黒嶋琉生
デートが終わり、愛生とは友達に戻った。まだ、彼女の手、抱きしめた時の温もりを思い出す。もっと触れたい、と思ってしまうけれど、もう友達だから触れることはできない。俺を信用しているから、彼氏役に選んでくれたんだ。もう彼女には触れない。
友達に戻って初めて顔を合わせた時、彼女は少し照れくさそうに、「おはよう」と言った。俺もなるべくいつものように、「おはよう」と言ったけれど、普通にできたか自信はない。でも、少しずついつもの友達のように戻っていった。
三年生になってから、クラスは離れたけれど、毎日一緒に学校に行って、放課後は毎日どこかに寄り道をした。愛生が食べたいと言っていたドーナツのお店に行ったり、雑貨屋とか本屋とか行って、やりたいことを叶えていった。
彼女は毎日楽しそうだった。大切な人との時間も大事にしているようだった。お母さんとは前より仲良くなって、今度一緒に出かけると言っていた。お母さんとの最後の思い出作りだと。
もう一人、あのスーパーで会うおじいさんのことを気にかけていた。そろそろおじいさんに、手伝えなくなることを伝えないといけない、と何度も口にしていた。そして、彼女は申し訳なさそうな顔をして、俺に言った。
「琉生くんにお願いがあるの。無理にとは言わない。私がいなくなったあと、もし琉生くんがスーパーに行くことがあったら、おじいさんのこと気にかけてくれないかな? スーパーに行かないなら行かないでいいから、もし行くことがあったらでいいから……よろしくお願いします」
深々と頭を下げる彼女を見て、俺の心臓がチクっと痛んだ。
「うん。スーパーに行くことがあったら、おじいさんのこと手伝うよ……」
彼女が顔を上げて、申し訳なさそうに笑った。
「ありがとう」
彼女は、おじいさんに会って、「おじいさん。私、もう少ししたら手伝えなくなるんだ……。ごめんなさい」と言っていた。
「いいんだよ。今まですまなかったね。本当に助かったよ。ありがとう。あと琉生くんだったかね? 君もありがとう」
「いえ。俺は……これからも手伝います」
「無理しなくていんだよ。すまないね」
彼女がいる手前、手伝うと言うしかなかった。
嘘をつくと、どんどん心が切り裂かれるように痛くなる。本当は俺も手伝えなくなるのに、ずっと彼女に嘘をついている。
せめて、おじいさんには手伝えないことを伝えないと。
今日は一人でスーパーに来て、おじいさんが来るの待つ。だいたいこの時間に来るはずだ。
スーパーの入り口で待っていると、おじいさんがゆっくりと歩いてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。琉生くん、今日は一人かい?」
「あっ、はい。買い物が終わったら、荷物運びますよ」
「いつもすまないねぇ。無理しなくていいからね」
「いえ。俺も買い物済ませて、ここで待っているので」
俺は、今まで色んなことから逃げてきた。ずっと考えないようにしていた。でも、もうそろそろ現実を見ないといけない。
「琉生くん。待たせたね。すまないね」
「いえ。全然待ってないです。荷物持ちますね」
俺は、おじいさんが持っていた買い物袋を持って、車まで運んだ。
俺が車に買い物袋を置くと、おじいさんが、「ちょっと待って」と言って、買い物袋の中から何かを探している。
「あったあった。これいつものお礼だよ。好きか分からないけど、愛生ちゃんと食べてね」
おじいさんがチョコレートのお菓子をくれた。そんな大したことしていないのに、申し訳ない。
「ありがとうございます。愛生と一緒にいただきます」
「それじゃあ。気をつけて帰るんだよ」
「あっ、待ってください。伝えないといけないことがあって……」
「何だい?」
おじいさんが首を傾げている。
「その……この前、俺はこれからも手伝いますって言ったんですけど……実は……俺も手伝えなくなるんです。ごめんなさい」
「そうかいそうかい。高校三年生だったよね? 受験勉強で忙しいだろうし、私は大丈夫だよ。今までありがとう」
「受験ではないんですけど。俺、もうすぐいなくなるんです」
