約2キロの長い長い道 その三
一方、兵庫は必死で姫の手を引いて逃げる。
一真と安次郎が抑え切れなかった侍が兵庫達を追っていた。
土地勘はあるので迷いはしないが、城からも岩木屋敷からもかけ離れた方向に走っていることはわかる。
逃げる当てもなく、捕まることは時間の問題だった。
おまけに兵庫は女連れ、それも派手な着物を着た姫君だ。
これでは目立ちすぎる。
兵庫は近くの茶屋に飛び込んだ。
「ひ、姫君、大丈夫でございますか?」
ぜえぜえと息を切らしながら兵庫が聞いた。
「わらわは大丈夫です。それより兵庫殿こそ大丈夫でありますか?随分と息が切れておりますぞ」
天照姫は茶屋が珍しいらしくきょろきょろと見回す。
しかしここも長居はできない。
「ご無礼を承知でいいます。どうか、どうかその目立つ打掛けをここでお預けください。必ず後から取りにこさせますので」
拝むように姫の前で手を合わせる。
姫は少し困ったような顔をした。
「これを脱げば姫と分かろうか?」
ぽつりとつぶやいた。
兵庫は言葉の意味が分からない。
少なくともこの状況では姫と分からないほうがいいに決まっている。
「まあよい。確かに打掛けは動きにくうてしょうがない。兵庫殿どうぞお願いいたしまする」
姫君が打掛けを脱ごうとしたとき、いたぞ、という声が外から聞こえた。
「まずい、追っ手だぁ。逃げますぞ」
兵庫は再び姫の手を取り茶屋の裏口から逃げ出した。
やがて行く先に橋が見えてきた。
来る途中にこんな堀はなかったので、相当違う方向に向かっているようだ。
「いよいよまずいな~」
そう思いながら堀の中を見ると一艘の舟が橋の下を通過しようとしている。
その船の屋号を見て、兵庫の顔に希望の笑みが浮かんだ。
「姫、再びご無礼をいたします。御免」
そういうと兵庫は姫の体を抱え上げ走った。
「いたぞ、こっちだ」
兵庫は追っ手達に見つかった。
兵庫は橋の真ん中にたたずむと、深呼吸をして橋から飛び降りた。
その後、ドボォンと派手な音が響いた。
大きな水柱が上がる。
追っ手達は慌てて堀を覗き込む。
波紋がいくつもできた後、水面は再び平らになる。
しかし、浮かび上がってくるものは何もない。
追っ手達はしばらくその様を見ていたが、やがて元の道を引き返していった。
あるいは姫が死んだと思ったのかもしれない。
その橋の下で一艘の舟が潜むように留まっている。
「と、とにかく助かった・・・」
兵庫は舟のへりにぶら下がり安堵のため息をついた。
「だいじょうぶですかい?」
心配そうに船頭が声をかける。
兵庫が見つけた舟は、安次郎の母の実家の呉服問屋のものだったのだ。
本店は日本橋にあるのだが、最近古着の扱いも始めてそれの買い付けに江戸中を駆け回っている。
その際に活用したのが水路である。
堀や運河の多い江戸では陸路で大八車を使うより舟で運んだほうが楽に遠くへ買い付けができる。
偶然にも買い付け帰りの舟を見つけたのだ。
乗っていた手代が安次郎の友人である兵庫の顔を覚えていてくれたことも運がよかった。
事情も話さないまま姫を船に飛び乗らせ古着の中にもぐりこませた。
その後、兵庫は再び橋の上に行き、追っ手が来るのを待って飛び込んだ。
もぐったまま舟に近づき顔を出す。
そのまま影で息を潜め追っ手が去るのをじっと待った。
追っ手をまくための兵庫の作戦は見事当たった。
「どうしますかい。あたしら日本橋に帰るところだったんですが、よかったら家の近くの堀までおくりましょうかい」
手代がありがたい申し出をしてくれて一旦岩木の屋敷に戻ることにした。
兵庫は安次郎に心の中で手を合わせた。
日はだいぶ傾き、江戸の町に長い影を作る。
「明日になればまた挑戦できますよ」
慰めるつもりで兵庫は言ったが、姫は首を振った。
「明日じゃ遅いかもしれぬ」
姫の目は江戸城のほうをずっと向いていた。
屋敷には安次郎と一真が既に戻っていた。
戻ってきて二人を見た兵庫は緊張の糸が解けたのと同時にむらむらと怒りがこみ上げてきた。
「安次郎、お前どういうことだよ。お前の母御様の実家の舟に助けてもらったはいいが、そこまで送ってもらうのに渡し賃取られたぜ。しかも一分。一分も」
人差し指を突っ立てて安次郎に噛み付いた。
「向こうも商いだからしかたないさ。まあ、それで助かったんだからいいじゃないか」
それにしても商魂たくましいなあと感心しながら安次郎がいった。
「姫、よくぞご無事で。さあ、奥へどうぞ」
あやめが出てきて姫を奥へといざなった。
「ったく。わざわざ敵方に顔を見せるなんてどういうことだよ」
安次郎がため息をついた。
兵庫は江戸城をみる悲しげな顔が忘れられなかった。
「なあ、姫君はどうしても江戸城に帰りたい様子だった。あの打掛けにも思い入れがあるようだったし」
兵庫の言葉に一真もうなずいた。
「俺たちも、岩木様にもう一度確認をしようと思った。第一側室が一人で外にいるというのになぜ騒ぎにならないのか、それも不思議だ」