声なき紙片 3
Silent Note 3
「定休日のことは……まあ、それはそれとして、ちょっと話戻していいですか、イオさん」
「うん?」
「さっき渡した『紙』のコトです。タガログ語で何か書いてあった、その紙」
言いながら、蒼がイオのシャツのポケットに押し込まれた、あの四つ折りの紙片を差し示す。
「それを書いた人は、『木曜のドタキャンのひと』だろうって、イオさんは言いましたよね。でも……どうしてその人、急に来るの止めちゃったんでしょう。『わりとルーズなお国柄』とか――そういうヤツでしょうか」
「決めつけ」といおうか、なんといおうか。蒼の言い草は、相当に失礼だった。
だがイオは「ふふふ」と短く含み笑いを洩らし、
「まあ『お国柄』っていうのも、否定できないところもあるかもしれないけど。うん、そこはさ。人によりけりだよ、やっぱり」
と、蒼と依頼人、どちらの側もふんわり包み込むように、やわらかく応じる。
「それにね、蒼くん」「はい」
「その人、とても真剣だったんだ、声が」
「……はい」
「そもそも、離婚承認裁判の提出書類の準備って。本人たちにとって、すごくすごく大事なことでね。特に最近は、あちらの最高裁の解釈がいろいろと揺れていてさ。どう準備したらいいのか読み切れないところもあって、本当に厄介なんだよ」
「ハイ」
「だから、他のことはともかく、その準備のためなら『ルーズ』になんてなれないんじゃないかと思うんだ。僕はね」
「ハイ……」
神妙に返事をして、蒼は目を伏せる。
なにも知らない「門外漢」が。
それも、まだ数年しか社会人やってないような若輩者が、ひどく生意気なことを言った――
そんな風に、シュンと反省するような心持ちになったのだ。
事務所に沈黙が落ちた。
しかし、その静けさに、ギリギリ耐えられなくなる寸前のところで、
「あ、でも待って。イオさん」と、蒼が何かを思いつく。
「その紙がさ、もし『ドタキャン』の人が書いたものだとして」
「うん」
「『郵便受け』って、オートロックの内側じゃないですか? つまり、誰かにドアの鍵、開けてもらって入ったってことでしょ。イオさん、その日って、オートロックの呼び出し音とかも鳴らなかったんですか?」
「鳴らなかった」
「そりゃ、マンションのオートロックなんてさ。ほら、さっきのリアさんみたいに、誰かの出入りがあるときに『滑り込む』とかはできるかもしれないけど……でもこのマンション、そこまで人の出入りって多くないですよね」
「うん。日中は特にそうだね。人の出入りは宅急便くらいかな。学校帰りの子供とかもいないし。ここ、子育て世代は皆無のマンションだから」
まあ、そう……だろうな。
近所は、規模は縮小したとはいえ、実は昔からの風俗街だ。
「家族連れ」は、まず住まないと思う。
というかさ。
職場の、ずっと横浜住みの人に「最寄駅どこ?」って訊かれたことがあって。
普通に答えたら、なんか微妙な間が生まれた後、「駅の、どっち側?」とか訊かれた。
挙句の果てに、「新井さん、東京の寮からだから、よく知らなかったんだねぇ」とか「次は、他のところに移ってもいいかもよ」みたいに言われたし。
なんでも、
「あの界隈はさ。飲みに行ったり、ちょっと変わった飯屋に食べにいったりするところであって、『住むトコロ』じゃないよね……」だそうで。
まあ、しばらく住んでみたオレとしては、
「ふうん、そうっすか?」としか思わないけど。今のところは。
――そうだね、蒼くんのいうとおりかも。
「え……?」
何? なにが。
あ、いま、何の話してたっけ。
「この紙を書いた人。うちを呼び出さないで、郵便受けまで『入って』来たってことだよ」
あ、そうそう、その話。
「誰かマンションの住人とかが通りかかるまで……かなり長い間、じっと表で待ってたんだと思う」
「いや、待ってください、イオさん。なんでそんな、わざわざ? だって、ここまで来たんでしょう? だったら普通に事務所を呼び出して、上がってくればいいだけなのに」
ドタキャンの理由が「予約はしたものの、億劫で行くのがイヤになった」とかなら分かる。
けどさ――
もうすでに、ちゃんと下まで来てるのに。
じっと、誰かが通りがかる機会を待ち続けるって、なに?
それも郵便受けに、あんなメモをいれるために。
なんならそれもさ。ちゃんとイオさんのトコのボックスに入ってなくて。
ゴミみたいに床に落ちてたし――
「この人、たぶん。メモを入れること自体が目的だったワケじゃないよ」
「……?」
イオが「あれれ、蒼くん、分からない?」といった顔をする。
「……このメッセージを書いたひとはね、ホントはすごく、ここに来たかったんじゃないかな。でもどうしてもどうしても、上がって来られなかった。ああ、逆も言えるね。来たくないのにどうしてもどうしても来ざるをえないような、抜き差しならない状況にあったのかも。でもさ、いずれにせよ」
心配だよ……と呟いて。
イオが、シンと黙り込む。
蒼も、それきり何も言えなくなった。
静寂が痛くて――でも「もう帰ります」とも口を開きづらい。そんな沈黙。
その表面張力を破ろうと、蒼が、息継ぎめいてくちびるを開いた瞬間。
「プー」と。
今度はマンション入口の「オートロック」の呼び出し音が鳴った。