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声なき紙片 4

Silent Note 4



 その音にビクッとしたのは、蒼だけだった。

 イオは静かに歩み寄って、インターフォンの受話器を取る。


「はい、大丈夫です……はいどうぞ」


 そんな風に応じるイオの声を、「凪いだ海みたいだ」と蒼は思う――


 二分後、今度は「ソアラ綜合事務所」の玄関チャイムが鳴った。


 女性。たぶん二十代……前半か中盤くらい。

 さっきの「リアさん」よりは、ずっと若いはず。それが蒼の第一印象。


 この人も「お客さん」なんだろうし。

 オレ、いい加減に失礼しなきゃ。


 蒼がソファーから腰を浮かせると、イオがそっと、それを押しとどめる。


「彼も、一緒に話を聞いてもいいですか?」

 

 そう穏やかに言いながら、イオは蒼の隣の一人掛けソファーに腰をおろした。

 女性は明らかに戸惑っている様子だったが、何も言わず、ふたりの前の2・5人掛けのソファーに座る。


「紹介が遅れました、このひとは隣に住んでいる『あらいあお』くんです」


 あ、どうも……と、蒼が座ったまま会釈する。


「そして僕が、司法書士で行政書士の『イオロイユウ』です。こんにちは。あなたは木曜日に来るはずだったRose-Anna Reyes Garciaさん、ですよね」


 女性は何かを観念したように。

 何かからすこし解放されたように。


 ――コクリと深く頷いた。





 「彼も一緒に話を聞いてもいいですか?」だなんて――

 なんで? なんでイオさん、そんなコト。


 困り果て「あ、お茶でも……淹れます」と、蒼は立ち上がる。

 イオは何も言わなかった。「いい」とも「ダメ」とも。


 蒼はキッチンに向かう。

 事務所として使われているのは、いわゆるLDKの部分だったから、キッチンはソファーから見える位置にあった。


 電気ケトルと緑茶のティーバッグらしきものを見つけ出し、蒼はとにかく、なにかしらのお茶を淹れてソファーへと戻る。

 依頼人、そしてイオの前にカップを置いてから、自分の分を手に取った。


「ありがとう、蒼くん」


 イオが丁寧に礼を言った。

 そして「どうぞ、ローザさん」と勧める。

 ずっとおどおどしていた女性が、そこでやっと、ごくちいさく笑った。


「どうして……ワタシ、『ローザ』ってわかりました?」


 リアよりも、ややたどたどしさの残る日本語だった。


「ああ、それは」と、イオがふわりと笑む。

「『ローズ・アンナ』さんだから……『ローザ』さんかなって」


 ローザはただ、コクリと頷く。


「ここの事務しょ。しりあいにききました。『いおせんせいはフィリピンのこと、よくしってるから』って」


「そうなんですね、ありがとう」


 ことさらに「ゆっくり」と喋っているワケでも、大きな声を出しているワケでもないのに。

 言葉が「すんなりと」耳に入ってくる。

 イオの話し声を、蒼はそんな風に感じていた。


「木よう日…は、こられなくて、ごめんなさい」


「いいんですよ」

 イオはただ、穏やかに応じる。そして、


「フィリピンでの離婚承認裁判に出す、証拠書類が必要なんですね?」

 と、ズバリ、本題に切り込んだ。


 ローザが頷く。


「日本から揃えていかなければいけないものが、たくさんあります。リストがありますから見せますね」

 

 イオが席を立って、書類キャビネットへと向かった。

 蒼は手持無沙汰をごまかすように、自分で淹れたお茶に口をつける。


 ――ん? なんだ、この緑茶。


「やば、古いお茶っ葉使っちゃったかな、オレ」


 なんか、ヘンなにおいする。


「スイマセン、ローザさん……これ飲まない方がいいかも」


 ローザは蒼の言葉に戸惑ってまばたく。

 そしてゆっくり、カップに口をつけた。


「だいじょうぶ、おいしい。モリンガ茶」


 モリンガ……茶? あ、普通の緑茶じゃないのか、これ。


 ファイルケースを手に戻って来たイオが、「どうしたの」という風に蒼の目を見た。

 蒼は「なんでもないです」と、大きく首を横に振る。


 イオが説明を始めた。

 蒼が思っていたよりも、ローザはかなり日本語が分かるようだった。

 細かな説明もそれなりに理解しているように見える。それでも、イオが途中途中でタガログ語を混ぜると、目に見えてホッとした表情になった。


 ――フィリピンでは、法律上離婚が認められない。

 だから、フィリピン人がフィリピンで結婚したなら、まさに「死がふたりを分かつまで」夫婦でいるしかない。


 あらためてそんな説明を聞き、あぜんとする蒼に、イオが、

「フィリピンとバチカンだけなんですよ。世界で離婚が認められていない国は」と、囁いてくれた。

 

