黒嶋琉生(くろしまるい)
「席についてー」
教室に響く担任の野太い声。その声に反応して、急いで生徒達が自分の席へと移動を始めた。
話し声がやみ、椅子を引く音が教室中に響いた。段々と教室の中は静かになり、風で揺れているカーテンのパタパタとする音だけが聞こえている。
「はい。それでは、今から特別授業を始めます」
カーテンのパタパタとする音をかき消すように担任が言った。
特別授業。俺達の世代は、小学校高学年から特別授業が始まった。毎年同じ内容だ。高校二年生にもなれば聞き飽きた。
風で揺れているカーテンがずっと気になって、頬杖をついて見る。カーテンから窓の外に視線を移すと、桜の花はとっくに散っていた。
春の心地良い風が教室内に入り、眠気を誘ってくる。さすがに、うつらうつらしていると担任に怒られそうなので、必死に目を開いて眠気と戦う。
ふと、横に目をやると、窓際に座っている西浦さんも頬杖をつき、外を眺めている。
彼女の絹のような長い髪がなびいている。なびく髪に光が反射して天使の輪ができ、本当の天使のように見える。
西浦さんは上半身で風を感じ、たまに気持ちよさそうに目を瞑り、深呼吸をしている。
俺もつられて目を瞑り、深呼吸をしてみる。目を開けると、彼女はまだ目を瞑って風を感じている。
「黒嶋! 西浦!」
俺と西浦さんの体がびくついた。俺達は、目を合わせ、担任のほうに目をやった。
「二人とも話聞いてるかぁ? 命についての授業だ。毎年やってる授業だが、大事なことなんだ。しっかり聞くように」
周りからクスクスと笑う声が聞こえる。
横の席のやつが笑いながら、「何やってんだよ」と小声で俺に向かって言ってきた。
俺はそいつを睨んで、うるせぇ、と声には出さずに口を動かした。
そのあとすぐに、「すみません」と先生に謝った。
西浦さんと目が合い、俺に微笑んでいる。大きな目を細めて、優しい笑顔を俺に向けてくれる。彼女の笑顔は眩しい。春の日差しに照らされて、余計に眩しい。
俺は、微笑んでいる彼女から視線を外し、少し笑った。
「特別に二人のためにもう一度言うぞー」
俺と西浦さんを見て担任が言う。
「もうすでに手の平に数字が現れた人もいると思うが、この数字はhand numberと言って、お前達の寿命を表している。いいかー? 寿命だ。例えば、手の平に"50"と出れば、あと五十年、生きることになる。分かるかー黒嶋」
俺に訊かないでくれ。毎年毎年聞いているから嫌でも分かる。
「はい。例えば、手の平に"3"が出たら、三年後に死ぬ。数字の数は徐々に減って、死のカウントダウンが始まる。で、合ってますよね?」
担任が怪訝そうな顔をした。
「合っているが、例えがなぁ……死ぬって言葉はちょっとなぁ……まぁいい。今から説明することもしっかり聞くように」
毎年同じ内容だから聞かなくても大丈夫なんだけどな。
ついこの間もネットのニュースでhand numberのことを見た。ニュースには、三十年前くらいから手の平に数字が現れる人が急激に増えて、研究によって寿命を表していることが分かった、とか、数字は自分にしか見えない、とか書いていた。
手の平で死のカウントダウンが始まるなんて、何でこんな時代に生まれてきてしまったんだろう。もっと昔に生まれていたら、自分がいつ死ぬかなんて知らなくて済んだのに。あと何年、生きることができるなんて知らないほうが幸せなんじゃないか。
俺は自分の手の平を見つめた。
「もう一度、現時点で分かっていることをまとめて言うぞ」
担任が声を大にして言う。
「数字が現れる年齢は、十三歳頃から。
数字が現れない人もいる。
数字は自分にしか見えない。
数字は寿命を示している」
担任が大きく息を吸い込んだ。
「いいかー! 最後に……今から言うことは一番大事なことだ! よく聞くんだぞ!」
担任が、さっきよりも大きな声を出す。
「手の平の数字は、決して口にしてはいけない」
教室中の緊張が高まった気がした。担任が話し続ける。
「もう一度言うぞ。自分の手の平の数字を口にしてはいけない。数字を誰かに教えてはいけない。それと、日時も言ってはいけない。何年何月何日何時に死ぬ、ということは言わないように。ふざけて試しに言ってみるとかは絶対にやめなさい。"五年"、命が縮まる。生きる時間が五年減る。生きる時間が削られるんだ。絶対に言わないこと」
