まだ、開けられていない 1
the box not opened yet 1
秋の繁忙期もひと段落した頃。蒼は、振替で平日に休みを取った。
廊下で偶然、イオと行き会う。
挨拶のあと、よもやまの世間話。
そして、一緒に「モーニング」を食べに行こうと、話がまとまった。
以前、夜にふたりで、ナポリタンやハンバーグを食べに行った「佐倉さんの喫茶店」だ。
その後も、蒼はひとりで何度か足を運んでいた。
偶然にイオと会うこともあれば、そうでないこともあった。
「オレ、あそこ、まだ朝には行ったことなくて。モーニング、食べてみたかったんですよね」
声を弾ませて、蒼が言えば、
「うん、でも普通に『喫茶店』だから。何の変哲もないメニューだよ」と、イオが微笑んで応じた。
そして、
「トーストとコーヒーは、いつも美味しいけどね」と付け足す。
「佐倉さんの喫茶店」は最寄りの地下鉄駅とは逆方向だ。
だから蒼は、普段めったに、そっち側へ歩くことがない。
マンションのエントランスを出て、喫茶店の方へ向くと、もうひとつ玄関がある。
一階に住むオーナー専用のものだ。
その玄関先で、五十代後半とおぼしき小柄でメガネの男性が、なにやらしきりと文句を言っていた。
あの人。
たしかここの大家さん……だったよな?
家賃はマンションを管理している不動産屋の銀行口座に振り込む。蒼が大家と顔を合わせることは、ほとんどなかった。
「ああ、ちくっしょう!」
大家が突然、悪態をついた。
めんくらった蒼が思わず足を止める。
イオが、口もとにちいさな苦笑が浮べて、大家の方へと歩き出した。
「おはようございます。どうされました?」
穏やかでやわらかい、イオの声。
凪いだ海の光のような。
「ああ……あんた、三階の代書屋さんか。スイマセンね、朝から。でもさ、ちょっと聞いてくださいよ」
大家が堰を切ったように話し出した。
いわく、資産がらみの重要な書類が、昨日、自分の留守中に宅配ボックスに届いた。
だが、どうやってもボックスが開かないのだと――
大家の玄関先にある宅配ボックスは、ごく古いダイヤル式で暗証番号を合わせるタイプのものだった。
マンション住人用とは別に、大昔に個人で設置したものらしい。郵便受けと共用しているのだろう。
「これが、何遍やってもロックが外れないんだよ。暗証番号だってあってるハズなのにさ」
「憤懣やるかたなし」という風に、鼻息荒く大家が腕組みをする。
すると、その背後で玄関のドアが少しだけ開いた。
七十代くらいの女性が、顔をのぞかせる。
イオがそちらを向いて会釈をした。老女もそっと、会釈を返す。
「大家さん、たしか、お母さんとお二人暮らしでしたよね」
イオが話を少しそらした。
「ええ、そうなんですよ。わたしも色々あって、所帯を持ちそびれましてね」
苦笑交じりに応じると、大家はドアを振り返る。
「とにかくね、再送付してもらえるような書類じゃないんですよ。急いでますし。ったく、これが開かなきゃどうしようもない」
途方にくれながらも、ひどくイラついている――
そんな大家の口調は、聞いていて、決して気持ちのいいものではなかった。
蒼はだんだん、うんざりしてくる。
休日の朝一で、イオとゆっくりした会話を楽しんだあとだと、余計にそう思えた。
「マスターキーがね、あったはずなんだよ。家のどっかには。母親に訊くんだけどさ、ほら、歳も歳で、最近ちょっと怪しくてね」
その「母親」は、玄関ドアのところで黙って佇んでいるのだ。
無神経な大家の言い草も、ちゃんと聞こえているだろうに――
そう思うと、蒼の胸が痛んだ。
そっと老女の方を伺ってみる。
なにかが引っかかった。
老女の顔に浮かぶ表情に、蒼は何とは言えない「なにか」を感じ取る。
「こいつは大昔に、うちが自前で置いた宅配ボックスで、管理会社は関知してないし。しょうがないからメーカーに電話したんですよ、さっき」
大家は引き続き、まくしたてていた。
「そしたら『そんな古いものは、もう分からないって』。まったく、今日日の日本の会社は、どうしようもない」
イライラと、あらゆることに不満を爆発させる大家に、蒼ももう、同情する気が失せてしまう。
隣に立つイオを、チラリと見上げてみた。
だがイオは、蒼の「もう行きましょうよ」という視線を受け止めながらも、黙ったまま佇み、大家の愚痴を聞き続ける。
とうとう、蒼は我慢できなくなった。
「もう一度、マスターキーを探すのが一番いいんじゃないんですか?」と、少し冷たく言い放って会釈をし、ひとり喫茶店に向かって歩き出した。
*
「ごめんね、蒼くん。おなかがすいてたかな?」
「佐倉さんの喫茶店」のいつもの席に座って、いの一番に、イオが蒼に訊ねた。
「え、なんでですか……」
「ほら、蒼くん、大家さんとの世間話。ひどく性急に切り上げたがってたから」
「別に、そんなコトは」
「そう?」
軽く首をかしげて、イオが腕を組む。
「なんだか……蒼くんらしくない気がしたよ。困ってる人の話の腰を折るみたいな」
「いや、それは!」
自分の口調が、やや「けんか腰」なコトにすぐ気づき、蒼はコップを手にし、水を飲む。
「……なんかその、母親が後ろで聞いてるのに、大家さん。無神経っていうか」
「ああ、そうだね。色々と『お母さんのせい』にしていたね」
「あんな……『ボケてる』みたいなこと。本人の前で」
「そっか。大家さんのお母さんのために怒っていたんだね」
