声なき紙片(最終話)
Silent Note 7
ローザの返事を聞いて、イオが立ち上がった。
隣に座る蒼は、あらためて、イオの圧倒的な大きさを感じずにはいられない。
イオは机へと歩いていき、スマートフォンを手に取る。
通話が始まった。
相手とはある程度の知り合いのようで、話は淡々と進んでいく。
ローザの名前が告げられた。そしてイオが振り返り、
「彼らの事務所は、ここからそれほど遠くないです。今、行けますか?」とローザに訊ねた。
ローザは黙って頷く。
そして、通話が終わった。
イオがパソコンを開き、キーボードをたたく。
壁際のプリンターから、A4の紙が一枚、吐き出された。
「これが地図です」
プリントした紙を手に、イオがソファーへ戻ってくる。
「タガログ語だから大丈夫だとは思いますが、なにか心配なこと、ありますか?」
差し出された地図に、ローザが一度、視線を落とす。
ふたたび顔を上げると、首を横に振り、
「だいじょうぶです、わかります」と答えた。そして荷物を整え、立ち上がる。
玄関へと向かうローザに、イオが付き添った。
扉の前で、二言三言、ふたりは言葉を交わす。
日本語でも英語でもない。
タガログ語なのだと、蒼も今は、それが分かる。
最後に――
イオを見上げて、ひとこと何かを告げると、ローザは事務所を出て行った。
「ありがとう、蒼くん。付き合わせちゃったね」
言いながら、イオが戻ってくる。
「そんなこと! オレの方こそ……部外者なのに、よかったんでしょうか」
「あ、うーん、そうか。そうだね、ホントは良くなかったのかもしれないけど……」
イオが顎先に指をあてて、首を傾げてみせる。
「でもさ、ローザさんが必死で助けを求めた『あの紙』を……ちゃんと見つけてくれたのは蒼くんだったから」
そう言って、ふわりと笑うイオの表情に。
蒼はなんだかまごついてしまって、何も言えなくなる。
「そうだ、スダチ。ありがとう」
イオは緑の果実を掌に載せ、冷蔵庫のある台所へと向かった。
「蒼くん、『お返し』といっては変だけど、そこの『しょっぱいナッツのお菓子』持って行かない?」
――え、これ。リアさんのお土産の?
「いや、いいですよ。別にお返しとか、そんな」
「そう言わないで。リアさん、たくさん持ってきてくれたし」
あれ、イオさん……ひょっとして、なに?
これ、あんま好きじゃないのか。
蒼は、テーブルのカップを集めると、イオの後を追ってキッチンへ向かう。
イオは冷蔵庫を開き、スダチをしまっていた。
広い背中――見えないタトゥー。
「イオさん……」「うん?」
「あの紙……オレが拾ったあの紙って、結局、何が書いてあったんですか」
冷蔵庫の扉を閉めて、イオが振り返る。
「特には、なにも」「え?」
「走り書きだね。蒼くんが翻訳アプリで訳してみたのと、たぶん、それほど変わらないようなコトだよ。きちんと意味の分かる文章じゃなかったってこと」
「そう……なんだ」
ローザさん、よっぽど、不安だったんだな。怖かったんだ。
どうしていいか、ホントに分からなかったんだろう。
「あの、イオさん。離婚承認裁判? って、そんなに大変なことなんですか」
流しにカップを置きながら、蒼がおずおずと口にした。
「そうだね、まあ言ってしまえば……『日本での離婚』を認めてもらうのが、ちょっと面倒なんだよ。協議離婚だった場合は特に」
協議離婚の場合?
ああ、さっき、イオさんもわざわざ確認してたっけ。
「でもそれって、いわゆる『普通の離婚』のことですよね。役所に離婚届持っていくヤツ」
「そう、日本ではそれが『普通』だね。よほどのトラブルでもない限り、みんなそうする。紙切れ一枚出すだけ。窓口の人だって、十五分もあれば確認して受理してくれる。役所に出す申請書の中でも一番簡単な部類……それこそ、僕みたいな『代書屋』がいなくたって、誰でも自分で書いて出せるような」
って、イオさん。
それのどこが問題なの?