「引っ越しとかかな? それはもう会えなくなっちゃうね。またいつかどこかで会えたら、声をかけてね」
「……はい。いなくなる前まで、また会えたら手伝うので……」
「うん。また会えたらお願いしようかな。でも、会えなかった時のために言っておくよ。今までありがとう。元気でね」
「はい。おじいさんもお元気で……」
おじいさんが、車に乗って去っていった。こうやってお別れを言うと、もうすぐなんだと実感する。今まで考えないようにして逃げてきたことで、一気に現実が重くのしかかって、頭が重くて痛い。
もう逃げられない。もうすぐ俺は死ぬんだ。
***
愛生から、hand numberのことを初めて聞いたあの日、「急に数字が変わった。来年の今頃、死ぬみたい」と言っていた。
その日、俺も自分のhand numberの数字が変わった。愛生から聞いた時に、俺もhand numberを見ると"364/22/05"になっていた。
この時、もしかして俺達は同じ日に死ぬかもしれない、と気づいた。
俺のhand numberが現れたのは、四年前ぐらいだった。
おばあちゃんが亡くなったあとに、自分の手の平の数字に気づいた。
俺の手の平には、"4" と現れていた。その数字が信じられなくて、何かの間違いだと思って、俺はしばらく手の平を見ないようにした。見ないようにしているけれど、時々"4" がちらつくたびに、俺の心がざわざわとして落ち着かなかった。
おばあちゃんが、hand numberのことを言わずに死んで、母さんは精神的にやられていたから、母さんと父さんには絶対にhand numberのことを言うと決めていた。
日曜日、父さんと母さんがリビングでテレビを見ていたので、「ちょっといい?」と声をかけた。
テレビを見て、笑いながら、「何〜?」とテンション高めで母さんが言う。
「どうした?」と父さんは、テレビから俺に視線を移した。
「えっと……言っておいたほうがいいと思って」
「何〜?」
母さんは、相変わらずテンション高く言う。
「たぶんhand number出てきた」
母さんが慌てて俺のほうを向く。
「えっ? 何? hand number? 数字は……」
「数字は言うんじゃないぞ」
父さんは冷静だ。数字は言えないからどう伝えようか迷う。
「そっか。数字を言ったら減るんだったね……。琉生は教えてくれるの? どのくらい生きられるのか」
「うん。そのほうが安心だろ?」
「本当にいいのか?」
「うん。そうだな……。たぶん、高校三年生ぐらいじゃないかな……」
母さんも父さんも動きが止まった。そりゃそうなるよな、いきなりこんなこと言われたら。俺自身もよく分かっていないというか、分かろうとしていないが正解かもしれない。
「えっ? 高校三年生? 嘘でしょ……」
母さんが、手で顔を押さえて泣き出した。いつも冷静な父さんも落ち着きない感じで、俯いて貧乏ゆすりをしている。
「じゃあ、そういうことだから」
「待って!」
母さんが大きな声で叫んだ。
「ここに座れ」
父さんが低い声で言う。俺は父さんと母さんの前に座った。
「琉生、何であんたはそんな冷静なわけ? 高校三年生ってもうすぐだよ? もうすぐ死ぬんだよ? 怖くないの? 不安じゃないの?」
母さんが、服の袖で涙を拭いながら言う。
「冷静っていうか、俺もまだ信じられないんだよ」
「そうだよな、琉生。父さんも信じられない。琉生、何でもいいんだ。今の気持ちを言ってみろ。気持ちを押し込めると辛いだけだ。父さんと母さんが受け止めるから」
「だから、まだ信じられないって言ってるだろ」
気持ちなんか自分でも分からないんだよ。俺を苛立たせるなよ。あと四年後死ぬってだけだろ。死ぬ、死ぬって、この言葉を思い浮かべたら、両手が痺れて震える。
「死にたくない」
この言葉を口にした瞬間、涙が溢れてきた。親の前で泣きたくなかったのに、最悪。
父さんが背中をさすってくれて、母さんが俺の震える両手を握ってくれた。震えが少し収まって、少し気持ちも落ち着いてきた時、母さんの言葉で、俺は押し込めていた気持ちが爆発した。
母さんが、「大丈夫、大丈夫。怖いよね。分かるよ」と言った。
