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透明な子供 9

Invisible children 9



 海まで、走りに行こうかな――


 なんて、そんなコトを思いつつも、無精して寝坊をした土曜日。

 蒼は突然に目が覚めた。

 衝撃、といっていいほどの物音――いや、怒号のせいで。


 マンションの廊下からだった。

 驚いた。

 いくら風俗街に近い立地とはいえ、引っ越して半年以上。こんなコトは初めての経験だった。


 慌てて飛び起き、玄関に向かう。

 男が、隣の部屋のドアを叩き、蹴り、怒声を浴びせている。

 イオの事務所だ――


「おい、出てこいや!」

 猛烈な大声だった。

 壁にぶつかり反響して、その場を埋め尽くすような。


 ただ声量がある、というだけでなく――威圧的で、人を脅かすにはどうすればいいのか、完全に知り尽くしている。

 そんな口調、そんな声音だと、蒼は感じた。


「いるんだろうが、ふざけやがって! テメェ、ひとの女にちょっかいかけて、ただで済むと思ってんのか!」


 開けろって言ってんだ!


 ドスッと、重い音。

 このままじゃ、ドアがたわむ。

 蒼がそう思った瞬間、扉が開けられた。


「静かにしてください」

 イオが、姿を現す。


「そんな口、きける分際かお前! マリカをどこへやった! あぁ? いるんだろうが!」


 あ、この男、マリカさんの――ヤクザとつながってるDV夫か。


 それほど大柄な男ではなかった。

 ジャケットに色物のシャツ。特別にひどい身なりでも、派手なワケでもない。


 けれど、どうしようもなく、なにかが「ずれて」いる――


 だらしない? いや。そうじゃなくて。「違う」んだ。

 「普通」と違う。


 洗濯の行き届いていない袖口のほつれ。

 サイズの合っていない上着。

 膝の抜けたスラックス。

 形だけは髭をあたっているが、よく見れば、ひどく雑な剃りあとに白い石鹸が残っている。


 マズい。このひと、イオさんをマリカさんの「相手」だと、勘違いしてるんだ。

 どうしよう。

 警察を呼んだ方が――


「マリカさんは、ここにはいません。お帰りください」

 淡々と応じるイオに、男がつかみかかる。


 危ない――

 すんでのところで、イオがその手を振り払った。

 男の指先が、イオのシャツをかすめ、はずみでボタンが引きちぎれた。


 急いで身支度をしたからなのだろう、シャツの下は素肌だった。

 はだけた前立ての隙間から、イオの胸元のタトゥーがあらわになる。

 

 墨一色。肌を埋め尽くす、緻密に渦を巻く文様。

 圧倒的なそのさまに怯んで、男が一瞬声を無くした。


 だが、それで少しは正気を取り戻したのか、男は、扉に掲げられた事務所の看板に目をとめる。


「なんだ、代書屋か? ああ、そうか。お前、マリカのガキのビザを処理したヤツだな」

 

 「代書屋」という部分に、男はこの上ない蔑みの色を滲ませる。

 それがどうにも、蒼の気持ちを逆なでした。

 腹が立って仕方がなくて、何かひとこと言ってやろうと、蒼が一歩近づいた瞬間。


「いい加減、もう、やめてくれないか」と、イオが吐き捨てた。


 低い声。

 だがそこに込められていたのは静かな――静かすぎる怒りだった。


 男が鋭く舌打ちをする。

 イオへの敵意は、少しも薄れていないように見えた。


「イオさん!」

 

 思わず、蒼が声を掛ける。

 男が蒼を振り返った。

 

「なんだぁ、オマエ」

 押し殺してはいるが、とてつもなく殺気だった声で、男が蒼に絡み始めた。


「あ? お前か? 俺のオンナ孕ませたのは? こんなガキの分際でナメた真似しやがって、このクソが……っ」


 激烈な怒号。

 言い終わるか終わらないかのタイミングで、蒼の耳たぶギリギリの場所に拳が撃ち込まれた。

 

 体格に見合わぬ、重いパンチだった。

 大人になってから、ケンカなどほとんどしたことのない蒼にすら、その威力はありありと分かった。

 防御のため、とっさに上げた蒼の右手首が、男に掴まれる。

 

 そして続けざまに、もう一発。

 振りかぶられる拳。


 あ、来る。

 そう分かっているのに。近づいてくる拳を、しっかりと視野に捉えているのに。

 蒼の身体は凍りつく。声すら出せなかった。


 ああ、本当の暴力って。なによりも先に、言葉を奪うんだな――

 そんな風に、蒼はマリカの恐怖を思い知る。


 すると大きな掌が、蒼の顔面すれすれで男の拳を掴み取った。


「この人に手を出したら……ただじゃおかない」

 

 男の背後には、そびえたつ崖のようにイオが佇んでいた。

 イオは蒼の手首から男の指を引きはがし、その手も拘束する。

 男は、ほんのわずかに身じろぎすることすらできなくなった。


「あなたは愚かです」

 青白いほどに静かな怒りを燃え立たせ、イオが言う。


「暴力と恐怖で、人は簡単に支配できます。でも」

 

