声なき紙片 5
Silent Note 5
ローザをまっすぐに見つめたまま、イオが続ける。
「『別の誰か』に相談するのは、もちろんローザさん、あなたの自由です。でも、もしそうしたとしても、おそらく、あまりよい解決にはならないだろうと、僕は思います」
一体どういうことなんだ?
イオさん、オレには、何がなんだか――
蒼はただ途方に暮れる。
「依頼を受けてくれないところも多いはずです。場合によっては、ほぼ違法な提案もあるでしょう。その人たちは……あなたのことを、さらに困った立場に追い込むかもしれません。これから僕がする話には、納得のいかないコトもあると思います。でもひとまず、僕ともう少し話をしましょう」
淡々と語られるイオさんの言葉。
その意味が、オレには、やっぱりまだよく掴めない。
でもなぜだか、それを。
オレは無条件に信じられる気がする――
「ローザさん」
イオが呼びかける。
過分な温かさとか過分な冷静さとか、ひとをどこかへ誘導しようとか。
そんな余計な色合いは、まったく見えない声で。
「今回の離婚は、あなたの希望ですか?」
ローザが目を見開く。
泳いでいた視線が、すうっと定まった。
そしてそのまま、その身体がソファーに沈んでいく。
けれどイオの問いには――答えない。
「だんなさんの、好きな食べ物はなんでしょう」
「にくじゃが、です」
即答だった。
「作れますか」
イオが続けた。
「つくる…のは、じょうずじゃないので、お店でかいます」
「そうですか」と噛み締めて、イオは「だんなさんは、犬は好きでしたか」と尋ねる。
ローザがまた凍りついた。今度は即答できない。
「ローザさんは、犬、好きですか?」
イオが即座に問いを変えた。
「すきです」
ローザの表情が、少し緩む。
「そうでしょうね」
イオが微笑んだ。
「その手提げカバンに、こげ茶の毛がついています」
イオが静かな視線で指し示す。
「ポメラニアンかな……抜け毛が多くて大変だ」
「いぬ…はかってません、かってるひとにだっこさせてもらいました」
「でも、だんなさんが犬好きかどうかは、知らないんですね」
イオが淡々と続ける。「好きな食べ物は『肉じゃが』だと、すぐに答えられるのに」
「イオ……さん、なにそれ?」
蒼の戸惑いが声になった。
「でも作り方は答えられない、だから『いつも買ってくる』と答える……ほかには? ほかに、だんなさんについて『すぐ』答えられることはありますか?」
ローザの肩が震え始めた。
ひとつ小さく溜息を洩らしてから、イオが告げる。
「偽装結婚ですね。違いますか?」
「え、なんで。なんでそんなこと分かるんですか」
思わず、蒼が声を上げた。
「『横浜在住』なのに、なぜわざわざ福岡空港から入国を。直行便もないのに? 成田ならセブに直行できますよ」
「いや、でも……ほら! たまたま福岡に用があったとか」
「そうですね。もちろんその可能性はあります」
「だったら……」と蒼。
「結婚して四年」
イオが静かに返す。
「えっと、だからそれに、なんの意味が」
「蒼くん。永住ビザの申請資格を得るにはね、十年は日本に住む必要があるんだ。でも日本人と結婚してるひとの場合は条件が変わる」
「え?」
「おおよそ三年間結婚していれば、永住ビザの申請資格ができる。もちろん条件は厳しいよ。たとえば年金の払いこみが、締切りに一日遅れたとしてもダメだったりする。そして、ただ単に『三年結婚してる』だけじゃダメなんだ。一番長い配偶者ビザで滞在している必要がある」
「『一番長い』って、どういうことですか。イオさん?」
「その人の信頼度とか結婚してからの長さとかによってね、配偶者ビザには、滞在できる期間の違いがあるんだ。半年、一年、三年、五年って。永住ビザの申請には、三年か五年の配偶者ビザが必要って言われてる」
「ふうん……」と、蒼がまばたく。
分かったような分からないような、そんな感じで。
「ローザさん」
イオが、ゆっくりとローザに向き直った。
「あなたの配偶者ビザ、今、三年取れてますよね」
返事の代わりのように、ローザはあいまいに頷く。
「すこしズルい考え方かもしれませんが、せめて永住ビザを申請してから離婚する……という選択は考えませんでしたか」
「あ……」
蒼が息を飲んだ。
「せっかくなのに、もったいなかったですよね。今、離婚してしまうのは。配偶者ビザだって、あと一年弱で期限が来ます」
「……これでおわり、それはよかったです。とうとう、おわりました」
ローザがやっと口を開いた。
「けいやくは五年って、きまってました、だから」
契約……?
って。じゃあ、やっぱり「偽装結婚」だったんだ……!?
「永住ビザは申せいさせないって、ぜったいにかかわらないって。そういうやくそく。その前に離婚って」
ローザの口から、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「永住けんの審査は、すごくきびしい、日本のおとこのひとがめんどうになるし、バレやすくてあぶなくなるからって……でも…」
そこで嗚咽がこみ上げて、ローザが肩を震わせる。
イオが、かすかに目を細めた。
「偽装結婚は、もちろん露見しなければ……ですが、日本側の当事者には、あまりデメリットがないんです。たとえ、金のために気軽に加担したとしてもね。偽装結婚解消後、誰か別の人と再婚するのも、日本でなら簡単です。ただ婚姻届を出せばいい」
蒼は目を見開いてイオを見つめる。
「そう。日本人側は、結局「はした金」が欲しい人たちなんですから、『バツがつく』とか『戸籍が汚れる』だなんて気にもしないでしょうね。でも、ローザさんは違う。母国のフィリピンで離婚が認められない限りは既婚者の身分が続いて、再婚はできないのです。外国での結婚で常に必要とされる『婚姻要件具備証明書』が出ませんから」
「……日本人とけっこんしてなかったら、わたし、日本いられなくなります」
ローザが、よわよわしく声を上げた。
「あ、そうか」
配偶者ビザっていうのが、なくなるんだもんな。
「えっと、でも……なんだっけ、配偶者ビザじゃなくてさ、就労ビザとかを申請したりすれば?」
蒼が、おずおず口にする。
すると、イオがすかさず「申請は、できないですよね?」と、ローザに向き直った。
「このあたりの『お店』で働いているのでしょう、ローザさん? だから……誰かに、周りの女性に、うちの事務所の話を聞いた。そうなんですよね」
このあたりの「お店」。
イオの言葉を反芻して、蒼はその「意味」を理解した。
ああ、そうか……そうなんだ。
「そういう仕事」なんだ、と。