俺は反抗期真っ最中だったし、ましてやあと四年しか生きることができないと分かって、頭の中がぐちゃぐちゃだった。母さんに、分かるよ、とか言われて頭の血管が切れそうだった。
「大丈夫なわけねぇだろ! 大丈夫? 分かるよ? 大丈夫じゃないし、母さんに分かるわけないだろ! 長生きする人に俺の気持ちなんて分かんねぇよ!」
俺は母さんの手を振りほどいて、自分の部屋に閉じこもった。
死ぬと分かって、あと四年も生きる意味がない。大好きなサッカーもできなくなる。今やっている勉強も意味がない。あと四年もどうやって生きていけばいいんだよ。俺は何のために生きていくんだよ。
机の上にある教科書、サッカー部の写真、ユニフォーム、練習着、もうこんなの捨ててしまえ。持っていても意味がない。教科書も写真もユニフォームも全部破った。それでも、頭の血管が切れそうな感じが収まらない。
もうこの部屋にある物全部いらない。こんな物いらない。
俺は壁に物を投げ続けて、壊しまくった。壁に穴が空いた。でも、そんなのどうでもいい。このやり場のない怒りを抑える方法が他にない。
部屋にある物をほとんど投げ終わったら、涙は止まった。
壊れた物が散らばっている。まるで俺の心の中を表しているみたいに、ぐちゃぐちゃだ。
壊す物も無くなって、ベッドに横になって、しばらく部屋を眺めていた。
ドアをノックする音が聞こえて、目を開ける。いつの間にか寝ていたようだ。
「琉生。ご飯食べない?」
母さんが、俺の様子を窺うような、気を遣っているような口ぶりで言う。
動きたくない。返事をするのもだるい。
「琉生。心配だから返事して?」
本当にだるい。ほっといてほしい。こんな時に食欲なんてない。
「ねぇ琉生。とりあえずご飯食べない? リビングに用意してるから、出ておいで」
本当にほっといてほしい。これ以上俺をイライラさせないでほしい。
「いらない」
「そっか。飲み物だけでも飲んだほうがいいよ」
「いらねぇって言ってんだろ! クソババア!」
俺にこんなこと言わせんなよ。お願いだから、もうこれ以上はやめてくれ……。
「分かった。じゃあもう食べなくていい! クソガキ!」
何で俺がクソガキとか言われないといけないんだよ。立場が違うじゃないか。
それから、毎日学校も行かずに引きこもって、母さんと喧嘩をしていた。
「琉生。ごはん一緒に食べよう?」
「うるせぇ! 一緒に食べるわけねぇだろ。クソババア。死ねよ」
言ってすぐ後悔した。俺もこんなこと言いたくない。でも、自分をコントロールできない。
今まで何も言わなかった父さんが、突然部屋に入ってきた。
「勝手に入ってくんなよ!」
「お前、今何て言った?」
俺は父さんの胸ぐらを掴んだ。
「うるせぇ。出ていけよ!」
父さんが今まで見せたことのない怖い顔をして、俺の胸ぐらを掴んできた。俺よりも遥かに強い力で敵わない。父さんの胸ぐらを掴んでいた手の力が抜けた。
「物を壊してスッキリしたか? 母さんに暴言吐いてスッキリしたか? お前が今どんなに不安で、辛いか母さんは必死に分かろうとしてる。父さんもだ。だけど、同じ立場じゃないから、完全にはお前の気持ちは分からない。でもな、お前がこんな状況だから暴言吐いても仕方ない、とは思わない。死ねなんて言っちゃいけない。お前がどんなに辛い状況でも、父さんは許さないぞ! 母さんに謝りなさい」
「やめて! もういいから!」
父さんが俺の胸ぐらから手を離して、俺はその場に座り込んだ。
「謝るまでここにいるからな」
「なんなんだよ……。謝るよ。ごめん……なさい」
「うん……母さんは大丈夫だから」
また涙が出てきた。やめてくれよ。だから、部屋に入ってくるなって言ったんだよ。
俺が俯いていると、父さんが俺を抱きしめてきた。
「ごめんな。胸ぐら掴んで……」
「俺……のほうこそ……ごめん。死ねなんて……言いたくなかった。でも……自分が自分じゃないみたいで、どうしていいか分からない。また、父さんと母さん傷つけるかも……」
「そっか。言いたくなかったのに、言ってしまったんだな。ごめんな。父さんきつく言いすぎたな」
「ごめんね。母さんもしつこく話かけすぎたよね」
「俺も、ごめん……ごめん……」
