声なき紙片 2
Silent Note 2
イオが立ち上がり壁際に向かう。
インターフォンの受話器を取ると、モニターを見た。
「おや、リアさん」
すこし驚いたような、でも穏やかな声でイオは言う。
事務所の玄関ドアを開けるイオ。
その大きな背中を――蒼はぼんやりと一人掛けソファーから眺めやった。
女性が入ってくる。
日本人じゃないな。東南アジアの人……かな?
年は、そんなに若くない……と思う。
三十……いや、四十代? ひょっとして四十後半なのか。
「そういえば、リアさん?」
イオがリアの目を見て語りかける。
「マンションの玄関のオートロックは呼びだされなかった気がします」
「うん、そうね。宅急便のひといたから、一緒に入ってきちゃったよ」
見上げるリア。
身長差がありすぎて、どちらも大変そうだなと、蒼は思う。
って、たぶんこの人……依頼人とかだよな。
「イオさん、オレ、とりあえず失礼しま……」
「まってまって、おにいさん!」
底抜けに明るい調子でリアが蒼を呼び止めた。
「大丈夫、わたし今日、すぐ帰るから。イオせんせいに、お金はらいに来ただけ」
そしてイオに白い封筒を手渡すと、面食らう蒼の目の前を横切って、2・5人掛けソファーにドサリと座る。
イオはスチール本棚を背にした事務机へと向かっていった。
本棚の横にドアがあって、おそらくその奥が、住居兼用の「居室」部分になっているのだろうと、蒼は想像している。実はまだ見たことないのだが。
「イオせんせ、今回はホントどうもありがと」
リアが、白い大きなビニール袋を掲げて見せた。
そしてガサガサとその中身を取り出し、ソファーテーブルの上に並べ始める。
スナック菓子とナッツを混ぜ合わせたような袋菓子だった。
それも何袋も――
「ありがとう。リアさん。でもいいんですよ。そんなお気遣いは」
イオが、すこしだけ困り顔で微笑む。
「今、きちんと料金もいただいたんですから」と、さっき渡された封筒を掲げてみせた。
「だってイオせんせいには、いっぱい迷惑かけたから」
言いながら、蒼の前に座るリアが身を乗り出す。
今日のイオは、白いシャツにネクタイ姿だ。
ってか。
「あのサイズ」のワイシャツって、イオさん、一体どこで買ってるんだろう――
蒼は、ふとそんなことが気になる。
店とか、聞いたら教えてくれるかな――
人生のほとんどを競泳選手として過ごしてきた蒼だった。
特に肩周りの筋肉は、独特に発達しているのだ。
すると、リアがいきなり、
「ほら! おにいさんも、どうぞ食べて」と、蒼の肩を叩いた。
そして、
「ところで、おにいさん、誰? 事務所のひと?」と訊いてくる。
え? 事務所のひとって。
いやいや、そんなワケないでしょう。なんでそうなる!?
そんな「ちがうちがう」が言葉にならぬまま、蒼は両手と頭を盛大に横に振る。
それを微笑んで見やりながら、イオが、
「おとなりさんですよ。蒼くんです」と助け船を出した。
へえ、アオくんっていうの? と、リアが繰り返す。
「カワイイネ。あなたイオせんせとおんなじで、大きいからね、事務所のひとって思ったヨ」
「いや、さすがにオレは、イオさんほど大きくは……」
なにそれ、どういう理屈だよ。
まあ、そりゃね。水泳選手でしたよ。ついこの前までは。
そうだったんだけどさ――
「あ、そうだ! オレも。イオさん。これ……実家から送ってきたんで、持ってきたんだった。あ、リアさんも、よかったらどうぞ」
言いながら、持ってきたエコバッグから眩しい色の「スダチ」を取り出し、テーブルに並べ始める。
――そうなんだよ、オレ。
「おすそ分け」を口実に、郵便受けのところで拾った「あの紙」の相談にきたんだった。
蒼はふと、イオを振り返る。
イオは腕組みをして蒼たちを見つめていた。
シャツの袖口から上腕のタトゥーが、ほんの少しだけのぞいている。
それを――
イオとイオのタトゥーを、蒼が知ったのは、ほんの偶然からだった。
――あの日。
海水に濡れた白いシャツが、肌に貼りついて。
イオが身体に纏う複雑な模様を浮かび上がらせていた。
肩から胸元。
そして前腕部も、手首まで埋め尽くすようなタトゥー。
だがそれは、蒼の知っている、いわゆる「入れ墨」とは全然違っていた。
墨一色。太い線、細い線。波模様。
肌の上をびっしりと埋め尽くすような、曲線と直線の幾何学的な連なり。
ただの「こけおどし」や「ファッション」ではない。
そんな風に、蒼は感じた。
第一、これだけ大量に「彫る」ってさ。どれだけ時間かかるんだよ。
それが何を意味するのかとか、なんていう文様なのかとかは分からない。
圧倒されたし、少し怖くもあった。
しいて言葉を探すなら、記憶のような、祈りのような、そんな何かだと。
あの時、オレはそう思った――
イオがふと、
「今日はウチに、いろんなモノがやってくるね」と口ずさむ。
それから、蒼と目線を合わせて微笑して、
「そういう『星回り』なのかな」と、呟くように続けた。
含みがあるようなないような。
そんな穏やかな言葉。
バリバリと派手な音をさせ、リアが盛大にスナック菓子の袋を開け始める。
「ほら、アオくんも、食べて食べて。ね?」
やたらと強く勧められ、蒼は若干困惑しながら、ナッツの菓子へと手を伸ばす。
ナッツを齧りながら、リアが言う。
「ほんと離婚するの、たいへんだったよ」
――え?
