声なき紙片 6
Silent Note 6
ローザが震える声を絞り出す。
「ホントはわたし、さいばん、こわいです。うそをいわないといけない。ぎそう結婚がしられたら、どうしようって……」
「偽装結婚のブローカーも、もう潮時でローザさんとは手を切りたいのでしょうね」
言って、イオが軽く目を伏せた。
「だから、フィリピン側の離婚承認裁判に必要な書類を、いくらかは案内してくれた。そんなところでしょうか? ずいぶんと手回しよく、謄本の翻訳やら離婚受理証明やらが出てくるのには違和感を覚えましたよ。それに今、ローザさんが働かされている『お店』だって、リスクは取りたくないはずです。形だけでも、きちんとした在留許可があるひとを置いておきたいでしょうし。そのための……新しい女性も、また供給されるはずです」
「わたし、ニホンゴはしゃべれます。でも読んだり書いたりは、わからない、ひらがなだけ。フィリピンの裁ばんのことも、よくわからないです。日本で、あまりじゆうに出あるけませんでした。もし、裁ばんで悪いことがバレたら……こわい。だったら、しないほうがいい、そう思ったらこわくなって、ここに来れませんでした。でもこのままは、日本にもいられなくなる……それに好きな人できても、ずっと結婚できない。どうしたら」
ローザが一気にまくしたてる。
その視線を捉えて、イオが「ローザさん」と、ゆっくり呼びかけた。
「このひとが……蒼くんが『これ』を拾ってくれたんですよ」
そしてイオは、「あの紙片」をローザへと差し出した。
「この紙を書いたのは、あなたですね? 助けてほしかったから。『本当に』助けてほしかったから」
ローザが頷く。
睫毛の先から、ポロリと涙の粒が零れ落ちた。
「あの、イオさん」
蒼がおずおずと口を開く。
「偽装結婚って……そもそも犯罪? とかになるんですか」
「はい、犯罪です。実はね、少し前までは、偽装婚姻による配偶者ビザの申請自体は犯罪にはなりませんでした……けれど今は『在留資格等不正取得罪』になります。『ウソの申請で滞在許可を得た罪』ということです。そして偽装結婚によるウソの婚姻届を提出すると『公正証書原本不実記録罪』という罪にもなります」
「そんな、大変なコト……」
蒼が呟いた。
「なんで? ローザさん、なんで偽装結婚なんか」
「さっきも少し言いましたが、『ブローカー』っていうのがいるんですよ。蒼くん」
ローザではなく、イオが答える。
「日本人もフィリピンのひとも、言葉巧みに誘うような。日本で食い詰めている男性に『名義を貸すだけで、数年間にわたり月々数万円が入る』なんて囁いて。フィリピンでの結婚手続のついでに豪遊させてあげるんですよ。同時にフィリピンの若い女性を誘うんです。いうとおりにすれば、五年で稼げる。危ないコトはないって。でも日本へ連れてきたら、給与もろくに払わずに働かせます。お金は偽装相手への報酬とブローカーの中抜きで消えますから。そして仕事は、ほとんどが風俗です」
「……そんなのって」
「もちろん『日本での仕事先』など、いくらでも上手いウソをついて誘いますよ。彼らは」
「じゃあ、ローザさんはどうしたらいいの? イオさん」
「そうですね。では、そのことを少し話しましょうか」
イオが応じる。
ごく穏やかに。静かに。ニュートラルに。
「まず『結婚』そのものについて考えましょう。偽装結婚であれば、そもそも結婚は『ウソ』です。法的には『結婚など最初から存在しなかった』ということになります。結婚がなければ離婚だって存在しません。フィリピンでの離婚承認裁判なんて要りません。逆に言うと『結婚が無効だ』と主張したかったら、それが偽装結婚であることを認めなければなりません」
ローザが顔をしかめ、途方に暮れたように首を振る。
「『偽装結婚は罪になるのか?』蒼くんはさっき聞きましたね。在留資格等不正取得罪と公正証書原本不実記録罪になると答えました。ですが、これには実は時効があります。三年と五年です」
――三年と……五年。
蒼は反芻する。
えっと、ローザさんは結婚して四年? だったっけ。
