨日はありがとう」

「おはよう。全然いいよ。俺たいしたことしてないし、今は大丈夫?」

 琉生くんが、私の顔を覗いてきた。

「うん。大丈夫。昨日は琉生くんがいてくれて良かった」

 少し視線を外して彼が微笑んだ。

「じゃあ学校行こっか」と言って、私の半歩前を歩いていく彼の後ろ姿は、頼もしくて安心できる。今日会ったら、昨日私が何で泣いたのか聞かれるかも、と思ったけれど、何も聞いてこない。ただそばにいてくれるだけだ。たぶん私が話すまでは聞いてこない。私のペースに合わせてくれるのが、心地良かった。


 琉生くんのおかげで、今日もなんとか一日を乗り越えられそう。テストなんてできなくてもいい。学校に行くだけでも偉い、と自分に言い聞かせる。


 次の日もその次の日も、琉生くんが毎朝一緒に登校してくれた。学校が終わってからも、毎日駅のホームで待っていてくれて、家まで一緒に帰った。私が危ないことをしないように見守ってくれているのだと思う。


***


 やっと期末試験が終わった。

 今日はお母さんが当直だから、私が晩御飯を作る日。早く帰って晩御飯を作りたい。

 帰る準備をしていると、クラスメイトの女子が私の所にやってきた。

「愛生ちゃん。ごめん。いつもお願いして悪いんだけど、今日も掃除変わってもらえないかな……?」

 いつも部活が忙しい、と言って掃除を頼まれることが多い。私は帰宅部で時間もあるし、いつもは断る勇気もなくて、私がするしかない、と思いながら引き受ける。

 でも、今の私には心に余裕がなくて、部活だからって掃除はしなくていいの? 他のみんなはしてるよ? とか少しだけ怒りが湧いてくる。断る勇気がない私は、奥歯を噛み締め、拳を握って、いいよ、と言おうとした。

 その時、「俺が掃除するよ。今日はいいけどさ、部活忙しいからって掃除しなくていい理由にはならないよ。西浦さん頼りすぎ。他の部活やってるヤツらもちゃんと掃除してるんだから、次からはしろよ」と琉生くんが言ってくれた。また助けられた。

 琉生くんは言う時はハッキリ言うタイプで、そういうところに憧れる。

「ご、ごめん。そうだよね。次からはちゃんとします。愛生ちゃんごめんね……」

 クラスメイトの女子が俯いている。

「い、いいよ! 今日は掃除やっておくから、部活いってらっしゃい」

 また私は精一杯の笑顔で答えた。

 私と琉生くんは、ほうきを持って教室のベランダの掃除を始めた。会話のないまま黙々とほうきで掃いていると、彼が口を開いた。

「西浦さん。嫌だったら断ればいいのに」

 嫌なのが顔に出ていたんだ。なるべく顔に出ないように頑張っていたのに。

「うーん……私、断って友達に嫌われるほうが耐えられないの。だから嫌でも引き受ける。私、暇だしさ……」

 いつもなら笑顔で答えられるのに、今日はたぶん笑顔がひきつっている。顔がこわばって上手く笑えない。

「そうやってすぐ無理に笑おうとする」

「……無理にじゃない。もう私のことはほっといて!」

 声を張り上げてしまった。図星をつかれて、私の心の中を全部言い当てられそうで止めたかった。

 散々助けてくれた、そばにいてくれた琉生くんに酷いことを言ってしまった。嫌われてしまう。誰かに嫌われるなんて耐えられないのに。ましてや助けてくれた彼に嫌われるなんて。