離婚ってそれ、弁護士とかのシゴトじゃないの?
ええっと、イオさんって行政書士……とか司法書士なんだよな。
待って待って。そもそもオレ、部外者なんだけど。
こんなプライベート話、聞いてて大丈夫なのかよ。
「もちろん、『日本』の離婚はぜんぜん大丈夫。とっても簡単。紙切れ一枚」
そう言ってまたナッツを齧ると、リアは深々と息を吸い、
「大変なのは、フィリピンの離婚ネ……」と吐き出した。
それがあまりにも「途方に暮れた」といった様子だったから、蒼も思わず、
「え、どんな風に大変……なんすか」
と、口をはさんでしまった。
「『大変』はたいへんよ」と、なんだか答えにならない「答え」が返ってくる。
そしてリアは、
「フィリピンではね、リコンできないから」と続けた。
「え、離婚できない? 『できない』とか、そんなんあるんですか」
それマジか……?
「法律でダメって決まってる。死ぬまでリコン、ダメ」
蒼は思わず、イオの方を振り返った。
イオは蒼の視線を受け止めると、ごくごく小さく頷いて見せる。
「でもね、やっとできたよ。ホント、イオせんせいのおかげ」
リアが、蒼の頭越しにイオを見つめる。
「フィリピンの弁護士はひどいよ。イオせんせいがいなかったら、どうにもならなかったね」
そう言って、リアは拝むように両手を合わせた。
事務所にシンと沈黙が落ちる。
その空気の色に、なんとなく、蒼が居心地の悪さを覚え始めたとき、リアがガバリと立ち上がった。
「あ、そうだ。ワタシもうシゴト行かないと!」
いそいそと支度を整え、スダチもいくつかバッグに詰めて、リアが玄関へと歩き始める。
イオも立ち上がると、その後を追った。
玄関先で、リアがイオに何かを語りかける。
それは日本語でも英語でもない言葉だった。
イオは頷いて、同じように日本語ではない何語かで応じる。
リアが去った。イオが玄関から戻ってくる。
そしてゆっくりと、蒼の前のソファーに腰を下ろした。
「……せっかくだから、僕も、ちょっと貰ってみようかな」
イオが、袋菓子に指を伸ばす。
近くで見ると、あらためて大きな手だなと、蒼は思った。
そして長い指。キレイな爪の形。
「ちょっと、しょっぱいね」と言いながら、イオはナッツを咀嚼している。
嚥下。上下に動くのどぼとけ。
その下の――タトゥーを、蒼は想像してしまう。
「なに? 蒼くん、どうかした?」
「いや、別になんでもないです。っていうか、今日、土曜日なのに、事務所開いてるんですね」
「うん」イオが微笑んで頷いた。
「うちはね、特に休みの日って決めてないから」
え……休みなし?
「うん、開業したときにはさ『日曜・木曜定休日』ってしようかなって思ってたんだけど」
「けど?」
「どうしても、土日じゃないと時間が取れない人もいるからね」
だから。何?
「とはいえ、役場は平日しか開いていないから。間に合わなくて木曜日に書類を取りに行くこともあるし。だったら……まあ、ことさら? 『定休日』なんて作らなくてもいいのかなって」
「なんだって……そんな『ひとりブラック企業』してるんですか、イオさん」
「え?」と、イオが目を見開く。
「僕、ブラック企業かな?」
大真面目にそう訊ね返しながらも、イオの瞳はどこか笑っているような色だった。
「いやまあ、それはなんというか……」
うん、それは違う。違った。
やっぱり「ブラック」とかっていうのとは、全然違う。
「過労」とか「鬱オーラ」とか。そういうの、皆無なんだもん、この人って。
どっちかというと、なんだろう。
「のびのび」? っていうか――そう、癒し系。ずっとオレ、そう思ってたかも。
なんだろう。イオさんにはさ――
「世のため人のため」みたいな「意識高い系」とか「人権派を気取る」みたいなところは、全然ないんだ。
「日本やら世界やらを救うぞ」「不正をただすぞ」みたいな? そんな「気負い」みたいなものは、微塵も感じられない。
「じゃあ、一体なんなんだ?」って言われれば、正直、オレには分からない。
ただ不思議。不思議な感じ。
でも。なんかこう、もし「本気」出したりしたら?
イオさん、世界とかも全然、救えちゃいそうな気もするんだよな、オレ。
なんでだろ――