父さんが俺から離れて、俺の目をしっかりと見つめる。父さんもうっすらと涙を浮かべている。
「琉生。父さんと母さんはどうしたらいいかな? 琉生のために何ができる?」
「琉生のためなら何でもするよ」
母さんも泣きながら言う。
父さんと母さんができること? 俺はこれからどうすればいいか? まだ全然分からない。
「ちょっと考えたい……」
「分かった。ゆっくり考えて父さんと母さんに話してほしい」
「うん。ご飯もちゃんと食べるから、しばらく一人で考えさせて」
それから、ご飯、トイレ、お風呂以外は、部屋にこもって考えた。
考えて考えて、父さんと母さんに話した。
「父さんと母さんに、どうしてほしいか考えたよ。父さんとは、ただいつも通り一緒にテレビでサッカーの試合を見たりしたい。あとは、母さんの料理をいっぱい食べたい……」
結局色々考えたけれど、二人にはいつも通りに過ごしてほしいし、二人の負担にはなりたくない。
父さんは深く頷いて、「分かった」と言った。
母さんは泣きそうな笑顔で、「はりきって毎日美味しいもの作っちゃうんだから!」と言った。
「琉生自身はどうするんだ? 父さんも母さんも琉生がやりたいことは自由にさせてあげたい。お前の意思を尊重するよ」
「俺は……高校には行く。友達とは会いたいから。でも、勉強は頑張らないよ? 大学行けないし、やったって意味ないから。あと、高校でサッカーはしない」
「えっ? 何で? サッカーあんなに好きなのに……」
母さんが悲しそうな顔をする。そんなに悲しそうにしないで、悲しいのは俺なんだよ。
「サッカー部に入っても、最後までやり遂げられないじゃん。それだったら最初からサッカーしないほうがいい。それに、サッカー……好きなことしてると死ぬのがもっと怖くなる気がする。もう俺、あとは死ぬのを待つだけの生活でいい。毎日普通に過ごして、hand numberのことを忘れたい」
母さんは、何も言わずに俯いている。
父さんは、難しい顔をして、「父さんは琉生が辛くない毎日を送ってほしい。だから、琉生がそう決めたなら父さんは何も言わない」と言った。
俺はやりたいこととか、あまりなかったし、何もしないほうが心が落ち着いていた。楽しい思い出が増えると、死にたくない、と思ってしまう。死に向かって生きていくだけで十分だと思っていた。
その日から俺は、hand numberのことをなるべく忘れようとした。でも、頭の奥深くにhand numberのことはあって、それが時々出てこようとする。それをまた、奥深くにしまうことができたのは、親友の陸人や父さん、母さんのおかげだった。
陸人はいつもふざけていて、俺を笑わせてくれる。
父さんと母さんはいつも通りに接してくれて、父さんの落ち着いている雰囲気と、母さんの性格の明るさに俺は救われた。
高校一年生の時、父さんから「琉生! 引っ越すことになった」と突然言われた。
「何で今?」
俺が死んでから、二人で住みたい所に引っ越せばいいのに、と思ったけれど、二人を悲しませたくないから言わない。
「父さん達の職場からも、高校からも近いマンション見つけたんだよ。こんな条件の良いマンションなかなかないぞ」とか言っていた。
その日の夜にリビングに入ろうとしたら、父さんと母さんが話しているのが聞こえた。こそこそと話しているけれど、はっきりと聞こえた。母さんが、「これで、琉生と少しでも一緒にいれる時間が増えるね」と言っていた。
何かが込み上げてきそうな感じがして、目を閉じて深呼吸をし、自分の部屋に戻った。
引っ越す時に、自分の物はほとんど捨てた。服とか、高校で必要な物以外は捨てた。そのほうが、あとあと父さんと母さんが楽だと思ったから。
高校二年生になる前に引っ越して、しばらくしてから愛生が隣の家に住んでいることが分かった。憧れている彼女と仲良くなって、舞い上がった時もあったけれど、すぐにその気持ちに蓋をした。
彼女がhand numberのことを教えてくれて、苦しんでいる姿を見て、俺と一緒だ、彼女を支えてあげたい、と思った。