言ってイオが、ふふふと笑った。そして、
「やっぱり、優しいなあ。蒼くんは」と、独り言めいて呟いた。
コーヒーが運ばれてくる。
「美味しいんだよ、ここのコーヒー」と、初めてのとき、イオは言った。
確かにそのとおりだと、蒼も思う。
香りもよくて、コクがある。でも少しだけ刺激が強い気がして、蒼はいつもミルクを使う。
だからなのか。
前に、イオの事務所でコーヒーを振舞われたとき、「ミルクを出そうか?」と心配されたことがあった。
蒼はすぐに断った。
イオのコーヒーは、他で飲むどのコーヒーとも違っている。
涼しい舌ざわりというのか。香りも味も、それほど強くなくて。
なんだろう、そうだ「フルーティー」。そう、フレッシュというかフルーティーとか、そんな感じがするんだ。
だから、ミルクを入れるとかえって「邪魔になる」気がして。
そのままブラックで飲みたいって、いつも思うから。
つづけて、モーニングの皿が運ばれてきた。
分厚いトースト。ジャム。コールスロー。ゆで卵にベーコンが二枚。
確かに、かなり空腹だった蒼は、さっそくにトーストを摘まみ取る。
それからしばらくは、サクサクとパンを噛み締める音と、ゆで卵の殻をむく音だけが、ふたりの間に響いた。
「なんか、このパン……イオさんが言ってたとおり、すごい美味いですね。モチモチ過ぎなくて。耳までサクサクで」
コーヒーを飲み下し、蒼がしみじみと口にする。
「パン自体が、すごくトースト向きっていうのもあるけど。焼き方がいいんだよ。ガスコンロで網焼きしてるんだ。油断すると焦げちゃうけど、さすがプロだよね。いつも絶妙な黄金色なんだ」
そう応じて、イオがコーヒーのお替りを注文した。
新しいカップが運ばれてきて、イオがひと口飲み下すのを待ってから、蒼がまた話を始める。
「イオさん、さっきの……大家さんの宅配ボックスの話なんですけど」
「うん?」
「あれってホントに、マスターキーがなきゃ話にならないんですよ、結局は。ああいう話って、オレ、仕事柄よく聞くんで」
蒼の会社が担当する施設管理の仕事というのは、もちろん、ボイラーや冷暖房、それに付随する電気・水道などの大きな設備に関する話が多い。
とはいえ、そういった施設には、ドアやらロッカーやらといった設置物がつきもの。
シゴトと直接に関係するかどうかにかかわらず、トラブルは、しょっちゅう耳にするのだ。
「たいていの場合、ダイアル式ロックのトラブルって暗証番号の設定ミスなんです。利用者側のミスっていうか……要は『暗証番号忘れ』ってことで。そうでない場合は、ダイアルの劣化だから。いずれにせよ、マスターキーで開ける以外、方法がないんです」
「なるほどね」
イオが静かに相槌を打つ。
「だから、大家さんが暗証番号を勘違いしてるだけなんですよ、きっと。なのに、あんなふうに母親のせいにしたりして……」
口をとがらせる蒼を見て、イオがまた、ふふふと笑った。
「『息子』っていうのは、いつまでもどこかで『お母さん』に甘えていたいものなのかもね」
「……って、あのひと、いくつですか? 五十はとっくにいってるでしょうに。いくら独身だからって」
「歳は関係ないんだよ、きっと」
頷きながら、イオが言う。
「じゃ、イオさんも……お母さんに甘えたくなりますか?」
口にした直後、ひどく無神経な、踏み込むようなことを言ってしまった気がした。
蒼の胸に、グワリと後悔が押し寄せる。
「あ、すいませ……」
いいかけた蒼に、イオがゆっくりと首を振って見せた。
「僕の母親は、もう亡くなっていてね。甘えるというより……時々、懐かしく思い出すよ」
ああ、やっちまったな、オレ。
後悔が重すぎて、蒼の口からは、もう詫びる言葉も出てこない。
「それよりさ。宅配ボックスの暗証番号のこと、僕、なんだか腑に落ちないんだよ。蒼くん」
「腑に落ちない?」
「『暗証番号忘れ』っていうけど、普段使うようなもの、そんなに突然、忘れたりするかな?」
「することもあるかもですよ……ってか、自分の脳の方が、よっぽど劣化してるんじゃないんですかね、大家さん」
「蒼くん、ひとまず大家さんへの腹立ちは横において、僕と話をして欲しいんだけど、ダメかい?」
「……すいません」
蒼は決まり悪く、コーヒーカップに視線を落とす。
中身は、もうとっくに空だった。
すると、蒼の前に、コーヒーのお替りが運ばれてくる。イオが頼んでくれていたのだろう。
新しいカップにミルクを注ぎ、口をつけ、ひとつ溜息をついてから、蒼が言う。
「もし大家さんがセキュリティ意識が高いひとだったら、定期的に番号を変えていたかもしれないし……そしたら、新しい番号をうっかり勘違いすることもあるかもしれないです」
「暗証番号は、そんなに手軽に変えられるのかい?」
「はい。たぶん、ああいった古い型式は、物理的なリセットボタンがついてると思うんで。一度ロックを開けないと押せないですけどね。だから結局はマスターキーがないと、どうしようもないんです」
「そうか」
イオが頷いて、腕組みを解いた。
イオさんは、なにかに引っかかってるんだな……。
蒼はすぐにそう察した。
でも、それが何かは、まだ想像もつかない。
それにオレも――
なんだか、モヤッとしてる。さっきから。
大家さんに腹が立ってるとか、そういうのとは別だ。
なんだろう? なにか、大事なコトを忘れているような。
そんな。




