やさしさの証(最終話)
engraved in strength 8
「彼はやさしい人だった。そして本当に『強い』人だった」
イオが言った。
「僕はね、ずっと自分が『強い』と思っていたんだ。もちろん、体も力も並外れて強かったし、心だって弱いつもりはなかった。自らの面差しがまるでない息子を、父が内心では疎んじていると気づいていても傷つかなかった。五百蔵の祖父母から、日々、軽蔑と嫌悪を突きつけられても平気だった。むしろ僕は、自分が大人になれば……もっと強くなれば、『こいつらなんか、どうにでもしてやれる』とすら思っていた。でも、それは『間違い』だと、彼が教えてくれた」
「……間違い?」
蒼が問い返す。
「そう、間違いもいいところだ。だって、強さはやさしさなんだから。『やさしさを持つ』には、『やさしさを知る』にはどうしたらいいのかを、僕は彼から教わった」
「……どうやったら、本当の『強さ』を、『やさしさ』を持てるんですか」
蒼がそっと尋ねる。
「彼は言ったよ。『痛みを知って、やさしくなれた』と」
――痛み?
「痛みは強さの証だと。痛みが嘘と弱さを剥ぎ取っていくからだと。そして、僕にペアを見せてくれた。その紋様の、ひとつひとつの意味も。彼の身体には一族の歴史が刻まれていた。自分が根づく大地である祖先への尊敬を纏う彼を、彼のペアを、素晴らしいと思った」
ああ――
「彼」は、イオさんのあこがれの人だったんだ。
父のようでもあり、兄のようでもあり。
師であり、生きる目標みたいな人。
「彼の言葉が忘れられなかった。だから決めたんだ。同じ証を刻むことを」
初めてイオと出会った日。
びしょ濡れのシャツの下に透けたタトゥーを見たときのことを、蒼はありありと思い返していた。
受けた衝撃、驚き。
肌を埋め尽くす紋様の美しさと迫力を――
それが「特別なもの」なのだということは、一瞬で気づいていた。
でも今。
その意味が、蒼はやっと分かった気がした。
「ペアを彫ると決めたのは、かなり幼い時だった。その後、決心を固める時間も費用を工面する時間も、たっぷりとあったよ。ペアは『大人の男』にしか施されないから。二十五歳の誕生日、僕は刺青師のもとへと旅立った」
「……ひとりで、ですか?」
「いや、母はついて行くと言い張った。何度も断ったけどね……その時、言われたんだ、母に」
「なんて?」
「男がペアを完成させられるかは、その男だけでなく一族の誇りも試される。もし男がペアを未完のままに逃げ出すようなことがあれば、それは支えられなかった一族の恥でもあるって。家族は精神的にも経済的にも、ペアを彫る男を支えるものなのだと。僕はその時に初めて、母の心の奥に根づくものに気づかされた。彼女が祖母から受け継いだ祖先への思いに」
「……お母さんは、一緒にサモアに行ったんですか?」
蒼の問いかけに、イオはゆっくりと首を横に振った。
「結局、色々とあってね……その時の母は、二週間以上もの期間、家を空けられなかったんだ。でも、出発前にお金を渡されたよ、強引にね。費用はちゃんと自分で準備しているからって言ったんだけど、『スア・スルアペにも助手も、皆への礼は、いくらしてもしすぎなことはない』って言い返された」
太陽は落ち切った。遊歩道の街灯が点灯する。
船や橋の灯りが、暗い水面にきらめき始めた。
「その時には、祖母はもう亡くなっていたし。母の親戚は、サモアにもほとんどいなかった。でもね、僕の滞在目的を知った宿のおかみさんは心配して、とても良くしてくれたよ。周りにいた人たちも、僕を支えようとしてくれた」
一瞬、口をつぐみ、イオがちらりと蒼を見やった。
「『支える』だなんて、大げさだと思うかい?」
蒼は慌ててかぶりを振る。
それを見てすこしだけ微笑むと、イオが続けた。
「ペアは一種の儀式だからね。彫り方も、昔ながらの手作業なんだ。動物の骨やクジラの歯を尖らせて作る針の束を、ハンマーで肌に打ち付けていく。他のタトゥーに比べて、痛みが特別強いとは言えないのかもしれないけど、なにせ二週間で完成させなきゃいけないからね。朝から晩までぶっ続けで彫る。こんな頑丈な体をしていても、負担は大きかったみたいでね。僕はひどい熱を出したよ」
そう言われて、蒼はただ、こみ上げる生唾を飲み下すしかできない。
「体を冷やしてくれたり、水を飲ませてくれたり。宿のおかみさんは夜通し看病してくれた。宿泊客も氷を探しに行ったり果物を持ってきてくれたり、そうやって、たくさんの人が気に掛けてくれた。でもそれでも……」
それでも――?