 けれども、国際結婚の場合は話が変わる。

 フィリピン人と日本人が結婚した場合に、「日本で離婚する」ことは、もちろん往々にしてある。

 そうすると、フィリピン人には実質的には「配偶者が存在しなくなる」ワケだ。


 なのに、母国では既婚者のまま取り扱われるというのは、あまりにも不都合。

 だからその場合に限って「他国での離婚」を「フィリピン国内でも認める」という仕組みがある。


 しかもそれは、単なる役所の書類仕事ではなく、必ず裁判で「判決」として下されなければならない。

 ――それが「離婚承認裁判」というワケだ。


 いやそれって。

 なんというか……クソ面倒すぎだろ。

 他人事ながら、蒼は心の中で盛大に溜息をついてしまう。


「配偶者さん……だんなさんとは、協議離婚ですか?」

 イオがローザに訊ねる。


「協議離婚の場合は『戸籍全部事項証明』、つまり戸籍謄本が必要になります。あとは念のため『離婚届記載事項証明書』もあった方がいいです」


 すると、ローザはおずおずと、手提げバッグから何かの書類を取り出した。


 イオがそれを受け取る。


「戸籍謄本ですね……おや、もう英訳まで作成してあるんですか?」


 イオの声に、すこしだけ驚きが混じった。


「ああ、『離婚受理証明』もあるのですね。離婚届提出のときに取っていたんですか……よく気がつかれましたね」


 蒼の素人目にも、ローザの準備は、なにやら相当に万全に見えた。


 この「ローザさん」が木曜に来るはずのひとだった――

 そして、「イオさんの読み」どおりなら、この人が「あの紙」を書いたひとってことになるよな。


 つまり、わざわざマンションまで来たのに、なぜかしら郵便受けにメモだけ入れて帰って行ってしまったひとだ。


 けど、そんな振舞いと、この「準備のよさ」って。

 なんか……しっくりこなくないか?


「ローザさん。おひとりで、よくこんなに準備されましたね、大変だったでしょう?」


 イオが微笑む。そして、


「必要な書類のことは、どうやって知ったのですか。別れただんなさんが? それとも……『おしりあい』から教えてもらったのかな、ここを紹介してくれた」と続けた。


 それまでどおり、イオの口調は穏やかで、耳にスッと入ってくる優しいものだった。

 しかしローザは、その問いかけに答えなかった。

 

 目が――泳いでいる。

 

 え、なに、どうしたの? と。

 蒼ですら、違和感を覚えるほどに。


 しかしイオは、そのまま黙って書類に目を落とす。


「婚姻期間は……四年ちょっと、ですか」

 噛み締めるように、ひとり言めいてイオが呟いた。


 ――婚姻期間? 

 それになにか意味でも?


 蒼は怪訝な顔を隠せぬまま、イオを見つめる。

 けれどイオは、蒼のそんな視線すらもサラリと流して、


「パスポートと在留カードは今、持っていますか?」と、ローザに問いかけた。


 ローザが、ハンドバッグから赤茶のパスポートとカードを取り出す。

 見せてもらいますね、と、イオが受け取った。


「おや、ローザさん。アルガオの……セブ島のご出身なんですね。僕、シマラ教会には行ったことがありますよ。たいへん立派な教会でした」


 なにやら、ふんわりとした世間話が始まる。


「日本ではどこに住んでいたのでしたっけ……ああ、だんなさんの本籍は横浜ですね。瀬谷区」


 ハイ……と、ローザが相槌をうった。


「でも入国は、福岡空港から……と。セブから福岡、直行便ってありましたかね」 

 

 ローザの次の相槌は、なかった。

 その目線が、また激しく泳ぎ出す。


 そしてローザは、腰を浮かすと、テーブルの上の書類をかき集め、イオの手からパスポートやカードを取り返して、一切合切を手提げカバンにつっこんだ。


「……いろいろ、ムズカしいなら、もう、いいです。ほか行きます、ここじゃなくて、いい」

 そう言って、ローザが立ち上がる。


 え、なに? ちょっと何? 

 別にイオさん、「難しい」なんて、ひとことも言ってないよな。

 普通に世間話してただけなのに。

 なんで、なんでいきなりそうなるんだよ?


 蒼は目の前の事態にまったくついていけず、立ち上がったローザとイオとを、交互にただ見つめるしかできない。

 

「ローザさん、どうぞ落ち着いて。もう一度、座ってください」


 ゆっくりと、イオが言う。


「大丈夫です。僕には、たぶん全部分かっていますから」


 ローザがその場で固まる。


「ただ、先に言っておきますね。いいですか? 僕が助けてあげられることと、あげられないことがあります」


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