まだ、開けられていない 3
the box not opened yet 3
鎌倉から戻った夕方。
普段は使わないJRの駅からマンションに戻った蒼は、また大家の玄関の前を通りかかった。
大家はまだ、宅配ボックスの前でもがいている。
あの後、なにも解決しなかったのだろうか?
声はかけず、小さく会釈しながら前を通り過ぎた。
大家も蒼に気づいたのだろう、顎先だけの会釈を返してきた。
ふと玄関ドアに目をやれば、扉が薄く開いていて、大家の母親が外を覗いている。
気づかわしげな――というか。
その瞳はやはり、何か張り詰めたものを孕んでいるように、蒼には見えた。
*
その後は、いつもどおり、バタバタと職場へ向かう朝が続き、蒼が大家の家の方へ足を向けることはなかった。
そして土曜日。
目覚めた蒼は、休日のルーティンになりつつある、港へのランニングに出かけた。
いまでは、海へ向かう経路にも色々とバリエーションができている。
今朝は横浜スタジアム方向に抜け、中華街を突っ切り、元町へ向かった。
そして、折り返しがてら日本大通りを走り、いつもの臨海パーク前の遊歩道に戻ってくる。
約束は、別にしていなかった。
でも、なんとなく「予感」があった。
イオのハンドパンの調べが、空に広がっている――
その不思議で優しい音に、早朝のまばらな通行人が、何人か足を止めていた。
よく見る顔のランナーが、チラリとイオを横目で見ながら、プロムナードを駆け抜けていく。
蒼はトイレの手洗い場で、素早くシャツの着替えを済ませた。
そして顔を洗い、手櫛で髪を整える。
イオの方へと歩み寄ったときには、ちょうど演奏が終わる頃合いだった。
「おはよう。蒼くん」
イオが振り返る。
「おはようございます」
礼をして、蒼はイオの隣に腰を下ろした。
イオの指が、楽器の上を柔らかく撫でていた。
その整った爪と長い指に、思わず、蒼の視線が吸い寄せられる。
「触ってみる?」
「え?」
「楽器。興味あるみたいだから」
「いや、そんな……」
「どうして? 蒼くん、さっきからずっと見てたよね」
ほら、と言って、イオが蒼の膝にハンドパンを載せた。
そして立ち上がると、背後に回る。
「手はさ……こんな感じで。肩と手首の力は抜いてね」
言いながら、イオが蒼の前腕部を軽く握った。
「指で『叩いてる』みたいに見えるかもしれないけど、そうじゃないんだよ。この楽器は『響かせる』んだ。共振させる……『触れる』っていった方が近いかな」
「……レ、レゾナンス、ですか」
「そう、触れて弾くのは、この部分。丸くへこんだところの周辺」
イオが蒼の両手首を取った。
背後から、そっと抱きつかれるような感じ。
蒼はあらためて、イオの身体の大きさを実感する。
たしかに、音の出し方には、色々コツがあるようだった。
イオのような、いろんな音が響き合うような「タップ」は、なかなかできない。
それでも、最後の方には蒼も、海と空の遠くまで届きそうな、ゆらいで響く音が何度か出せた。
「いやぁ……イオさんがやってるのを見ると、なんだかすごく軽やかな感じだったから、ただ叩けば音が響くのかな? なんて甘いコト思ってました、オレ」
疲れた指先と掌をほぐしながら、蒼が言えば、イオはやわらかく「ふふふ」と笑う。
そして蒼は、背後に立つイオを見上げた。
大きくて分厚い、逞しい身体。
「イオさんって……その、服とかって、どういうトコで買ったりとか」
イオが首を傾げて腕組みする。
「?」マークが、宙にポコッと浮かんで見えた。
「えっと、その、だから……オレも相当、肩、いかついじゃないですか。でもイオさんは『それ以上』っていうか。オレですら、肩に合わせてシャツ買うと、なんか他がブカブカになるっていうか。だからイオさんは、たとえば……どういうメーカーのを選んで買ってるのかな、とかって」
前々から、実は訊いてみたいと思っていたのだ。
ついそれが、口に出た。
「蒼くん、服を選ぶの、そんなに不自由に思ってたんだ。そうか、だからいつも、スポーツウェアみたいなのばかり着てるのかな?」
「え、あ。まあ……そうと言えばそう……なんですけど」
というか。そもそも休日なんて練習しかしてなかったから。
トレーニングウェア以外の服なんか、別に要らなかったっていうか。
「……『肩』って言えば」
蒼の頭に、ふと職場での出来事がよぎる。
――新井は素直なヤツだからな。色々、可愛がられるタイプなんだよ。
そう言って肩を叩いた、咥えタバコの。
明らかに裏のない笑顔で、何度も何度も蒼の肩を叩く。あのベテラン。
「『いい肩してる』って、言われて」
「そんなに叩かれたの? 肩を」
楽器をケースにしまいながら、イオが隣に腰を下ろした。
「別に……悪気なんか全然ないっていうのは、分かってます。世代の違いっていうか」
言い訳めいて、蒼はそんな風にぐしゃぐしゃと付け足す。
「でも……オレ」
蒼は、港のさざ波に目をやる。
「水泳を辞めたコト、たぶんまだ、完全に、ちゃんと消化できてなくて。だから、『いい肩』とか、体育会系で性格がどうのとか、どっかで『水泳』に結びつけられるみたいな言葉が……ちょっと『しんどい』っていうか」
そうだよ――
「触られること」自体が「どうしようもなく厭」ってワケじゃない。
水泳のコトを――こんな風に競技を断念したことを、まるで責められてるみたいな気がして。
なんか、勝手に傷ついてただけなんだ、オレって。
天啓のような気づき。
蒼はイオへと視線を向ける。
イオはいつもどおりの穏やかな微笑で、蒼を見つめていた。
「あの……スイマセン、オレ。よく考えたら自分が言われてイヤなコト、イオさんにも言っちゃって」
「イヤなコト?」
「その……『肩がいかつい』とか、『シャツをどこで買うのか』とか」
イオがゆっくりと瞬く。そして、
「僕はイヤじゃないよ、シャツの話も体の話も」
と、小さく首をかしげて見せた。
「イオさん……」
蒼はそれきり何も言えなくなる。
「そうだ。これから一緒に買いに行こうか? シャツ」
「え……?」
「蒼くんに予定がなければ。どう?」
予定なんか、別にない。
いつもない、ぜんぜんない。
「蒼くん、僕はさ」
腿に前腕をついて、すこしだけ前のめりになりながら、イオが言う。
「会社勤めって、したコトないんだ。だからさ、蒼くんを取り巻く、いろんな細かい事情は、たぶんよく分からない。でもね、本当にされて厭なことは『イヤだ』と、ちゃんと言った方がいいって、僕は思う」
「イオ……さん」
「もし、その人が本当に蒼くんのコトを考えてくれているのなら。蒼くんのことをホントに好きなら。蒼くんが『嫌がること』なんか、きっとしたくないはずだから」
「ありがとう……ございます」
なんだか感極まって、蒼は言葉を噛み締めた。
やさしいミルクのような沈黙が、二人の間に、とろりと流れる。
「あの、ホントに厭かどうかは……分からなくて。けどその人、いい人なんです。そりゃ『バブル期のオジサン』って感じで。合わないなって思うことは色々あるけど、でも、ちゃんと周りを見てくれてるっていうか。その時も、ちょうどオレ、班長にチクチク言われてて。それで助けようとしてくれたと思うんです。だから……」
イオが、スッと目を細める。
そして、
「やさしいね、蒼くんは。ホントに」と、微笑交じりに呟いた。




