まだ、開けられていない 4
the box not opened yet 4
地下鉄で臨海パークから戻り、イオと蒼はマンションの廊下でいったん別れた。
蒼はシャワーと着替えを済ませ、イオは楽器を部屋に置いて、再び表へと出る。
「今度は、JRの駅の方に向かうよ」
マンションの玄関ホールを歩きながら、イオが言った。
「あ、ハイ」
返事をしながら、イオについて蒼は歩く。
また、大家の玄関先を通り過ぎた。
宅配ボックスの横に人影が見える。
大家の母親だった。
会釈をして、イオが通り過ぎていく。
その後に続いた蒼の耳に、ごくちいさな声が聞こえた。
――なに? いまの。
あのひと……大家さんのお母さん、いま誰かの名前、呼んだ?
「どうかした?」
イオが振り返る。
蒼は大きくかぶりを振り、「なんでもないっす」と即答した。
*
イオがどんなところに連れて行ってくれるのか。
蒼は正直、ドキドキしていた。
「JRの駅の方」に行くには行った。だが、電車には乗らなかった。
駅を突っ切って、さらに海の方へと歩いていく。
馬車道に着いた。
並木がとガス灯を模した街灯があって、感じのいい通りだ。
しばらく歩き、イオが路地をひょいと入る。
ひっそり佇む、間口の小さな店。
ワイン色の木枠の両開きのドアを押し開け、イオが中へと入って行った。
――え。
蒼は完全に怖気づく。
いやいやいや。ちょっと、ここはアウェイすぎる。
オレなんかが来るようなトコじゃ……。
イオが開けた扉を抑えたまま振り返った。
だから蒼も、中に入らざるを得ない。
上品で控えめなショーウィンドウには、ジャケットコーディネートをしたトルソーがひとつだけ置かれている。
しかし「テーラー」というわけでもなさそうで、店を見回せば、Tシャツのようなカジュアルな品もあった。
一方で、カフス、サスペンダーやポケットチーフといった、めずらしい小物も多い。
蒼たち以外、客は誰もいなかった。
というか、店員の姿も見えない。
そんな風に、モゾモゾと周囲を見回す蒼を見て、イオが微笑む。
「どうかな。なにか気になるもの、ありそう?」
「え、あ……いや、その」
蒼が言いよどんだ。
「ここって、そんな大きい店じゃないのに、なんだか……なんでもありそうに見えるっていうか」
「『何でも』は、ご用意できないかもしれませんが」
音もなく、誰かが姿を現した。
「言っていただければ、おおよそのご希望には、なんらかご対応いたしますよ」
針金のように細い男だった。
なんか――
イオさんの五分の一くらいしか幅がない。
蒼が抱いたのは、そんな第一印象。
楕円形のシルバーフレーム。レンズには、すこしだけ色が入っているかもしれない。
髪の色もシルバー。
顔立ちからは年齢が推し量れなくて、白髪なのかブリーチなのかは判らない髪色だった。
「どうも、舘原さん。こちらは新井蒼くん、僕の友達です」
イオに紹介され、蒼は慌てて「こんにちは」と頭を下げる。
「蒼くんね、ドレスシャツを探すのに苦労しているみたいで。いくつか見繕ってもらえませんか」
人差し指を軽く動かしながらイオの話を聞いていた舘原が、コクリとひとつ頷いた。
「失礼、新井様。すこし触れても?」
面食らったものの、蒼は反射的に頷く。
舘原が、親指と小指を広げたりくっつけたりしながら、蒼の肩回りを測り始めた。
ひょいひょいと、まさに「尺取り虫」のように軽やかに。
そして「失礼」と発し、舘原が両手で蒼の肋骨周りを掴み取る。
だが、それはほんの一瞬のことで、蒼が驚きの感情を覚えたときには、すでに、その指は蒼の身体から離れていた。
舘原がカウンターの奥へと姿を消す。
戸惑いを滲ませながら、蒼が振り返れば、イオは穏やかに頷くだけだった。
そう長くも待たないうちに、舘原がいくつかの商品を手に戻ってくる。
言われるがまま、蒼は試着した。
舘原は、手首に巻いたピンクッションから待ち針を抜き取ると、蒼が纏うシャツに打っていく。
どうやら、体形に一番合いそうな既製品の服に「少しばかり手を入れる」ということのようだ。
「お急ぎですか?」
着替え終え、カーテンで仕切られた試着用の一角から出てきた蒼へ、舘原が唐突に訊ねた。
「どれくらいで、できあがりそうかな?」
なにをどう答えたらいいのか分からない蒼のかわりに、イオが応じる。
「三時間ほど頂戴できれば」
「分かりました。それぐらいに取りにきます。お願いしますね、舘原さん」
そう言って、イオが蒼を振り返る。
「じゃ、行こうか。蒼くん」
*
「行こう」って、イオさん。一体どこへ?