でも、彼女は俺とは違った。俺と違って、彼女はhand numberから逃げなかった。俺みたいに忘れようとせず、しっかりと死を受け止めて、後悔しないようにやりたいことを次々に叶えていった。その姿に、逆に俺は救われた。一人じゃないんだ、と思えた。それでも俺は逃げ続けたけど。
彼女は俺が生きると思っている。そのほうが彼女にとって希望になる。
だから彼女に嘘をついた。このまま嘘を突き通すんだ。
***
目を閉じたまま、部屋が明るくなっていくのを感じる。ゆっくり目を開けて、スマホで時間を確認する。まだ、六時にもなっていない。あと一時間で起きる時間だ。最後の日なのに、最後の日だから眠れなかった。本当に今日なのかも信じられなくて、もしかしたら明日も普通に生きているかもしれないなんて、この後に及んで、まだ現実から逃げようとしている。淡い期待を抱いても意味がないのに。
壁に手を添えて、愛生のことを考える。愛生がこの前、壁の向こう側は私の部屋なんだよ、と教えてくれた。愛生は眠れたかな、怖くないかな、不安じゃないかな。俺は散々現実から逃げてきたから、ずっと全身が強張って、ずっと胃が重たくて、苦しくて眠れなかった。
起き上がって、殺風景の部屋を見渡す。ベッドとテーブルと段ボールが二つ。テーブルの上には、手紙とカメラを置いている。引っ越す時にほとんど物は捨てたから、部屋を整理するのは簡単だった。母さんが、片付けるのが少しでも楽になればと思って、残りの物をダンボールに詰め込んだ。
カメラは昨日愛生から、「これからは琉生くんが使ってね」と言って渡された。そう言う約束だったもんな、と思いながらカメラを手に取る。カメラの写真のデータを見ると、彼女の幸せそうに笑っている写真がいっぱいある。彼女の笑顔を見ると、少しだけ強張っていた体がほぐれた気がした。
自分が写っている写真も見る。愛生といる時、俺はこんなに笑っていたんだ。愛生がいなかったら、俺は何もない面白くない一年間だったんだろうな。愛生は俺に、琉生くんのおかげ、だといつも言っていたけれど、俺は愛生のおかげで何もない日々、いや、意識的に何もないようにしていた日々に花が咲いていった。何もない空き地に徐々に何種類もの綺麗な花が咲いていくような日々だった。沢山の花が咲いている中心には、いつも愛生がいた。
部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「琉生。起きる時間でしょ? 朝御飯できてるよ」
「うん。すぐ行く」
部屋を出てすぐ、パンを焼いた匂いが鼻をくすぐる。まだ胃が重たいけれど、母さんが作ってくれた最後の朝食は食べたい。
リビングのドアを開けると、「琉生。おはよう」と父さんも母さんもいつもより優しい表情で言う。
「おはよう」
いつもなら目を合わさずに言うけれど、今日はしっかりと目を見て言う。
父さんも母さんも、なるべくいつも通りに接しようとしてくれている。
リビングのカレンダーに目をやる。俺が一週間前に今日の日付に印をつけていた。父さんと母さんに正確な日にちは口では言えないから、カレンダーに印をつけた。大きな星マークを書いてやった。
「いただきます」
「私も一緒に食べる!」
朝からテンションの高い声だ。この声が鬱陶しいと思ったことは何度もあったけれど、テンションが高い母さんに救われたことは何度もあった。
香ばしく焼かれたパンと、目玉焼きにウインナー。そして、母さん手作りのコーンポタージュ。
俺が試合の日とか、受験の日とか、勝負事がある日の朝は絶対このメニューだった。
今日は勝負事ではない気がするけれど、死に向き合え負けるな、と言われているようだ。
時計を見ると、そろそろ父さんが出勤する時間だ。
「父さん、そろそろ出るよね?」
「いや、まだ出ない。今日は遅くていいんだ」
「そっか」
たぶん、俺のために遅く出るんだろうな。
「琉生。今日学校終わるの早いでしょ? 早く帰ってきたら?」
いつもはこんなこと言わないのに、母さんが少し不安そうな顔で言う。
「母さん!」と父さんが少し強い口調で言う。
「琉生の好きなようにさせてあげよう。好きな時間に帰っておいで」
「うん。ごめんね、母さん。好きな時間に帰るよ」