「そう。まだ時効にはなっていません。つまり罪になる可能性があるということです。在留資格等不正取得罪はすでに時効となっていますが、ローザさんの今の状況が『不法滞在』と見なされれば、行政処分が科せられます。それには時効がありませんから」
そんな……と、蒼が呟いた。
イオがローザに視線を戻す。
「ローザさん。今、『お仕事』はどうなっていますか?」
「配偶しゃビザ、あと一年くらいあります。だからそれまで働けと。にげたら入管に通ほうするって」
「よく分かりました」
イオが静かに頷いた。
「今の段階で、僕ができることは多くありません」
「イオさん……!」
蒼がいきおいこむ。
「今、フィリピンで離婚承認裁判を起こしても、あまり意味がないからです。その代わり、僕はあなたに信頼のおける団体を紹介することができます」
え? どういうこと……イオさん。
「ご自身でも心配しているように、ローザさん。あなたは、このままでは『犯罪者』になります。ウソの申請で滞在許可を得た罪、ウソの婚姻届を出した罪。たしかに『表向き』はそう。でも……本当は違いますよね。ローザさんは人身取引の『被害者』です」
イオの言葉に、蒼は初めて大きく頷いた。
「ローザさん」
イオがまた、呼びかける。
「これから紹介する団体は、日本人と結婚したり離婚したりしたフィリピン女性や、その子供たちを支援するところです。そして人身取引の実態にも詳しいです。今のままでは、ローザさんは摘発を恐れて過ごすことになります。でももし、人身取引の被害者としてきちんと認められれば、強制送還や犯罪者としての処罰を受けずにすむ可能性が開けます。被害者としての滞在資格も得られます」
しかしイオは、「ただ……」と、そこで言葉を濁した。
「ただね……ローザさんの状況が『人身取引』と認められるかどうか。そこは僕にも確約はできない」
「なんで!」
思わず口にした蒼へ静かな視線を向けて、イオが言う。
「日本の警察も入管も、『偽装結婚』の方にばかり着目するからだよ。当事者にばかりね。たとえ騙されての偽装結婚だった可能性があっても『取り持った』方よりも当事者の方が先に罰される。それは……仕方ない側面もある。ブローカーが罪を犯している証拠を捜査するよりは、実際に偽装結婚した当事者の方が検挙しやすいから」
イオはそこで、ひとつ大きく息をつく。そして、
「だからこそ……『ブローカー』が、いつまでもなくならない」と続けた。
その溜息が、どうにも切なくて。
蒼はただ、込み上げる唾液を飲み下して。
じっとイオを見つめるしかなくて――
「もちろん、ほかにも考え方はあります。たとえば、もしこのまま、依頼どおりにフィリピンでの離婚承認裁判を進めたとしましょうか。もしかして上手くいけば……配偶者ビザが切れる前に、その決着がつくかもしれません。もしそうなれば、ローザさんはすぐに、別の日本人と結婚することができます。そしてまた新たなビザを申請することができるかもしれません」
ローザが話についてこれているのかどうか。
それを確認するようにして、イオは一旦息を継ぐ。
「または、うち以外に、あちこちを探せば、何かしらの種類の滞在のビザの申請を提案してくれる業者だっているかもしれません。単純労働の外国人に対して、特殊な技能者ビザを申請させるようなズルい行政書士など……昔から一定数いますからね」
イオが話を終えた。
シンと、空気が張りつめる。
ローザはおそらく、イオが語った内容を理解できているのだろう。
すくなくとも、蒼はそう感じた。
どれくらい経ったのか。
イオがまた、ゆっくりと語り始める。
「いま言ったような『楽な道』は、探せば他にもあるかもしれない。偽装結婚なんてバレない可能性だって高い。でも……」
語るイオを、蒼は見つめる。
鼻筋が通っていて少し頬骨が高く。
日に焼けた色合いの横顔を――
「でもウソは……重ね続けるごまかしは、生きる上で厄介な重荷にしかならない。人生という海の中、いつかは、その重さに溺れてしまうときがくる。僕は、そう思います」
するとローザが、ついに口を開いた。
「わかりました。どうか支えん団たいを、しょうかいしてください」と――