「どうしても耐えられなくなったんだよ。これ以上は無理だって思った。もうやめよう、全部投げ出してしまおうって。痛む場所は日に日に増え続ける。一日中、ハンマーで針を打ちつけられて、まるで終わりが見えない。僕はね、全然『強く』なんかなかったんだ。思い知った」
「イオさん……」
「そんな時、彼が来てくれた」
イオがペンダントトップを、ギュッと握る。
「『父も母も来ていないのか』って、そう尋ねられた。『なぜ傍に誰も家族がいないんだ?』って問い詰められたよ」
イオが小さく苦笑した。
「ひとりで準備をして、用意をして、ペアを完成させようだなんて――『自分ひとりで』やり遂げられるだなんて、ひどい思い上がりだと諭された。そのとおりだった。ペアは個々の男の証であり誇りではあるけど、『ひとり身勝手に生きること』を意味してるわけじゃない。ペアは祖先と家族を誇るものでもある。一族の歴史の最後に、今、自分があること。その証を肌に刻むもので、誰もひとりでは生きられないことの証なんだ」
蒼は、街灯の光にぼんやりと照らされたイオの横顔を、無言のまま見つめ続ける。
「彼はこのペンダントを、僕の手に握らせた」
――祖父も、父も叔父も、兄も。
みな、痛みを乗り越えた。このペンダントとともに。
そして私も、彼らと同じようにして、これを握りしめ、ついにソガイミティとなった。
今、ユウは私の弟としてこれを握り、家族、祖先の支えを受ける。
覚悟のもとに始めたのならば、必ずやり遂げなくてはならない。
未完のペアを纏って生きるなどと――ユウ。
一族と自分に、そんな恥をかかせてはいけない。
「……その言葉で、僕は乗り越えられたんだ」
イオがゆっくりと、首からペンダントを外していく。
「彼の」そのペンダントが、今ここに、海を渡ってイオの手にある。
その理由は――
もういないんだ。その人は。
この世のどこにも。
蒼にはハッキリと、それが分かった。
丁寧な指先の動きで、イオがペンダントを布袋へと戻す。
「手紙は、その時の宿のおかみさんからだ。彼とは遠い親戚だったんだ。彼はまだ結婚してなくて、子供もいなかったみたいでね。このペンダントは、本当なら彼の息子が受け継ぐはずだったと書いてあった」
「……イオさん」
もういいから。
それ以上話したくないなら、もう――
「もし、ユウに会えたら渡してほしい。そう頼まれたそうだよ。癌でね、宿のおかみさんが見舞ったときには、もう手遅れだったって」
イオが遠くへ視線を向ける。
これまで、誰にも語られたことがなかったかもしれない過去の――
薄光のような記憶へと。
「……さて、蒼くん。これで訊かれていたコトには、全部答えられたかな」
蒼を振り返ってやわらかく問うイオの声は、いつもの凪いだ穏やかさだった。
だから蒼は、イオをまっすぐに見つめ返して大きく頷く。
「ハイ、ありがとうございました、イオさん」
ふふふと、イオが笑った。
「蒼くんはいつも、僕のタトゥーに興味があったみたいだからね」
「え? いや、そんな……」
うわぁ……腕とか首筋とか、つい見ちゃってたヤツ。
バレてたのか、やっぱ。
「僕のペア、見たいかい?」
イオが静かに訊ねた。
突然の問いかけに面食らいながらも、蒼はひとつ息をついて呟く。
「……オレは、オレには、イオさんの痛みの覚悟を見る資格、あるでしょうか」
「資格……?」
「ハイ」
蒼の返答にイオがちいさく首を傾げて見せた。
「どうなんだろうね、よく分からない。でも僕にとって、ペアはとても誇らしいものだから。誰かれなく見せびらかしたりはしないけど、蒼くんが『見たい』と言ってくれるなら喜んでお目に掛けたいね」
「……はい」
そう返事はしたものの、蒼はペアが「どこに」刻まれているのかにあらためて思い至り、うっすら赤面せずにはいられなかった。
「おやおや、もう、とっぷり日も暮れちゃったね」
すこしふざけた口調で、イオが空を仰ぐ。
「蒼くん、お腹空かないかい? そうだ、せっかくここまで出てきたし……中華街にでも寄っていこうか?」
「え、中華街! スゴイ!!」
「まさか、蒼くん……中華街にも、まだ行ったコトないとか?」
「ハイ! 朝、ランニングで通りかかることはあるんですけど。店とかには一度も」
「それは大変だ、今晩こそは行かないと」
イオが立ち上がる。
見上げながら蒼は、
「ああ、やっぱりイオさんは大きいな」と噛み締めた。
「それで、どこ行くんですか? 何食べるんですか?」
歩き出したイオの後を追いながら、蒼は弾む声で問い掛ける。
「なにって……そりゃ、蒼くんが何を食べたいかにもよるよ。苦手なもの、ある?」
「ないです。なんでも大丈夫です。美味しければ!」
「そんなこと言って……本当に大雑把だなぁ、蒼くんは」
他愛ない会話を続けながら歩いていくふたりの背を、静かに泡立つ湾の水面だけが、静かに見送っていた。
やさしさの証 (了)
「イオとアオ―横浜ソアラ綜合事務所の謎ファイル」 (ひとまず)完
thanks
「未来地図2025」
ひとまず、こちらで完結マークといたします。
短編連作ですし、続きはいつでもどこでも。またいつか。
他愛ない「あとがき」は以下に。
イオと蒼のキャラクターこぼれ話などもチラリと。
https://note.com/hej_mizuki/n/n626251a393a9
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




