新米同心たちの受難 その二
岩木とは大旗本岩木左衛門尉善紀のことであり、江戸町奉行を務めている。
一方、一真は去年から勤め始めたばかりの御家人だ。
その身分は雲泥の差であり、上司の中尾が不思議に思うのも無理はない。
しかし、一真と岩木には大きなつながりがあった。
岩木は一真の実の叔父である。
岩木の妹は佐倉家に嫁ぎ一真の母となった。
故に佐倉の家は、御家人という低い身分ながらも岩木家とは親交が厚かった。
しかし、家同士の繋がりが重要であり身分違いの結婚などありえないこの江戸の御世でなぜ旗本の姫と御家人の父が結婚できたのか。
それは一重に叔父の破天荒極まりない性格が絡んでいるに違いないと一真は思っている。
岩木左衛門尉善紀の屋敷は数ある旗本屋敷の中でも5本の指にはいる大きさだ。
「この屋敷に来るのは正月ぶりだな」
勤め始めてからは立場上、上司に当たることもあり意識して疎遠にしてきた。
幼い頃から正門から入る事が当たり前だったが、今は只の同心だ。
身分の低いものとして裏口から入ろうと、裏手の木戸を開ける。
「どちら様?」
女中が来客に気づき近づいてきた。
しかし、一真を見るなり悲鳴をあげる。
「きゃああ、坊ちゃん」
「岩木様より呼ばれてきたのだが」
慌てて一真は弁明するのだが、女中は一真の体をぐいぐいと木戸の向こうに押しやった。
「こんな裏口から坊ちゃんを通してしまったら、私が首になってしまいます。なにとぞ、なにとぞ正門からお入りください」
屋敷側から女中が叫んだ。
「いや、私はもう勤めに出ており、ここから入るのが本来の常識でしょう」
一真はそういったが、既に女中は屋敷に触れ回りにいった後で返事はない。
仕方がなく正門に回る。
「一真坊ちゃん、お久しゅう」
門番がにこにこと声をかけてくる。
「もう坊ちゃんじゃありませんよ、唯の同心です」
正月にもそういったのに。
一真は顔には出さないが、少しふてくされていた。
「おお、一真坊ちゃん、すっかり一人前のお役人ですな」
家付きの家老の香月が玄関に出てきた。
「ええ、新米役人です。香月様より身分は低いので坊ちゃんはやめていただけませんか」
一真はため息をついた。
客間に通されると、間髪いれずに女中たちがこぞって酒やら鯛やら運んでくる。
「坊ちゃん、肩衣姿がよう似合っておられて。真咲姫が見たら、どんなにお喜びになることでしょう」
酒を注ぎながら女中頭のお清が涙を拭いた。
真咲姫というのは、一真の母、真咲のことである。
「母が亡くなったのは去年の春です。ちゃんとこの姿も見てます。それからもう、坊ちゃんではなく同心になってるので、御家人らしく扱ってください」
「坊ちゃんは坊ちゃんですよう。他の旗本屋敷ではどうせ粗雑に扱われるんですから、せめてここでは、坊ちゃんらしくしていってくださいな」
ここ以外の旗本には普通、新米同心は呼ばれません。
と、一真は心の中で思いながら、隅っこに置かれている茶に手を伸ばした。
やがて、女中頭も席をはずし、一真一人が客間に取り残された。
「岩木様、遅いな」
一真がそうつぶやいたとき、後ろに人の気配を感じた。
はっと振り返ると、6尺はあろうかという大柄な男が立っていた。
思わず一真は身を翻し、逃げようとする。
しかし一呼吸早く男は一真を後ろから羽交い絞めにした。
太い腕で首を絞められ大声を上げられない。
男は低い声で笑った。
「ふふふ、久しぶりだなあ、一真。あいたかったぞお」
一真は首を絞めている腕を何とかほどいて男に向かって言った。
「本日は何の御用だったのでしょうか、旗本岩木左衛門尉善紀様」