これもネットの記事で見たことがある。医者が自分の手の平に現れた数字は″70″だと友人に伝えると、すぐに数字が″65″まで減ってしまったらしい。そのことを公表したところ、それを機に、自分も数字を口にした瞬間、数字が"5"減ってしまったと言う人が何人も現れた、と書かれていた。だから、世界中で数字は口にしないようにと注意喚起しているみたいだ。
「今現在、hand numberについて分かっていることはこれくらいだ。まだまだ分からないことのほうが多い。また来年特別授業がある。その時には新しい情報も入っているかもしれないから、来年もしっかり聞くように」
担任が手元の資料を閉じ、顔を上げ、生徒達を見渡した。
「よしっ、みんなしっかり聞けたな。……黒嶋と西浦はあやしかったがなぁ」
担任がそう言うと、周りからクスクスと笑いが起きた。
みんなが俺と西浦さんに注目している。俺は視線に耐えきれず、下を向いた。
「はーい、じゃあ特別授業終わり。残りの時間は自習で」
自習と言ったが、みんなは好き勝手に喋って自習なんてする気がなさそう。もちろん俺も。
西浦さんのほうを見ると、また目が合って俺に微笑みながら、「注意されちゃったね」と言う。
西浦さんと話すのは久しぶりだった。
高校一年生の時も同じクラスだったけれど、話すのは用事がある時だけだった。西浦さんともっと話してみたいと思って話しかけようとしたことは何度もあった。でも、休み時間になると彼女の周りには常に人がいて、話しかけづらかった。
二年生になってからもほとんど話すことができていない。
久しぶりに話すと思うと、手の平にじんわりと汗が出る。西浦さんの大きな瞳を見つめながら会話するのは、心臓がもたない。
俺は少し視線を外しながら、話し始める。
「うん。名前呼ばれた瞬間ビビった」
「だよね〜体がビクってなった! 琉生くんもビクってなってたよね? ふふふ」
西浦さんが、手で口を押さえながら笑っている。いつも笑って楽しそうで、怒った顔も、悲しそうな顔も見たことがない。
そんな西浦さんを見ていると、俺も口元が緩む。
「うん。なった。恥ずかしい」
「私も恥ずかしかったけど、琉生くんもビクってなってて、仲間がいて良かったぁって思って、恥ずかしさ吹き飛んだよ!」
西浦さんが俺に笑いかけてくれる。琉生くん、と呼んでくれる。それだけで、俺の心が満たされる。
前から思っていた。
西浦さんは他の男子に対しては、上の名前で呼ぶのに、なぜか俺にだけ下の名前で呼ぶ。
たしか、初めて名前を呼ばれたのは高校一年生になって、一ヶ月が過ぎた頃だった。
その日西浦さんは日直で、ノートを集めて職員室に持って行くようだった。
俺はノートを集めている西浦さんの所に行って、ノートを差し出した。
「はい。お願いします」
すると西浦さんはノートを凝視して、「る…い…くん」と突然名前を言った。
「はい。琉生です……」
そう俺が答えると、西浦さんはパッと顔を上げ、俺を見つめた。
西浦さんの大きな瞳が、俺をとらえて離してくれなかった。
「あっ、琉生くんね。ありがとう」と言って西浦さんが微笑んだ。
これが西浦さんと初めて言葉を交わして、初めて名前を呼ばれた時だった。
大きな瞳で見つめられながら、名前を呼ばれたことが印象的で鮮明に覚えている。
「あのさぁ」
「ん?」
西浦さんが首を傾げて、大きな瞳で見つめてくる。
俺はまた、少し視線を外して話を続けた。
「前から思ってたんだけど……何で俺のこと下のな……」
俺が西浦さんに疑問をぶつけようとした時、いきなり目の前に顔が現れた。思わずのけぞって、息を止めた。
「ちょっと! 黒嶋! 愛生のこと独り占めしないでよ!」
斉藤陽菜だ。俺を睨みつけている。
たぶん、西浦さんの一番仲が良い友達で、一緒にいることが多い。
「別に独り占めしてないって……」
「愛生はみんなの愛生なんだからね!」
たしかに西浦さんは、みんなの愛生って感じの存在で、常に周りに人がいる。男女どちらからも人気で、今まで俺の入る隙はなかった。
「……はいはい。俺、西浦さんと喋るの久々だったんだけど……」
「えっ? そうなの? ごめん邪魔して〜ははは」
「はぁ〜わざとだろ?」
