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まだ、開けられていない 3

the box not opened yet 3



 鎌倉から戻った夕方。

 普段は使わないJRの駅からマンションに戻った蒼は、また大家の玄関の前を通りかかった。

 

 大家はまだ、宅配ボックスの前でもがいている。

 あの後、なにも解決しなかったのだろうか?


 声はかけず、小さく会釈しながら前を通り過ぎた。

 大家も蒼に気づいたのだろう、顎先だけの会釈を返してきた。


 ふと玄関ドアに目をやれば、扉が薄く開いていて、大家の母親が外を覗いている。

 気づかわしげな――というか。

 その瞳はやはり、何か張り詰めたものを孕んでいるように、蒼には見えた。





 その後は、いつもどおり、バタバタと職場へ向かう朝が続き、蒼が大家の家の方へ足を向けることはなかった。


 そして土曜日。

 目覚めた蒼は、休日のルーティンになりつつある、港へのランニングに出かけた。

 いまでは、海へ向かう経路にも色々とバリエーションができている。


 今朝は横浜スタジアム方向に抜け、中華街を突っ切り、元町へ向かった。

 そして、折り返しがてら日本大通りを走り、いつもの臨海パーク前の遊歩道に戻ってくる。


 約束は、別にしていなかった。

 でも、なんとなく「予感」があった。


 イオのハンドパンの調べが、空に広がっている――


 その不思議で優しい音に、早朝のまばらな通行人が、何人か足を止めていた。 

 よく見る顔のランナーが、チラリとイオを横目で見ながら、プロムナードを駆け抜けていく。


 蒼はトイレの手洗い場で、素早くシャツの着替えを済ませた。

 そして顔を洗い、手櫛で髪を整える。


 イオの方へと歩み寄ったときには、ちょうど演奏が終わる頃合いだった。


「おはよう。蒼くん」

 イオが振り返る。


「おはようございます」

 礼をして、蒼はイオの隣に腰を下ろした。


 イオの指が、楽器の上を柔らかく撫でていた。

 その整った爪と長い指に、思わず、蒼の視線が吸い寄せられる。


「触ってみる?」


「え?」


「楽器。興味あるみたいだから」


「いや、そんな……」


「どうして? 蒼くん、さっきからずっと見てたよね」


 ほら、と言って、イオが蒼の膝にハンドパンを載せた。

 そして立ち上がると、背後に回る。


「手はさ……こんな感じで。肩と手首の力は抜いてね」

 言いながら、イオが蒼の前腕部を軽く握った。


「指で『叩いてる』みたいに見えるかもしれないけど、そうじゃないんだよ。この楽器は『響かせる』んだ。共振(レゾナンス)させる……『触れる』っていった方が近いかな」


「……レ、レゾナンス、ですか」


「そう、触れて弾くのは、この部分。丸くへこんだところの周辺」


 イオが蒼の両手首を取った。

 背後から、そっと抱きつかれるような感じ。

 蒼はあらためて、イオの身体の大きさを実感する。


 たしかに、音の出し方には、色々コツがあるようだった。

 イオのような、いろんな音が響き合うような「タップ」は、なかなかできない。

 それでも、最後の方には蒼も、海と空の遠くまで届きそうな、ゆらいで響く音が何度か出せた。


「いやぁ……イオさんがやってるのを見ると、なんだかすごく軽やかな感じだったから、ただ叩けば音が響くのかな? なんて甘いコト思ってました、オレ」

 

 疲れた指先と掌をほぐしながら、蒼が言えば、イオはやわらかく「ふふふ」と笑う。

 そして蒼は、背後に立つイオを見上げた。


 大きくて分厚い、逞しい身体。


「イオさんって……その、服とかって、どういうトコで買ったりとか」


 イオが首を傾げて腕組みする。

 「?」マークが、宙にポコッと浮かんで見えた。


「えっと、その、だから……オレも相当、肩、いかついじゃないですか。でもイオさんは『それ以上』っていうか。オレですら、肩に合わせてシャツ買うと、なんか他がブカブカになるっていうか。だからイオさんは、たとえば……どういうメーカーのを選んで買ってるのかな、とかって」


