天照姫と月詠姫 その二
月詠姫はまるで幽霊のようにふらふらとおぼつかない。
目にも力はない。
自害もありうると思い一真は月詠姫の動きに備える。
その時、天照姫が月詠姫の前に立った。
同時にパチンと軽い音がした。
天照姫が月詠姫の頬を叩いたのだ。
「愚か者っ。そなた一人が不幸な顔をしおって」
天照姫の声が震える。
「わらわだって、恐ろしかった。そなたという代わりがいつだって用意されておるのじゃ。価値がないと思われた瞬間、わらわこそ屋敷の隅で暮らすことになるであろう。じゃから嫌なことにも、困難なことにも耐え続けないといけなかった。しくじれば、そなたがわらわの替わりとなるからじゃ」
頬を叩かれた月詠姫の目に生気が戻る。
天照姫は続ける。
「その恐怖はずっと押し殺してきたはずじゃった。けれど入れ替わりのあの日、打掛け姿のそなたを見てわらわは、恐ろしくなったのじゃ」
天照姫もまた、打掛けを取られ、襦袢一枚になった自分に心細さを憶えた。
将軍の側室にまでなったとはいえ、打掛け一つで日なたの存在になっていたことに気づかされたのだ。
岩木屋敷についた直後は、月詠姫の存在が消えることをひたすら願っていた。
けれどその気持ちは屋敷で洗い流されるように消えていった。
それもこれも岩木が常識の通用しない破天荒な旗本だったからだ。
わがままが過ぎて家臣や娘からこっぴどく叱られる岩木。
しかし老中にも遠慮なく意見をする岩木。
そんな型破りな行動をみているうちに姫君は今まで流されるままに生きてきた自分に気づいた。
そして根本的な問題を解決することに思い至ったのである。
「何故、同じ母から同じ日に生まれたというのに、姫という立場は一人分しか用意がないのか。それを二人で取り合い、怯えて。おかしいじゃろう。月詠、そなたを解放したいのじゃ。森津の家の悪習はわらわがなくす」
天照姫が月詠姫を抱き寄せる。
「片時でも、死ねばいいなどと思ってしまい恥ずかしい。でもそなたが生きてくれていて本当に良かった」
「天照、本当に申し訳ない。申し訳ない」
月詠姫は泣きながら天照姫にすがった。
月あかりが円窓から入り二人を丸く照らす。
一真達は、二人の様子を見てほっと胸をなでおろし後始末に入った。
「兵庫、そっちはどうだ」
「大丈夫、眠らされているだけみたい」
姫付きの置く女中は隣の部屋で皆眠っていた。
どうやら食事時に薬を盛られたらしい。
一真達はその一人ひとりに刀を握らせた。
「いいですか、この黒装束の無法者は奥女中たちが成敗いたしたのです。けっして同心ふぜいが、お城に忍び込んだなどといってはいけませんよ」
天照姫に安次郎が念を押す。
庭にはのびきった男たちが木に結わえ付けてある。
少し締め上げれば何もかもを白状するだろう。
二人の姫は、この部屋に残る。
「大丈夫ですか」
一真は少し心配だったが、天照姫は頭を振る。
「ここにいるのはわらわの妹、月詠じゃ。もう、隠すようなことはせぬ」
そういい切り、月詠姫を見て微笑みかけた。
「そろそろ退散するか」
全ての処置が済み一真が言った。
二人は一真達に深々と頭をたれた。
その姿に会釈をして三人は城をまた抜け出る。
東の空が白み始め、江戸の町がまた静かに朝を迎えようとしていた。