「さっき、リアさんも言ってたでしょう。『日本の離婚は簡単』って。けどさ、蒼くん。世界では、そんなにあっさり離婚できる国って、ほとんどないんだよ」
「え?」
「その『簡便さ』って、裏をかえせば、日本の緻密な戸籍制度の副産物なんだと思う。簡便さ自体は別にいいと思うんだよ。ただね、他の国では結婚・離婚みたいに個人の関係を設定しなおす場合、裁判とか……そうでなくても、もう少し複雑な仕組みがある。特にフィリピンみたいな、『そもそも離婚はありえない』って国では、紙一枚の『協議離婚』なんて制度があること自体が理解しづらい。だから、協議離婚による離婚が、日本における『正式な離婚』であることを、申立人……つまりリアさんやローザさんたちが、裁判できちんと証明しなくちゃいけない。そのために必要な証拠書類がね、いろいろと厄介なんだよ」
は……?
「だって、そんな、証明とかなんとか言ったって、日本ではそれが『離婚』なんだから」
いや、なにそれ。
ホント、すげぇめんどうくさい。
「なんかオレ……国際結婚だけはやめとこうって思いました、イオさん」
ふふふ、と笑って、イオが「賢明だね」と応じる。
「そうすれば、僕らみたいなのに支払うお金も節約できるね」
お金……って、あ。
「イオさん、今の……今のローザさんのって、結局は『シゴト逃した』ってコトですよね!?」
「うーん。まあ、そうかな。どうかな」
イオが腕組みをして、身体を揺らす。
「でもさ。もしまた何か必要になったら、その時に来てくれればいいから」
いやいやいや。
「でも、今の時間は『タダ働き』だったじゃないですか」
「そう。だからさ、今日って実質『休み』みたいなモノだ。ほら、リアさんにお菓子をもらってさ。蒼くんにスダチをもらって。お茶まで淹れてもらって」
――お茶。
「あ、そうだ。これ、なんか最初『緑茶だ』と思って飲んだら、結構変なニオイがして驚きました。ローザさんは『モリンガ茶』って言ってたけど」
「おや、蒼くん。ローザさんに気を使って、それを出してくれたのかと思ってたよ。モリンガはフィリピンの健康茶だからね」
「モリンガ茶って……オレ、正直あまり好きじゃないかも」
「そう?」
「前に……イオさんが淹れてくれたコーヒーの方が、好きです」
思わず、本音を漏らしてしまい、蒼は「ヤバい」と顔をしかめる。
イオはただ、ふふふと短く笑った。
そして、窓辺の方へと歩みゆく。
「いい日差しだね。今日はまだ一度も外に出てなくて、ちゃんと気づいてなかったな」
そして透明な視線を、遠く窓の外へと向けた。
窓ガラスには、看板がわりに事務所の名前が貼ってある。
大きなアルファベット表記――
すると蒼の腹の虫が、盛大な音を立てた。
響き渡った音はごまかしようもなくて、蒼は赤面して俯くしかない。
「そうだ、蒼くん。お昼を食べて、海を見にいかない?」
え……海って。
「オレは……大丈夫ですけど」
――イオさん、シゴトは?
「休みの日を決めてないからって、ずっとここにいるワケじゃないからね。体が空けば、ふらっと散歩に出たっていい。一日の間にさ、休んだりシゴトしたり、途中で港を見に行ったり。そうやって過ごしているよ。僕は」
「え、ええぇぇぇ……?」
そうか。そういうのって、アリなんだ。
なんだ、そうか。だからなのか、イオさんが。
全然「ブラック」って感じじゃないのは――
イオが、ヒラリと上着を纏う。
そして振り返りながら、「蒼くんは海、好き?」と訊ねた。
「ハイ、徳島の海辺で育ちましたから」と蒼。
イオは「そっか」と噛み締める。
イオと蒼は、そのまま玄関へと向かった。
「そうだ……ねえ、イオさん」
「なんだい?」
「さっき、ローザさん。最後に何て言ってたんですか?」
イオが靴を履きかけた動きを、ふと止める。
「Maraming salamat po」
「え……?」
「『感謝』だよ。たくさんの、ね」
声なき紙片(了)