 前々から、実は訊いてみたいと思っていたのだ。

 ついそれが、口に出た。


「蒼くん、服を選ぶの、そんなに不自由に思ってたんだ。そうか、だからいつも、スポーツウェアみたいなのばかり着てるのかな?」


「え、あ。まあ……そうと言えばそう……なんですけど」


 というか。そもそも休日なんて練習しかしてなかったから。

 トレーニングウェア以外の服なんか、別に要らなかったっていうか。


「……『肩』って言えば」

 蒼の頭に、ふと職場での出来事がよぎる。


 ――新井は素直なヤツだからな。色々、可愛がられるタイプなんだよ。


 そう言って肩を叩いた、咥えタバコの。

 明らかに裏のない笑顔で、何度も何度も蒼の肩を叩く。あのベテラン。


「『いい肩してる』って、言われて」


「そんなに叩かれたの? 肩を」

 楽器をケースにしまいながら、イオが隣に腰を下ろした。


「別に……悪気なんか全然ないっていうのは、分かってます。世代の違いっていうか」

 言い訳めいて、蒼はそんな風にぐしゃぐしゃと付け足す。


「でも……オレ」

 蒼は、港のさざ波に目をやる。


「水泳を辞めたコト、たぶんまだ、完全に、ちゃんと消化できてなくて。だから、『いい肩』とか、体育会系で性格がどうのとか、どっかで『水泳』に結びつけられるみたいな言葉が……ちょっと『しんどい』っていうか」


 そうだよ――

 「触られること」自体が「どうしようもなく厭」ってワケじゃない。

 水泳のコトを――こんな風に競技を断念したことを、まるで責められてるみたいな気がして。

 なんか、勝手に傷ついてただけなんだ、オレって。


 天啓のような気づき。

 蒼はイオへと視線を向ける。

 イオはいつもどおりの穏やかな微笑で、蒼を見つめていた。


「あの……スイマセン、オレ。よく考えたら自分が言われてイヤなコト、イオさんにも言っちゃって」


「イヤなコト?」


「その……『肩がいかつい』とか、『シャツをどこで買うのか』とか」


 イオがゆっくりと瞬く。そして、


「僕はイヤじゃないよ、シャツの話も体の話も」

 と、小さく首をかしげて見せた。


「イオさん……」

 蒼はそれきり何も言えなくなる。


「そうだ。これから一緒に買いに行こうか? シャツ」


「え……?」

「蒼くんに予定がなければ。どう?」


 予定なんか、別にない。

 いつもない、ぜんぜんない。


「蒼くん、僕はさ」

 腿に前腕をついて、すこしだけ前のめりになりながら、イオが言う。


「会社勤めって、したコトないんだ。だからさ、蒼くんを取り巻く、いろんな細かい事情は、たぶんよく分からない。でもね、本当にされて厭なことは『イヤだ』と、ちゃんと言った方がいいって、僕は思う」


「イオ……さん」


「もし、その人が本当に蒼くんのコトを考えてくれているのなら。蒼くんのことをホントに好きなら。蒼くんが『嫌がること』なんか、きっとしたくないはずだから」


「ありがとう……ございます」


 なんだか感極まって、蒼は言葉を噛み締めた。

 やさしいミルクのような沈黙が、二人の間に、とろりと流れる。


「あの、ホントに厭かどうかは……分からなくて。けどその人、いい人なんです。そりゃ『バブル期のオジサン』って感じで。合わないなって思うことは色々あるけど、でも、ちゃんと周りを見てくれてるっていうか。その時も、ちょうどオレ、班長にチクチク言われてて。それで助けようとしてくれたと思うんです。だから……」


 イオが、スッと目を細める。

 そして、


「やさしいね、蒼くんは。ホントに」と、微笑交じりに呟いた。



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