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透明な子供 8

Invisible children 8



 残念ながら、「リオがジョンの子である」とする家裁での認知手続には、それなりに時間がかかった。

 延長された短期ビザにも、さほど余裕はない。


「もう、審判が出るのを待ってはいられない」

 イオはジョンたちのDNA鑑定を急ぐことにする。

 検査で親子関係を確認し、それを根拠に定住者ビザを申請するという風に、方針転換を図った。

 時折、廊下で顔を合わせる蒼には、そんな動きについて、ぽつりぽつりと話したりしていた。

 

「じゃあ、マリカさんたち、また入管に行くんですか」

 蒼がイオに尋ねる。

「オレ……一緒に行ったら、ダメですかね」


 イオは正直驚いた。

 もちろん入管の面談には、付き添いが認められている。

 だが普通は、家族や、イオのように手続きを支援する行政書士や通訳の場合がほとんどだ。


「ダメじゃないけど……蒼くん。どうしてだい? それに面談は平日だよ」


 「どうして」

 そう訊ねられて、蒼は、そんなコトを口走ってしまった理由を反芻する。


 分からない。自分でも「なんで?」と思う。でもだからこそ――

 「その理由」を見つけたかったのかもしれない。リオを見かけた日からずっと。


 濡れた服、黙って立ち尽くす小さな背中。

 あのとき――気づいて、声をかけて、家まで連れて帰った。

 大したことはしていない。ただほんの少し、指先を差し伸べただけ。

 でもオレの中では、たぶん、何かが変わっていた。


 「誰かを助けたい」なんて。

 そんなのは「おこがましい」コトだって、もう十分に分かっている。

 

 ただ――気になって。

 気づいてしまったから、放っておけなくて。


 そして今、思うのは。

 マリカさんも、きっと「あのときの子(リオ)」と同じだったってコト。そして、オレも。

 困っているのに、声を出せない。

 

 だから気づいたときには、オレはもう、その日の半休を申請していた。


「どうして?」 

 理由なんて。そんなもの。

 いま、マリカさんたちの傍にいられるなら――それでいいと思えるから。


 神奈川の入管は、本牧を越えたところにある。

 根岸の埋め立て地の先の先、海辺ギリギリのところ。


「あの役所。駅からが、本当に遠いんだよね……」


 イオの口調が、少しだけ愚痴っぽい。

 蒼はイオに連れられて、近所のカーシェアの駐車場へと歩いていく。


「どうぞ」と、助手席のドアを開けられた。

 蒼は恐縮しながら、ヤリスに乗り込む。


「横浜支局は収容所も併設しているから……辺鄙な場所にあるのはまあ、分かるんだけどね」

 シートベルトを締めながら、イオがひとりごとのように口にする。


「途中でマリカさんたちを拾っていくからね」とイオ。


 そして、どの駅からもかなり歩くような内陸の住宅地に着く。

 ジョンとマリカ、リオが乗り込んできた。


 リオは蒼に会えて大喜びだ。

 はしゃぐリオが、蒼に駄菓子やおもちゃを手渡して、車内がなんとなく、行楽ムードに転じていく。

 だが、入管が近づくにつれ、マリカの頬が固くこわばっていく様子は、ルームミラーを確かめるまでもなく、助手席の蒼にも、ひしひしと感じ取れた。


  