 中学生の時を思い出した。私はあの時、一部の女子から嫌われていた。

 クラスの男友達と仲が良かった私は、時々女子から、男子の連絡先を聞いてくれないか、と頼まれることがあった。

 最初は断らずに、変わりに男友達に聞いていた。でも、ある時男友達が私に言った。

「連絡先教えるのだるい。あと、いつも西浦つかって連絡先聞いてくるじゃん? それも嫌なんだよね。今度聞かれたら断ってくれる?」

 私は、「そっか分かった」と言って、今度聞かれたら断ろうと思った。

 そして、クラスの女子から男子の連絡先を聞いてほしい、とまた頼まれた時、「あーえっと……連絡先もう聞けない。ごめんね」と答えた。

 女子は、「えっ?」と顔をしかめた。

「何で聞いてくれないの? 他の子の時は聞いてたよね? 何で私だけダメなの? もしかして愛生ちゃん、あの男子のこと好きなの?」

「いや、ちが……」

「もういい」

 女子は、私を睨みつけたあと去っていった。

 あんなに人を怒らせて、睨みつけられるのは初めてだった。あの女子の目が脳裏に焼き付いて離れなかった。しばらく、その場から動けなかった。

 今まで友達関係でトラブルを起こしたことがなかった私は、この状況をどうしたら良いのか分からなかった。

「どうしたの?」

 一番仲の良い友達が、心配して声をかけてくれた。

 その友達に全部説明すると、「愛生は悪くないよ」と言ってくれた。

「でも、嫌われたかも……」

「嫌われてもいいじゃん! 私がいるから」

 友達は私の不安をかき消すように微笑んでくれた。その時は不安が消えた。でも、次の日から一部の友達から無視されるようになって、不安で心が苦しくなった。

 それから、男好き、二股かけてる、とか噂がたって、全ての人の目が気になった。みんな私のことを話しているんじゃないか、また変な噂をされているんじゃないか、みんな私のことを嫌いになってしまうと思うと、怖くて学校に行きたくなくなった。


 落ち込んでいると、仲の良い友達が言ってくれた。

「気にしなくていいよ! 噂なんて誰も信じてない。それと、みんなに嫌われたわけじゃないでしょ? 愛生のこと好きな人のほうが多いよ! 愛生は笑顔がすごく素敵なんだから、笑って! 笑顔でいれば大丈夫!」

 たしかに、全員から嫌われたわけではない。私と変わらず仲良くしてくれる友達のほうが多い。でも、友達から嫌われることは初めてで、全員と仲良くしたかった欲張りな私には、この状況は耐えられなかった。一部の人から嫌われるだけでもこんなにも苦しいんだと思い知らされた。

 あの時断らなかったら、友達に嫌われることはなかったのかもしれない。もう誰からも嫌われたくない。そう思って、それからは友達から何か頼まれたら全て引き受けた。嫌なことでも断らなかった。嫌だと思っても本音を隠した。感情を押し殺した。笑顔が素敵だと言われたから、笑顔も絶やさずに友達と接した。