西浦さんが、困った顔をしながら微笑んでいる。
「あっ! ちょっとトイレ行ってくる! 愛生も行く?」
「ううん。行かない」
「そっか! じゃあ黒嶋ごゆっくり〜」
斉藤が、ニカっと歯を見せながら笑って去っていった。
「あいつ忙しいな」
「あはは! そうだね〜忙しい陽菜見てると元気が出るんだ。明るくて一緒にいて楽しいよ」
西浦さんが今日一番の笑顔を見せた。斉藤のことが大好きだと言わんばかりの笑顔だ。
その笑顔につられて、俺の口元も緩んでしまう。
「うん。たしかにあいつ明るいよな」
「そうなの〜それに優しいの。いつも私の所に来てくれる。陽菜だけじゃなくて、クラスのみんな優しいから私に話かけてくれる」
「みんなが優しいだけじゃないよ。西浦さんといるとみんな楽しいから話しかけるんだよ。人気者だね」
「そんなことないよ……」
西浦さんは、また困ったような顔をして微笑み、首を横に振った。
「愛生ちゃーん! 昨日のドラマ見た?」と女子が三人がやってきた。
ほら、西浦さんは人気者だ。彼女のもとへひっきりなしに人が寄ってくる。いつも周りには誰かがいて、西浦さんが一人でいることはほとんどない。
西浦さんのことを嫌いな人はいないし、むしろ人気すぎる。
俺みたいに西浦さんと話したくても話せない男子はいっぱいいる。今日話せたのも奇跡だ。
西浦さんはクラスメイトの話を聞きながら、俺のほうを見た。両手を合わせて、ごめんね、と声を出さずに口を動かし、申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
西浦さんはクラスメイトのほうに視線を戻し、頷きながら話を聞いて、笑顔を絶やさない。
みんな西浦さんの魅力にやられている。
本当に天使のようだ。
***
「琉生〜 もう帰るの?」と言いながら、陸人が肩を組んできた。
「陸人。俺はお前と違って帰宅部だから。もう何もすることないから帰るよ。お前は部活あるだろ〜?」
陸人に肩を揺らされながらも、俺は黙々と帰る準備をする。
陸人はいつも、俺を帰らせまいと引き止めてくる。
「部活まで時間あるし、遊ぼうぜ!」
そう言われて時計を見ると、部活まであと五分しかなかった。
「時間ねぇだろ〜嘘つくな!」
がはは、と豪快に笑う陸人。
「ばれたか! 琉生と遊べなくて寂しいんだよ〜。お前が一緒にサッカー部入ってたらなぁ……って仕方ないよな。ドクターストップかかってるもんな……」
ドクターストップなんてかかっていないけれど、そういうていにしている。
「まぁな……だから、今度部活休みの日はお前といっぱい遊んであげる」
「マジ!? やった!」
陸人が、子犬のように目を輝かせ、しっぽをふっているみたいに喜んでいる。
その姿に俺は、ふっ、と笑い、「じゃあ帰るわ。部活頑張って」と言って教室を出た。
グラウンドの前を通ると、サッカー部、野球部、陸上部がそれぞれ準備を始めている。
先に準備を終えた野球部がランニングを始めた。低くて力強い掛け声が聞こえてきて、すぐに陸上部とサッカー部の掛け声も聞こえてきた。
彼らの輝いている姿から視線を外し、入り混じった掛け声を聞きながら、学校をあとにした。
駅へ向かう道を一人で黙々と歩いていく。長い坂道を登り、次は坂道を下って住宅街を通っていく。パンの香りがしてくるとカフェ&ベーカリーが近づいているのが分かる。そこを通り過ぎて、パンの香りがしなくなったら、三車線の大通りが見えてくる。何台もの車が行き交うのを眺めながら信号待ちをして、大通りを渡るとやっと駅が見えてきた。
朝は友達と話しながら歩くからか、あっという間に学校につく。でも、帰りは一人だから道のりが長く感じる。
電車に乗って、家の最寄り駅についた。改札口を出ると突然風が吹いて、思わず目を瞑った。目を開けると、少し前にいる見覚えのある後ろ姿が目に留まる。長くて艶やかでまっすぐな髪がなびいている。西浦さんだ。
西浦さんもここが家の最寄り駅なのか、と思いながら家のほうへ向かっていると、彼女も同じ方向に向かっている気がする。
この道を歩いているのは俺達二人だけ。なんだか俺が西浦さんのあとをつけているみたいで気まずい。少し歩くスピードを緩めると、西浦さんが突然振り返った。すぐ前を向いたが、再びこちらを向く。