「いや、母さんこそごめん。さぁ、食べて学校行かなきゃね!」
さっきまでの不安そうな顔をどこかにやって、いつもの明るい母さんに戻った。
それから最後の朝食を味わって、学校へ行く準備をした。
リビングにいる父さん母さんに、「行ってくる」と言った。
靴を履いていると、父さんと母さんが来て、「琉生。気をつけていってらっしゃい」と二人が笑った。
何かが込み上げてきそうなのを、ぐっと堪えて大きく息を吸った。十七年間、育ててくれてありがとうという気持ちを込めて、「行ってきます」と言った。
「私、今日はずっとお家で待ってるからね……」
母さんが涙を浮かべて言う。今日はどうなるか俺も分からない。家に帰ることができるのか、それとも帰り着く前に俺の命が散るのか。
「うん」としか答えられなかった。
「じゃあ」と俺の中では最大の笑顔を見せたつもりだ。
ドアをゆっくり閉めて、父さんと母さんの姿を目に焼き付けた。
マンションのエントランスにつくと、愛生が待っていた。
「おはよう。ごめん遅くなって」
「ううん。全然大丈夫だよ。行こう」
彼女はいつもと変わらないように見える。でも、きっと強がっているはずだ。
だって、俺はずっと落ち着かなくて、時々手が震えるのに、この状況で平気な人はいない。
「愛生、眠れた?」
「正直……全然眠れなかった……」
彼女が困ったように笑う。
「そうだよね……」
「でも、全然平気だよ!」
何も不安がないような自信に満ち溢れて、俺に安心を与えるような笑顔の彼女が、俺の目に突き刺さる。彼女が今まで死から逃げずにいたから、こんな表情ができるのか。
俺は、頬の筋肉が引き攣って上手く笑えないのに。
「琉生くん。いつ言えなくなるか分からないから、今私の気持ち伝えるね……。今までありがとう。琉生くんがいてくれたから後悔のないように生きることができたよ。毎日楽しかったなぁ。感謝してもしきれない」
彼女は微笑んだ。俺はずっと首を横に振る。俺のほうが感謝したいくらいだ。
「私にとって琉生くんは……本当に大切な人だよ。だから、幸せになってほしい」
「うん……ありがとう」
彼女はまた微笑んで、真っ直ぐ前を向いた。
俺達は、愛生の教室の前に着いた。
「じゃあ、帰りは教室まで迎えに行くから」
「分かった。じゃあね。琉生くん」
彼女が穏やかな表情をして、大きな瞳で俺を見つめる。今日は絶対に目を逸らさない。彼女を一分一秒でも見ていたいから。
「愛生! おはよう! 黒嶋おはよう!」
「おはよう陽菜」
いつも通りの元気な斉藤だ。でも、斉藤は愛生のhand numberを知っているから、少しだけ悲しそうに笑っている気がする。
「愛生、先に教室入ってるね。黒嶋じゃあね」
いつもなら、俺と愛生が喋るのを邪魔するのに、今日はすぐにいなくなった。
「じゃあ、私も入ろうかな」
「うん。じゃあまた帰りに」
「バイバイ。琉生くん」
彼女が、揺るがない目を俺に向けて、教室に入っていく。
まだ時間はあるのに、バイバイなんて言われると、これでもう一生のお別れなんじゃないかと勘違いして、その場から動けない。
「大丈夫か?」
ポケットに手を突っ込んで立っている陸人が訊いてきた。
陸人を見て、全身に暖かい血が巡るような感覚で足が動き出しそうだ。
「うん。陸人が来てくれたから大丈夫」
「今日……だよな?」
陸人には、hand numberのことを伝えていた。この前、二人で遊んだ時に伝えたら、泣いてくれた。
今も泣きそうな顔になっている。そんな顔するなよ。
「うん……。何泣きそうな顔してんだよ! 変な顔だぞ」
俺が笑わないと陸人が泣いてしまう。今日は笑顔でお別れしたいんだ。頬が引き攣るけれど、笑おう。
「変な顔とか言うなよ! ははは! 教室行くぞ」
陸人と肩を組みながら教室まで行った。授業が始まるまで、陸人がいつものように冗談を言って俺を笑わせてくれる。
陸人から、最後まで一緒にいたい、と言われたけれど、いつも通りに過ごしてほしい、と伝えた。放課後になって、また明日な、と言って別れるほうが俺はいつも通りで安心できる。
今日の授業が全て終わって、帰る準備をする。
もうすぐ陸人が俺の所に来る。