心の中で、そう問いかけながらも、蒼はイオに従い、黙って舘原の店を出た。
そしてそのまま、こまごまとしたものを、イオに見繕ってもらうなりゆきになる。
下着とか、カジュアルなパンツとか。そんなようなモノだ。
腰回りと比して腿が太い蒼だったが、上手く選べばキレイに着られるボトムスもあることが分かった。
これでもう「休みの日にトラックパンツしか着るものがない」なんてコトにはならないだろう。
数時間後、馬車道近くに戻ってきて、イオと蒼はカフェに入る。
軽く朝を食べたきり。そろそろティータイムといった時間になっていた。
蒼は、サンドイッチとケーキをパクつく。
「よかったら、蒼くん。今日の夕食、うちで作って一緒に食べないかい?」
イオの誘いに、蒼は生クリームを飲み込んでから大きく頷く。
「丸一日付き合わせちゃったのに、夕食まで誘って悪かったかな」
「そんな! 付き合ってもらったのは、オレの方ですってば」
勢い込んで蒼が言い返せば、イオは「ふふふ」と小さく笑った。
そして、ふたりは店に戻る。
相変わらず、ひと気がなく、カウンターには、ごく古風な呼び鈴が置かれている。
イオがそれを押すと、小さく澄んだ音が響き渡った。
舘原が姿をあらわす。
「できていますよ」
言いながら、舘原はキレイに畳まれたシャツを取り出す。
蒼は、また試着へといざなわれた。
袖を通して驚いた。
腕や肩がつっぱったり上げにくかったり……といったことは、まったくなくて。
なのに、身体がとてもスッキリ見える。
え! オレって、こんなにスタイル良かったっけか。
これ、最初に見たのと同じ鏡だよな?
なんてことが、蒼の頭をよぎるほどに。
シャツは三枚。
ブルーとレモンイエロー。
どちらもごく淡い色で、まったく同じ形で二枚。
たぶんスーツとあわせるためのシャツ。
もう一枚は、かなりハッキリとした青色だった。
おそらく、そのまま一枚で着てもいいものだろう。
考えてみれば、蒼は、そもそも「何色がいいか」すら訊かれなかった。
形が合うシャツが、たまたま、この色しかなかったのかもしれないし、詳細は分からない。
だが不思議と、どの色も「ちゃんと似合っている」と思えた。
レモンイエローなんて、自分じゃ考えもしない色だけどさ――
試着している客に向かって「いかがでしょう?」とも訊ねぬまま、舘原は蒼の姿を見て、ただ満足げに頷いていた。
蒼が脱いだ三枚のシャツが、また丁寧に畳まれて、紙袋へと入れられていく。
蒼は内心、少々不安になる。
このシャツが一体いくらなのか、まったく想像がつかない。
品代を記した紙が、蒼の目の前へと滑らされた。
決して安くはない。
というか、自分で買ったシャツの中では、圧倒的に史上最高値だった。
だがまあ……買って買えないことはない。
「飲み」も「打ち」も「買い」もしない蒼だ。
なにせ家賃以外、給料はろくに使い道がないし、その家賃すら、かなり抑えた金額だった。
蒼は財布から、めったに使わないクレジットカードを取り出す。
決済が終わった。
レシートとカードを返しながら、舘原が「ひと言よろしいでしょうか、新井様」と口にする。
「あ、ハイ」と、反射的に返答した蒼に、舘原が続けた。
「五百蔵様のお知り合い、ということで、僭越ながら申し上げます」
あ、はい……えっと?
「そろそろ、理髪店に行かれた方がよろしいかと。そしてできれば、いま使っていらっしゃるところよりも、もう少しマシな店に行かれることをお勧めします」
――なにそれ。
え、駅の千円カットって、バレてました?
いやいや、でもさ。そこまで千円カットをディスらなくても、よくないですか。
そんな気持ちが、顔に出ていたのだろう。
イオは蒼から視線をそらし、くちびるを噛んで、笑いを噛み殺していた。
そしてふたりは、歩いてマンションに帰る。
途中で食材をいくつか仕入れた。
荷物をぶら下げ、マンションの大家の玄関先を通る頃には、もうすっかり夕暮れの気配だった。
宅配ボックスの横に大家がいた。そして、
「あ! 代書屋さん、ちょっとちょっと!」と、イオを呼び止める。
「聞いてくださいよ、実はね」
立ち話が始まった。
いわく、今朝まで宅配ボックスに入っていたはずの「くだんの荷物」が、なぜか昼過ぎ、玄関の隅にポンと置かれていたのだという。
「本当に、一体どういうことなんだか。朝までは、あの番号じゃ絶対に開かなかったんだよ!」
まくしたてる大家に、イオが、
「マスターキーで開けたのではないんですね?」と静かに問い返す。
「違う違う! そうじゃないよ、マスターキーはまだ見つかってないんだ!」
大家が、次第にけんか腰になってきた。
イオはただ静かに睫毛を伏せる。そして、
「『番号』じゃなく……『気持ち』が合えば開くのかもしれませんね、その箱」と、呟くようにくちずさんだ。
面食らった大家が、まばたいて黙る。
蒼はイオの横顔を見上げながら、
イオさん、また意味深なこと言ってる……と噛み締める。
でもさ。イオさん。
宅配ボックスが「開いた」っていうのならさ。
今回の「謎」については、実はオレにだって、思うところがあるんだ――
蒼はそんな風に、心の中でほくそ笑む。
それを知ってか知らずか。
イオはゆっくりと腕組みをすると、蒼に向かって、ひとつハッキリと微笑んで見せた。
実はみんな、蒼くんをカッコよくしてあげたかったの巻。