男は、からめている手足にさらに力を入れた。
「他人行儀な奴め。叔父貴と呼ばんか」
「いいえ、旗本岩木左衛門尉善紀様」
「強情なやつだ」
さらに、首を絞めなおす。
がっちりと締まった腕は今度は簡単には外れない。
吸う息、吐く息すらもままならなくなってくる。
たまらず一真も降参する。
「叔父貴殿・・・」
その言葉を聴いてニタッと満足げな笑みを浮かべた旗本岩木左衛門尉善紀は、上座にドカリと座った。
笑っていると若く見えるがこの男45となる。
大猿のようなごつい男で、そのくせ中々の切れ者とあって老中たちからも信頼が厚い。
一真は数回咳き込み呼吸を整えてから、叔父に向き合った。
「で、今日は何の御用でしょうか」
「うむ、わしのものになれ。後を継げ」
満足げに岩木が言う。
どこまでも破天荒な男だ。
一真は一真で眉一つ動かさずに
「お断りいたします。それでは、公務がございますので」
と席を立とうとした。
「いやちょっと待て。今のは冗談だ。まずあやめを呼ぶから」
あやめというのは一真の従姉妹である。
一真の一つ上で今年18歳となる。
これもまた変わっている女で、西洋医学に興味を持ち、女だてらに医者になることが夢らしい。
程なくあやめがやってきた。
「一真殿お久しぶり。あら、少し大きくなったかしら」
フフ、と艶めいた笑いを浮かべた。
父親とは血が繋がっていないと思わせるほどの妖艶な美人だ。
あやめが、一真を年下扱いするのはいつものことと一真がどうもと受け流す。
春というのに、濃青の着物に紫の帯を身につけ、おまけに異様な匂いが染み付いてる。
「また、医学の研究ですか」
一真が尋ねる。
「ええ。長崎から西洋の薬品が届きましたの。調合していたら面白くって」
ゴホンと岩木が咳払いをした。
「いけない。天照姫、どうぞこちらへおいでください」
あやめがふすまの向こうに声をかけた。
すっとふすまが開き、金糸の内掛けを着た少女が音も立てずに入ってくる。
「森津侯が姫、天照姫であらせる。この春公方様の側室におなりになった」
「はい?」
一真は思わず聞き返した。
状況が良く飲み込めない。
将軍の側室になった?
側室ならば大奥にいるべき人物がなぜこんな城下にいるのか?
「まあ話せば長くなるのだ。とにかく、側室であられる姫君がここにいることはまずいのだ。お前、姫を江戸城までお連れしろ」
腕組みをしてまさに名案とうなずきながら岩木は言った。
「はい?」
無表情だが、先ほどより強い口調で一真が聞き返す。
「なに、簡単なことだ。ばれないように江戸城まで籠で送るだけだ。途中見つかりそうになったらそいつを斬ればいい。大丈夫、お前の刀の腕は江戸一だ。わしが保障する」
ひじ置きにもたれかかりながら、軽く言う。
論点がずれているうえに中身は相当難儀なものだ。
くらくらする頭を抱えながら一真は岩木に言った。
「ここから江戸城、一番近い北跳橋門でも軽く半里はありますよ。それにばれたらお家取り潰しは免れません。かといって目撃者を斬って終わりというわけにはいかないでしょう。それに、運よく江戸城までいけたとしてもそこから大奥のある本丸まではどうするおつもりですか」
「中のことは大丈夫だ。わしの息のかかったものに手筈をつけておる。北跳橋門の番人には既に伝え済みだ。その後は庭番衆がお連れするようになっておる。それに万が一城下でいざこざがあってもわしが治めてやるから」
な、本当に、本当に簡単なことだと、岩木は念を押した。
一真はそれでも叔父の言うことを信用しない。
こんな変人だが頭は切れる。
何の打算もなく一真を使うはずがない。