やさしさの証 3
engraved in strength 3
日曜日の朝。
むっくりと起き上がり、蒼は出かける支度をする。
港へのランニングだ。
そっと玄関ドアを開け、廊下に出た。
外出のタイミングが合って、ちょうどイオに会えると、いつも嬉しかった。
たとえ、会えなくても。
臨海パークの遊歩道に向かって駆けていくとき、水面を渡るイオのハンドパンの響きが聞こえてくると、蒼の心はジワリとあたたかくなる。
イオさんの顔が見たい、声が聴きたい。
そう思うのに――
昨日のイオさんみたいな。
あんな表情をした、あんな様子のイオさんは、とてつもなく遠い人に感じて。
薄い拒絶の膜を感じて、知らない誰かのようで。
どうしたらいいか分からなくなる。だから、いまは、やっぱり顔を合わせるのが怖い。
いつもなら、たとえ頭の中いっぱいに、グルグルと悩みや思考が渦巻いていたとしても。
風を切って走り出してしまえば、すべてはまっさらに飛んでいった。
なのに今朝は――
どれだけ走っても、胸のモヤモヤが晴れない。
昨日の誤配。オレから手渡された手紙とペンダントを見た後の――
イオさんの切ないような表情が消えなくて。
蒼はついに、臨海パークにたどり着く。
でもそこに、空を渡るようにやわらかく響き合う、イオの楽器の音色はなかった。
とてつもなくガッカリした気持ちが、蒼の胸に押し寄せる。
でも、一方で、すこしだけホッとしてもいる自分。
蒼はさらに、胸の内のモヤモヤを募らせてしまう。
走り終えて立ち止まり、そのまま、ぼんやりと港を見つめて立ち尽くした。
どれくらい経ったのか。背筋がゾクリとしてくしゃみが出た。
「ヤバい、風邪ひく」
着替えるのを、すっかり忘れていたことに気づき、蒼は慌てていつものトイレへと向かう。
シャツだけを着替え、そのまままっすぐ、家へ向かう地下鉄に乗り込んだ。
出がけに牛乳を飲んだだけの蒼は、そろそろ空腹を覚え始める。
部屋に戻ってシャワー浴びてから、佐倉さんの店でモーニングでも食べようか。
もしかしたらイオさんもいるかもしれない――
そして、またこみ上げてくる胸のモヤモヤ。
イオに会いたい気持ちと、イオから逃げたいような気持ち。
だってさ。顔を見たら、絶対にオレ、気になってしまう。昨日のコトが。
でも、自分からそれを訊いてみる勇気は、そこに踏み込んで行く勇気は。
相変わらず、全然出ないままなのだ。
今日のイオさんは、もう、「いつものイオさん」なのかもしれない。
もしそうだったら、正直、たぶんオレは、ホッとすると思う。
けど、それでもやっぱり――昨日のコト、自分の中で何もなかったような顔をするなんてできないハズだ。
そんなことを考えるうちに、あっという間に降車駅に着いてしまう。
あ、そうだ。
駅の向こう側のマックにでも寄ろうか。うん、「朝マック」ってのも、たまには悪くないかもな。
妙に食べたいときってある。
そして蒼は、いつもとは逆の出口へと階段を上がっていく。
なにやら地上から騒がしい音が聞こえてきた。
もともと、さほど静かな街ではない。
だが、駅周辺は雑居ビルや飲食店が多くて、休日の朝早くから賑やかな場所でもなかった。
蒼は階段を昇り切る。
男がひとり、大股で歩道を歩き回りながら、何かをわめいていた。
日本語? いや、英語か。
ともかく外国人みたいだけど――
うーん。ラリってるって、感じじゃなさそうだ。
その男は、上着とシャツを脱ぎ捨て、それを手に持って振り回している。
身長は蒼より少し低いくらいか。肉付きのいい身体をしていた。
日焼けのように浅黒い肌。
そして、その肌の上には、タトゥーが刻まれていた。
通行人が、大きく男をよけながら通り過ぎていく。
確かに、これはちょっとヤバい光景かも。
蒼は、ゴクリと唾を飲み下した。
でも、蒼はその場を立ち去ることも、110番通報をすることもできず、男を観察し続けてしまう。
なぜなら、男のタトゥーが、ひどく見覚えのあるものだったから。
イオのものよりも、ずっと控えめではあったが、二の腕や胸元の模様は、緻密な文様めいた墨一色のトライバルタトゥーだった――
「あ、ちょ! ちょっと、それ、ダメっ!!」
思わず叫んで、蒼は男に駆け寄る。
男は穿いていたズボンのゴムウェストに指を掛けて、脱ぎ始めていた。
「待って待って、さすがにそれは……マズいからっ!!!」
蒼の必死の訴えにも関わらず、男はズボンを下着ごと引き下ろしていく。
急いで上着を脱ぎ、蒼はそれを男の下腹部に押し当て、必死に隠した。
男は相変わらず、身振り手振りで何かを叫んでいる。
いや、なんかオレ、闘牛士みたいになってきてるし――
「ホントにマジ、お兄さんやめて。上はともかく下半身は、絶対ダメだから……警察来たら、捕まっちゃうから。えっとえっと、アレスト、アレスト!」
って、信号渡ってくるの、警官だ。
そりゃ通報もされちゃうよな――え? あれ?
その後ろから来てるのって。
「イオさん!」
「蒼くん!? 一体どうしたんだい。その人、知り合い?」
「違いますって。ランニングの後、マックでも行こうと思って。駅を出たら、この人が騒いでて……なんか、いきなりズボンとか脱ぎ始めちゃったから」
「分かった分かった。うん。ありがとう、蒼くん。ちょっと……ゴメン」
イオはすこしだけ蒼を遮るように応じてから、すぐさま男に向き直った。
「どうしたのか」と、英語で問いかけている。
男はなにか憤った様子で、しきりと自分のタトゥーを示して胸を叩いた。
そして、またズボンを下ろそうとする。
少し遠巻きにしていた警官ふたりが、あわてて制止に入った。
警察官から身体に触れられ、男は軽くパニックになる。
大きく両腕を振り回して、拘束から逃れようともがいた。
イオがそっと警官に目くばせをし、一、二歩下がらせる。そして男の目を見据えると、なにか……英語ではない言葉で語りかけた。
男の瞳から目をそらさぬまま、イオが自分のシャツのボタンを外していく。
上着と一緒に、シャツの片方の袖を脱ぐと、肩と胸元をさらした。
イオは、自身のタトゥーを指差しながら、ゆっくりと男に話し続けた。
男は、すこしずつ落ち着きを取り戻していく。
そして、ズボンを半下ろしにしたまま両腕を広げ、ひしとイオに抱き着いた。




