透明な子供 4
Invisible children 4
LIMEは交換していた。
だが、イオの方から蒼へとメッセージが来ることは、これまでほとんどなかった。
隣の部屋に住んでいる者同士、廊下やエレベーターで、時折、顔を合わす。
臨海パークの前の海辺で、ハンドパンを奏でるイオに出会ったり――特に約束をすることもなく、なんとなく顔を合わせて話をしたり、時には食事をしたりしていた。
だから金曜の夕方、イオからの通知をスマホに見つけたとき、蒼はすこしだけ驚いた。
「明日、午後にマリカさんが来ます。リオくんが蒼くんに、とっても会いたがっているそう。もし時間があったら、うちに来てくれないかな」
そんな内容だった。
「もちろん行きますよ」
即答した。
リオのことは、ずっと気にかかっていたから。
*
「あおあお!」
玄関ドアから滑り入り、トタトタと駆け寄ってくる足音。
「おう、リオ、元気だったか?」
蒼はしゃがんでリオを迎える。
その後ろから、会釈をしながらマリカが入ってきた。
表情は、以前よりも暗いものだった。
リオのことなど、解決しなくてはならない大きな問題を抱えているのだ。
「元気溌剌」というワケにはいかないだろう。だがそれにしても――
蒼は、マリカの眼窩の陰鬱な影が気にかかる。
「マリカさん。持ってきてほしいと、お願いしていた書類は?」
リオたちを出迎えるなり、イオが切り出した。
その口ぶりがあまりに単刀直入すぎて、蒼は違和感しか覚えない。
ソファーに座るように勧めることも、お茶を淹れようかと提案することもない。
なにより――
いつものイオさんだったら、まずは、「こんにちは」と、挨拶をして微笑むはずなのに。
視線と手振りで、イオから着座を促され、マリカがおずおずとソファーに腰を下ろす。
蒼はリオを肩車して、窓辺へと向かった。
カバンから取り出した書類を、マリカがソファーテーブルに並べていく。
イオはそれらを順に手に取って、視線を走らせた。
「……マリカさん、自分のパスポートは?」
「あ……ハイ、これです」
「住民票は?」
「……ごめんなさい、区役所、いってないです。リオ、先週いっぱい熱が出て、大変でした」
「お前、病気してたの? リオ。大丈夫か?」
肩車からリオを下ろしながら、蒼が訊ねる。
たぶんリオは、蒼の言葉が分かっていない。
だが、心配されていることだけは感じ取ったのだろう。蒼を見つめて、ただにっこりと笑った。
そしてたすき掛けにした小さなショルダーバッグから、お絵描き帳を取り出す。
描いてきた絵を、蒼に見せたいようだった。
蒼はイオの事務椅子に座り、膝の上にリオを載せる。
「熱が出たとは、大変でしたね」
イオの声が、ふわりと和らいだ。そして「病院へは、行きましたか?」と、続けざまに問う。
マリカは答えなかった。
リオの絵を見ながら、蒼はふたりの会話に耳を澄ませている。
イオはただ黙り続けていた。
「マリカが応じるまで一歩も引く気はない」
沈黙が、そんな意思の表明でもあるかのように。
そして、ついにマリカが、口を開く。「いってません」と。
「行きたかったですか?」
イオがさらに問い返した。マリカは、短く呻いて黙り込む。
「……あの、ちょっと、イオさん」
たまりかねた蒼が口を差しはさんだ瞬間、
「行きたくても『行けなかった』んですよね?」と、イオが続けた。
――行けなかった? え? なんで。
「住民票も……『取りに行けなかった』のではなく、そもそも『ない』のでしょう?」
「あり、ます……っ」
「そうですか、あなたとジョンさんのは、あるんですね」
マリカがまた、困惑して黙り込んだ。
「では、これから一緒に取りに行きましょうか。リオくんの出生届の写しは無理でも、住民票の写しなら、土休日でも行政サービスコーナーで取れますし」
イオが立ち上がる。
見上げる背の高さ。分厚い肩。
座面の低いソファーに座るマリカが、ひどく小さい。
膝の上のリオに「絵を見て」と袖を引っ張られながらも、蒼は大きなイオの背中から目が離せなかった。
マリカは立ち上がらない。
空気は、どうしようもなくいたたまれなかった。
蒼は祈るような、そして憤るような気持ちで、イオを見つめ続ける。
すると、蒼の気を引きたくて仕方がないリオが、ついに「わあっ」と大声を上げた。
まさに「火がついたように」泣き叫び始める。
身じろいで暴れまわり、お絵描き帳を投げ捨てた。はずみで、イオの机のペン立てが倒れる。
マリカが駆け寄ってきた。
蒼の膝の上のリオを抱き取って、タイ語と日本語であやし、たしなめ、そして宥める。