 イオさん――


「そんなものでは、自分の強さを証明などできません。自分の存在を正当化することもできません。強さは人を支配するためではなく、人を助けるためのものです」


 イオの長い指に、ギリギリと力が込められていく。

 痛みに歪む男の顔。

 恐ろしいまでの激痛が声さえも奪ってしまうのか。

 男のくちびるは、パクパクと無音に動くだけだった。


 あ、折れる――

 本能的に、蒼はそれを感じた。


「ダメ! イオさん……」


 呼びかけに応じるかのように、イオの視線が蒼へと動く。


「こういう人間はね、蒼くん。『暴力さえ身にまとえば、誰も自分を止められない』と。そう思っているんです。僕はね、それが一番許せないんだよ」


 ああ、イオさんの怒りって。

 こんなにも静かで、こんなにも深くて。こんなにも冷たいんだ。


 そしてこんなにも――


 すると、誰かが呼んだのだろう、パトカーのサイレンが近づいてきた。

 陶然とイオを見上げていた蒼が、ハッと我に返る。


「イオさん、それ以上はダメ! 緩めて。指を緩めてください。お願いします」


 そう伝えながら、蒼はひたすらまっすぐに、イオの瞳の奥を見つめ続けた。





 騒いで暴れた「マリカの夫」は警察に連行された。


 イオと蒼も、警官から、ひととおりの事情聴取をされる。


「大丈夫ですか、ケガはありませんでしたか? ああ、ドアは……ちょっと傷ついちゃってますね。被害届の方、出しますか」


 まあ、脅迫罪……の範疇に入らないこともないですし。

 やってきた警察官は、そこはかとなく歯切れの悪い感じだった。

 イオは「今回は、届を出しません」とだけ応じる。


「ただ今後、あの男の配偶者に身の危険が及ぶ可能性が高いです。まだ、居所は突き止められていないようですが、念のため所管の警察署の生活安全課にDV支援措置申出などはするつもりです」

 最後にイオはこう言い足した。


 警官とパトカーが去っていく。

 部屋の空気がシン、と静まった。これまでの騒ぎが嘘のように。


 イオが出してくれていた冷水のグラス。

 蒼はそれを、両手で包み込むようにして持つ。

 飲むタイミングを失っていて、もう氷はとけかけていた。


「……あの人にいきなり怒鳴られて、身体が動かなくなりました。飛び込み台に立った時みたいに。ホント、情けないくらい」


「蒼くん……」


「でも、マリカさんが……これまでどれほど、自分の『声』を奪われてきたか。また少し、分かった気がします」


「ごめん、蒼くん」「え?」


「暴力による支配について、彼を諭すようなことを言いながら、僕も君の前で暴力をふるったね」


「……イオさんが怒ったところ、初めて見ました」


 蒼は笑顔を作ろうとして、少しだけ失敗する。


「本当にごめん。でも、蒼くんに手を出そうとしたことだけは、どうしても見過せなくて」


「不思議なんだけど、イオさんの怒りは、怖くなかったです」


 そう。あれはまるで静かに燃える炎のようだった。


「でもあのまま、あの人の手の骨、折るんじゃないかって、ちょっと心配になっちゃいましたけどね」


 イオがかすかに眉を上げる。そしてごく真剣なまなざしのまま、

「蒼くんが声を掛けてくれたから。冷静になれた」と呟いた。


 蒼の指がグラスの表面をなぞる。

 そこにはもう、冷たさはほとんどなかった。


「『ただじゃおかない』って、そう言ってくれて……なんかオレ、嬉しかったです」


「そりゃ、大事な仲間に手を出されたから。当然だ」


 大事な……仲間。

 蒼はその言葉を、じんわりと噛み締める。


 そんな蒼を見つめ、ふわりと目を細めると、イオはスマートフォンを取り出した。


「さっき、マリカさんの離婚を担当してる弁護士にメールをしたんだ」

「ああ、イオさんの知り合いっていう……」


「彼ね、マリカさんの代理で夫と面談したとき、乱暴されて、書類の一部を奪われたんだそうだ」

「え!」

「幸い、マリカさんたちの身元が分かるものは含まれていなかったようなんだけどね。どうやら、うちの事務所の住所が書かれたものが混じっていたみたいだ」


「それで、ここに……マリカさんたち、ホントに大丈夫かな」


「うん。居所さえ隠し通せればね。弁護士には当分の間、マリカさんには直接会わないよう、釘を刺しておいたから」


「あ、イオさん。さっき言ってた『DV支援なんとか』……って?」


「ああ、『DV支援措置』のことだね。警察にDVを届けると、住民票とか戸籍とかを加害者に触れさせないようにできる仕組みがあるんだよ。もちろん、それだけで安心とは言えないんだけど」


 そしてイオが、スマホの画面から目を離す。


「蒼くん……手首、掴まれたところ、赤くなってるね」


「そうですか? 別にぜんぜん、大丈夫ですよ。こんなの」


「ダメだよ。冷やしておこう」

 言ってイオは救急箱を取りに立ち上がった。


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