 高校生になってからは、それで上手くやれていた。みんな私に話かけてくれて、きっと嫌われてはいないと思う。

 それなのに琉生くんに、ほっといて、なんて言ってしまった。嫌われたくないのに。hand numberのせいで、私の精神状態は普通じゃない。感情を抑えられない。


 琉生くんをチラッと見ると、黙々と掃除をしている。

 夏の日差しがジリジリと照りつけて、気まずい空気をより一層重くさせる。無言が続き、私は俯いてベランダを掃く。


「終わった! 西浦さん早く帰ろう!」

 突然琉生くんが口を開いて、空気が一気に変わった。気まずい空気を吹き消すかのように風が吹いた。

 琉生くんが優しく微笑んでいる。ほっといてなんて言ってしまったのに、何事もなかったかのように笑っている。

 申し訳ない気持ちになって、持っているほうきを強く握りしめながら、「うん。帰ろう」と小さな声で言った。


 いつもは駅のホームから一緒に帰るけれど、今日は初めて学校から一緒に帰る。琉生くんと二人になる時間がいつも以上に長い。ずっと気まずいままは嫌だ。

 彼は、さっきのことを気にしていないようだけれど、ちゃんと謝りたい。

「琉生くん。さっきは、ほっといてとか言ってごめんね」

 琉生くんの顔を覗くと、彼は私から目を逸らして、いつもと変わらない表情だ。

「あー全然いいよ。西浦さんが怒ったの初めて見た。なんか新たな一面見れて、俺は嬉しかったよ」

「確かに、友達にあんな言い方したことないかも……。最近ちょっと心に余裕なくて……ごめんね」

「もう謝るの禁止。心に余裕がない時は、俺にぶつけていいから。怒ったり泣いたり笑ったり色んな西浦さんを見せてよ」

 彼が私と目を合わせて微笑んだ。心臓がドクンと鳴った。

「うん。琉生くんありがとう」

 彼はハッキリと思っていることが言える。厳しい言葉も言うし、優しい言葉も躊躇なく言える。

やっぱり私は彼に憧れている。


 家の最寄り駅について、晩御飯の材料を買うのを思い出した。

「琉生くん。私、スーパーで晩御飯の材料を買って帰るから、先に帰ってていいよ」

「あー俺も行っていい? 俺もちょっとアイス食べたいし、帰り荷物持つよ」と言ってくれたので、そのまま買い物に付き合ってもらった。


 買い物が終わってスーパーを出ると、彼がアイスを食べながら、「荷物貸して」と言って私の荷物を全部持ってくれた。

 ありがとう、と言って歩き出して前を見ると、ゆっくりと歩く白髪のおじいさんの姿があった。両手に重たそうな買い物袋を持っている。その姿を見て、いつものおじいさんだ、と思った。

 

 前々からおじいさんが、一人で重たい荷物を車まで運んでいる姿を何度か見かけていた。ある時、私は勇気を出して、おじいさんに、「荷物運びましょうか?」と声をかけた。

 自分から何か行動するとか、自分から話しかけるとか苦手な私は、困っている人がいても、なかなか声をかけたりできなかった。声をかけようかと迷っていると、いつも私よりも行動力のある人が先に声をかけて助けている。その姿を見ていることしかできない自分が情けなかった。

 おじいさんに声をかけるのにも時間がかかって、やっと四回目ぐらいで声をかけた。

 私にとっては、すごく勇気が必要で、手に汗をかいて、心臓はドクドク言ってうるさかった。

 荷物運びましょうかと声をかけても、嫌がられるかもしれない。よく、年寄り扱いをするな、なんて言われている所を見たことがある。

 そうやって怒られたらどうしよう、ありがた迷惑だと思われたらどうしようとか、ずっと考えて怖かった。

 でも、おじいさんは、「えっ? いいのかい?」と言って嬉しそうに笑っていた。おじいさんの笑顔に安心して、はい、と私も笑みがこぼれた。

 ゆっくりと車へ向っている時、おじいさんが、娘が遠くにいるから頼る人がいない、自分で運転して買い物にくるしかない、膝が悪くて毎日買い物に来るのも大変だからまとめ買いをしている、と話してくれた。

 頼れる人がいないのは大変だし、私が手伝うことで、おじいさんの負担が少しでも軽くなればと思った。

 車まで荷物を運ぶと、「ありがとう。すごく助かったよ」と感謝された。

 勇気を出して良かった。人の役に立てることが、感謝されることが、こんなにも嬉しいことだなんて、知らなかった。

 それから、スーパーでおじいさんを見かけるたびに声をかけ、荷物を運ぶのを手伝っている。


 今日もおじいさんは、重たい荷物を運んでいる。

「琉生くん。少し待っててくれる?」

「えっ? うん……」

 私はおじいさんに駆け寄った。

「おじいさん、こんにちは。手伝いますよ」

「あ〜こんにちは。いつものお嬢ちゃんかい。愛生ちゃんだったね。ありがとう助かるよ」

「いえいえ」

 車に荷物を入れ、おじいさんが車に乗るのを見届けて、琉生くんの所へ戻った。

「ごめんね。お待たせ。行こう」

「全然いいよ。知り合い?」

「ううん。おじいさん、重たい荷物一人で運ぶの大変でしょ? だから、スーパーでたまに会った時は手伝ってるの。おじいさん頼る人がいないんだって」

「そうなんだ。西浦さんはやっぱり優しいね」

「そんなことないよ。なんか……手伝うとおじいさんが喜んでくれるし、感謝されると嬉しくて……将来はお年寄りの人と……」

 あ、私に将来なんてなかった。将来はお年寄りの人と関わる仕事がしたいとか、叶わない夢を語ってしまうところだった。大学に行けない。仕事もできない。結婚も、子供を産むこともできない。私に将来なんてない。夢も希望もない。

「将来?」

 黙った私を見て、彼が首を傾げながら訊いてくる。

「ううん。何でもない」


 私は絶望しながら生きていくだけ。

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