「あれ……? 琉生くん?」
気づかれてしまった。
俺は軽く手をあげ、歩くスピードを速めて西浦さんにおいついた。
「おっす……」
西浦さんは屈託のない笑顔で、「おっす!」と答える。
「何で琉生くんこんな所にいるの?」と大きな瞳で見つめてくる。
「俺ん家この近くなんだ」
西浦さんは首を傾げている。
「え? 琉生くんって、たしか隣町の中学出身だよね?」
そういえば、引っ越したこと、陸人ぐらいにしか言っていなかった。
「最近こっちに引っ越してきたんだ」
「そうだったんだ〜。びっくりした〜振り向いたら琉生くんがいるんだもん」
「ごめん。俺は西浦さんのこと気づいてた。ははは……」
「え、声かけてくれたら良かったのに〜」と微笑みながら、西浦さんは帰る方向を指差して、こっち? と言うように首を傾げた。俺も同じ方向を指差し、一緒に歩き始めた。
「私達、家近いのかな?」
「同じ方向だから近いんだろうね」
「近いの嬉しいね!」
西浦さんが俺の顔を覗きこみながら言った。
俺は少し視線を外しながら、「うん……」と答えた。
微笑みながら歩いている西浦さんを見ると、心が温まるし、ずっと見ていたい。彼女の笑顔は、周りの人を幸せにする笑顔だ。彼女が笑えば、つらいことも吹き飛んで、この俺もつい笑ってしまう。
西浦さんの笑顔を見つめながら足を止めた。
「あの、俺、ここのマンションに住んでるんだ。じゃあ」と言うと、西浦さんは目を見開いて、「えっ? 私もだよ!」と言う。
「マジで?」
思わず大きな声を出してしまった。
「琉生くん? 大丈夫? びっくりしすぎて固まってるよ! あはは」
口を大きく開けながら笑っている彼女を見て、我に返った。
「ごめん。びっくりしすぎた。ははは……」
「あはは! 本当ビックリだよね! まさか同じマンションだなんて」
歩き出した西浦さんの後ろをついていく。
彼女がカバンから鍵を取り出し、「私開けるね」とオートロックのドアを開けてくれた。
エレベーターに乗り込み、ボタンを押そうとすると彼女と指が触れ合った。
「ごめん」と思わず指を離した。
「琉生くんも二階なの?」
「えっ? 西浦さんも?」
「うん! そうだよ! 一緒〜! あはは」
笑いながら、西浦さんが二階のボタンを押した。
エレベーターが動き出し、彼女が首を傾げながら俺のほうを向いた。
「ん? 最近、隣に引っ越してきたご夫婦が挨拶に来て、その息子さんが私と同い年だって言ってたんだけど……琉生くんのことだったの!?」
その話を聞いて思い出した。母さんがたしか、お隣の娘さんが同い年だって良かったね、と言っていた気がする。
「う、うん。たぶんそれ俺のことだわ……俺も同い年の娘さんがいるとは聞いていたんだけど、まさか西浦さんのことだとは……ははは」
学校では同じクラスで隣の席。家まで隣になって、奇跡が起きたのかと思った。
たぶん、俺の口角は上がりっぱなしだ。喜びを隠しきれない。この顔で西浦さんのほうを向けない。
エレベーターが二階に到着して、彼女が先に降り、俺もあとに続く。
「これって奇跡? 運命?」
西浦さんがそう言いながら、勢いよく振り向き、大きな瞳を煌めかせて笑っている。
俺は西浦さんから目が離せなくなり、「うん」と大きく頷いた。
次の日も、学校の帰りに駅に着くと、西浦さんが前を歩いている。
「西浦さん!」
彼女のもとへ駆け寄った。
「あっ琉生くん! 今日は声かけてくれたね」
また屈託のない笑顔を俺に向けてくれる。
この貴重な二人だけの時間、誰にも邪魔されない時間に、体が、心が、宙に浮くような感覚になる。
明日も一緒に帰れたらいいな、と思っていたら、いつの間にか俺達は一緒に帰ることが多くなっていた。
駅の改札口を出ると、西浦さんが前を歩いていて、声をかけると、「帰ろう」と屈託のない笑顔で答えてくれる。
何でもない話を沢山して、俺のつまらない話に西浦さんは笑ってくれて、俺はそれだけで毎日が満たされた。
何もない日々でいい、俺の人生どうでもいいと思っていたけれど、俺のどうでもいい暗い毎日を彼女がどんどん明るくしてくれた。真っ暗な目の前がどんどん明るい色で埋めつくされていくように。
でも、西浦さんの残された時間を知ってしまった俺は、愕然とした。