「琉生〜もう帰るの? 寂しいじゃん」
陸人が肩を組んできた。
「うん。もう帰るよ。陸人は部活だろ?」
「部活まで時間あるから、俺と遊んでよ……」
「時間ねぇだろ。嘘つくなよ」
「……ダメだ! いつも通りになんてできるわけねぇだろ!! 何で俺の親友がいなくなるんだよ。何でお前なんだよ。琉生。運命は変わるかもしれない。最後まで諦めるなよ。俺とここにいればいいじゃん。ここにいれば運命が変わるかもしれないじゃん……」
陸人が俯いている。
「陸人。俺はこんなに優しい親友をもって幸せだよ。こんな俺と仲良くしてくれてありがとう」
陸人が俺に抱きついてきた。まだ教室にいるクラスメイトの視線が気になったけれど、俺も陸人を抱きしめた。
「琉生。俺のほうこそ、ありがとう。出会えて良かった。もし辛いことがあっても、お前のことを思い出して頑張って生きるから! さよならは言わない。また明日な」
「うん……。じゃあな」
陸人が、俺から離れて泣きながら笑っている。最後は笑おうと二人で話していたから、無理にでも笑ってくれている。
俺も笑い返す。たぶんぎこちない笑顔だろうけど、無理にでも笑う。
「琉生も変な顔してるぞ」
「うるさいな」
ふっ、と二人で笑う。今度は自然な笑顔の陸人だ。
「じゃあ、部活頑張れよ」
「うん。じゃあ行くわ。また明日」
「……また明日」
陸人は走って教室を出て行った。
俺は深呼吸をして、心を落ち着かせる。俺がしっかりしないと、愛生は不安だと思うから。
愛生がいる教室についた。ちょうど斉藤が教室から出てきたので、愛生を呼んでもらおう。
「斉藤。愛生いる?」
「愛生なら帰ったけど……」
「えっ……」
俺、教室に迎えに行くって言ったのに、帰ったってどういうことだよ。
「今日は一人で帰るって言ってた……」
「えっ? 俺、教室に迎えに行くって言ってたんだけど」
「えっ? 黒嶋は? って聞いた時、今日は別々に帰るよって……。だから、私と一緒に帰らない? って言ったんだけど、今日は一人にしてほしいって……だから、ここでお別れした」
「どういうことだよ……。何で最後の日に一人になるんだよ……」
「黒嶋。愛生一人になりたいとか嘘かもしれない。愛生のことだから、迷惑かけたくないとか思ったのかも。今頃一人で不安になってるんじゃないかな……。今すぐ愛生の所に行ってあげて!」
「……うん。これじゃ俺が納得いかない。愛生を一人にさせない。愛生が嫌がっても、俺が最後まで一緒にいたいんだ」
俺が行こうとすると、斉藤に、ちょっと、と引き止められた。
「黒嶋。愛生のこと好きなんでしょ? 見てたら分かるよ。気持ち伝えなくていいの?」
「……伝えない」
「何で? それ、愛生のことを考えて言ってる?」
「そうだよ。気持ちを伝えても、愛生にとっては迷惑だし、困るだろ……。それに、俺のことなんて何とも思ってないだろうし……」
「何言ってんの? 愛生のことを考えたら言うべきなの! 迷惑じゃない! 黒嶋から好きって言われたら、愛生は嬉しいに決まってるんだから!」
「何で斉藤がそんなこと分かるんだよ……」
「親友だから! 何でも話してきた仲だから分かるの! 私を信じてほしい。お願いだから気持ちを伝えて! 最後に愛生を幸せにしてあげて!」
俺が気持ちを伝えても愛生は迷惑じゃないなら、愛生を幸せにできるなら……
「……分かった。信じる。愛生がそれで幸せになるなら……気持ち伝える」
「ありがとう、黒嶋」
「いや俺のほうこそ、ありがとう。斉藤、今まで楽しかったよ。これからも明るい斉藤でいろよ! 陸人のこと、よろしくな」
「……えっ? どういうこと?」
「じゃあな!」
俺は走って愛生の所へ向かった。きっと駅に向かっているはず、お願いだからまだ何も起こらないでくれ。起こるなら一緒にいる時に起こってくれ。
手が震えてきた。hand numberは"0/2/15"。あと二時間しか時間がない。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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