 DNA鑑定の結果は、マリカ、リオ、ジョンの血縁関係を完璧に証明していた――と、蒼もそう聞いていた。

 だから、今日の面談は「どちらかといえば、形式だけのコトなんだろうな」などと想像していたのだ。


 だがやはり、そんなに「甘い」モノではないらしい。

「ふたりはタイで出会い、交際して妊娠した」

 その「嘘」について、マリカは、再度細かく質問されていた。


 面接官の口調は失礼でも高圧的でもなく、むしろとても丁寧だった。

 けれど、あまりにも丁寧で理路整然としているからこそ、何とも言えない不安感をかきたてられる。

 そんな印象を、蒼は抱いた。


 細かな質問が続く。

 次第にまごつき、うろたえて、マリカはついに、何も言えなくなった。


 孤立が深まる空気。

 そのいたたまれなさに、蒼の胸すら軋みそうになった。


 それでも質問は繰り返される。日本での滞在時期とタイへの帰国時期。

 ジョンと出会った年。妊娠を知った時期。

 整合性を突き詰める質問。

 こらえきれず、マリカが言い逃れのウソを口にし始めた。


 蒼が腰を浮かせる。

 思わず「マリカさん……っ」と呼びかけてしまった。

 ただ静かに見守り続けていたイオが、掌でそっと蒼を制する。


 蒼は詫びるように、イオへと目線を向けた。

 そしてまたマリカを見ると、

「オレ、マリカさんを信じてますから」とだけ告げて、ふたたび腰を下ろす。


 マリカが、冷静さを取り戻した。


 やがて面接が終わる。

 帰りの車内は静かだった。

 日はもう傾き始めていて、リオは眠っている。

 先にマリカたちの家に寄ってから、イオは事務所へと車を進めた。


 入管を出てからずっと、イオと蒼の間に言葉はなかった。


「イオさん……」


 助手席でフロントガラスを見つめたまま、蒼がついに呼びかける。 


「入管にはマリカさんの『夫のこと』、DVのコト……全然言ってなかったんですね。どうして」


 ハンドルを握るイオは、何も答えなかった。


「……ごめんなさい。プロ相手にオレ、何言ってんだろ」

 

 するとイオが、微笑んで首を横に振る。


「蒼くんの言うとおりだ。その『匙加減』はね、正直……思案のしどころで。難しかった。どうしようかと、僕も何度も迷ったよ」


「ちが、イオさん。オレは……そうじゃなくって。イオさんに文句とかを言いたかったんじゃなくて」


「分かってる。でも、今になって思えば、蒼くんの言うとおりだったかもしれないって、そうも思うから」


 ほんとうに、今日のマリカさんは気の毒すぎたね……と、イオが呟きで言い足す。


「スイマセン」


「謝らないで、蒼くん。いずれにせよ、蒼くんのおかげだよ」


「……え?」「マリカさんが、ちゃんと面接を終えられたのは」


 赤信号。車が止まる。

 イオが蒼へと振り向いた。そして、


「ありがとう。一緒に来てくれて」と、ゆっくり蒼に頭を下げた。


 信号が変わる。

 アクセルを踏み込むイオの太ももの動き。


「やっぱり……マリカさんは、今の夫とは、きちんと離婚した方がいいね」

 ウィンカーを出し、軽く左右を確認しながらイオが言った。


「できる……んですか? だって」


 何度頼んでも離婚に応じようとしない。嫉妬に狂ってて。居所を見つけ出し、ジョンさんを殺すとか言い出す。

 そんな、もうどうしようもなく「ヤバそうなヤツ」なのに? どうやって。


「『できるできない』じゃなくて。『そうしないと』。大事な『本当』を護り続けられない」


 そう告げて、イオがまた蒼を振り返る。


「そうだろう? 蒼くん」


 イオのまっすぐな視線を受け止めて。

 それがすこしだけ面はゆくて、蒼はくしゃりと前髪をかき上げた。


「離婚する場合って……結局は、裁判とかになるんですか?」

 そう蒼が訊ねれば、


「うん、協議離婚や調停では、おそらく片付かないだろうね。なにせ相手が……」

 と、歯切れ悪くイオが応じる。

 

「そうなったら、イオさんが担当するんですか?」


「うーん」イオが首を捻る。


 もし今、ハンドルを握っていなかったら、イオさんはきっと腕組みしてるだろうなと。

 蒼はそんなコトを想像した。


「さすがに、僕では引き受けられないかな。弁護士じゃないとね……知り合いに相談してみようかと思っているよ」


 言いながら、イオが軽く左腕を上げ、髪を撫でる。

 シャツの手首がずれ上がり、前腕部のタトゥーが垣間見えた。

 

 何度見ても、視線が吸い寄せられてしまう――複雑な文様。


 その後のイオは、いつもより、すこしだけ饒舌だった。


「相手がDVだとか、そんな面倒な側面がある離婚訴訟はね。大変な割に依頼料もそう多くないから、普通の弁護士はなかなか引き受けたがらないんだよ。弁護士会の会費だけでも相当かかるって聞くし。彼ら、事務所を持つだけで費用がかさむ人たちだからね」


「へぇ……」と、蒼が瞬く。


 そうか、弁護士って言っても「正義の味方」とは限らないんだよな、やっぱり。

 「悪徳弁護士」まではいかなくとも、お金とかしがらみとか、色々あるんだろう。

 

「だから」

 イオが溜息を洩らす。


「越権行為と知りつつ、思わず手を貸してしまう行政書士も出てしまう……」


 その声と横顔に、ふと蒼の胸が切なく疼いた。

 

 そしてその時はまだ――


 マリカと夫の離婚話が、自分たちの身に何を引き起こすのか。

 蒼は、なにひとつとして想像もしていなかった。


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