リオの癇癪はしばらくおさまらなかった。
それでも、マリカがひたすらにあやし続けていると、リオはウトウトとまどろみだした。
「あちらで寝かせておきましょう」
イオが静かに居室のドアを開け、マリカを案内する。
チラッと見えた室内には、ひどく几帳面に整えられたベッドがあった。
なぜだか、自分が無作法なことをしてしまった気がして、蒼は急いで視線をそらす。
「座ってください」
イオがマリカに言う。
ふたりはまた、ソファーに腰を下ろした。
蒼は、イオの事務椅子に座ったまま動けない。
「住民票は『必要』ですよ」
イオが言った。
マリカは静かに目をそらす。
「リオくんは、また病気をするかもしれない。ケガをすることだってあるかもしれない。予防接種もしておかないと」
あ、それって……イオさんが言いたいことって――
一瞬にして、蒼の視界がクリアになった。
つまり、リオは――
「リオくんは、いま、日本には存在していない」
イオが言い切った。
「入国した記録はある。短期のビザはある。でも日本に住む両親の『子』としてのリオくんは、存在していない。そうですよね、マリカさん」
日本では存在しない。
つまり「出生届」が出されてないままなんだ。マリカさんとジョンさんの子供として。
「このままでは、すべての保護からリオくんは取りこぼされていく。まずはリオくんの出生届を出しましょうか? マリカさん。ジョンさんと結婚するかどうかは別としても、リオくんを、ふたりの子供として届けないと」
そんなイオの問いかけに、マリカは大きくかぶりを振るだけだった。
あの時のリオと同じだ――
雨の日のリオと。
マリカさんも怯えている。
誰かに気づいてほしい。でも、言えない。
ねえ、イオさんにだって、とっくに分かってたよね。だってさ、カオソーイ食べたときに、言ってた。
すごく怖くて「本当を守ってる」んだ――って。
その意味、オレは、まだよく分からないけど。でも。
マリカさんを、リオを。
助けてあげられるよね。イオさん?
だって――
このままじゃリオは、誰からも見つけてもらえない。「透明人間」になっちゃうだろう?
「マリカさん。『あなた』の住民票は、今、どこにあるんですか? 本当は横浜にはない。そうでしょう?」
イオの声は、追い詰めるように硬く冷たい。
けれども、蒼は気づく。
その冷徹な響きの裏に、懸命に押し殺した感情が隠されていることに。
やさしさと穏やかさを、故意に抑えているのだということに。
だから蒼も、ただ待った。
やりきれないような沈黙を、ただ堪えて。
イオを――信じて。
けれども、イオはとうとう、諦めたように溜息を絞り出した。
「分かりました。マリカさんのご希望どおり、このまま、リオくんの定住者ビザの申請を進めましょう。本当なら提出できた方がよかったジョンさんの古いパスポートなどについては、僕の方で上申書をつけておきます。やるだけはやってみますよ。でも」
イオがそこで息をつく。
ゆっくりと腕組みをして、今一度マリカを見つめた。
「申請が却下されたとして、再申請を繰り返すことは、正直いいことではありません。出し直すたびに審査が厳しくなるだけです。この状態での申請が、すんなり通るとは思えませんし、許可が出るとは約束できません。それでも、このまま申請を行って、いいんですね」
イオのそんな視線を受け止めることを、マリカの目は、しばらく迷ってさまよって――
そしてついに、イオを見て、コクリとひとつ頷いた。
「……おねがい、します」
震える声で、そう口にしたマリカの瞳は、ただ縋るように揺らめいていた。
TIPS
■定住者ビザ その外国人の個々の判断して与えられるビザ。就労などにも制限がない。リオの場合は、「永住者が扶養している実の子供(ただし未成年で未婚の場合のみ)」という理由で認められるはずです(普通なら)。
■永住権者の子供は、日本で生まれた場合は「出生による永住許可」が与えられるので、何の心配もなく日本に住めます。
■外国で生まれた永住権者の子供は、「出生による永住許可」は得られません。その代わりに定住者ビザというものが与えられる可能性があります。この話のリオはこのケースです。
■上申書 法的な書類ではなく、申請に際して状況を細かく説明し、入管に理解と協力を求めるためのお願い文書。色々不備があるけどよろしくね、という嘆願書のようなもの。
このお話はフィクションです。各種制度については、正確さの保証はされていません。
実際の外国人滞在関係手続はしばしば制度改正が行われます。現状を必ずしも反映はしていません。