透明な子供 3
Invisible children 3
「……あの、イオさん」
感情的にならないようにと気をつけて。
でも、すこしだけ問い詰めるような口調になりながら、蒼は、イオを見上げてこう続ける。
「依頼、引き受け……ないんですか。マリカさんもリオも困ってますよね」
「うん」と。
蒼を振り向かないまま、イオは言った。
「マリカさんは『困っている』と僕も思う……それは『本当』だ」
「じゃあ……どうして? イオさん、なんとなく今日、変な感じです」
「……たくさんの『紙』が、ここにあるね」
さっき取ったコピー。机の上の紙束を、ガサリと掴んでイオが呟く。
「在留カード。なんとか証明書、なんとかかんとか査証……どれもこれも堅苦しくてこむずかしくて、大事なことがたくさん書いてありそうな『紙』が」
「イオ……さん?」
「でも、ここに『書かれていない』コトもたくさんある」
書かれていない――コト。
「なんとなくね。僕は今回、そんな、書かれていないことばかりが気がかりなんだよ」
「それって、どんな……」
「うん。『それ』をね。もう少し良く見て、ハッキリ確かめたいんだ」
イオがデスク上に置いたままの、蒼のカップを手に取る。
蒼も、ソファーテーブルに残されたマリカやイオのカップを集めて、台所へと運んだ。
ありがとう、蒼くん――
シンクの前で口ずさむように言って、イオが続ける。
「言葉にしなかったという『不作為』が、罪に問われるときがある。でも黙るしかない……そんなコトもあるんだよね。困っているからこそ、どうしても『黙る』しかないってコトが。だからもし、そんな理由があるとしたら……僕は知らないといけない。そうでないと、結局は誰も助けられないから」
そしてイオは、床に散らばるリオの絵を一枚拾い上げる。
「この絵、何が描いてあるんだろう。僕はどうも絵心がなくてね……よくわからないよ」
顎に指先をあて、真剣に悩んでいる様子のイオが、なんだかとても可笑しかった。だから、蒼は笑いながら、
「『かぁしゃん』と、リオと『かぁしゃん・かぁしゃん』を描いたみたいですよ。たぶん……『なんとかソーイ』ってのを食べてる絵みたい」と助け船を出した。
「ああ、『食べている』んだね。口からビームか何かを出してるのかと思ったよ」
「いや……イオさん、それは……」
「『なんとかソーイ』か。チェンマイ在住だったし、カオソーイかな。あれ美味しいんだよね。蒼くん、食べたコトある?」
「いや、ないです」
「じゃあ……食べにいってみないかい。駅向こうの浜橋商店街の方にね、本格的なのを出すお店があるんだよ」
ああ……なんだか、今すぐに食べたくなってきちゃったな。
イオが、そわそわと言う。
「蒼くん、お腹すいてない? これから行こう」
*
「カオソーイ」
壁に張られた紙に書かれたカタカナは、いまにも踊り出しそうな手書き文字で。
下に付されたタイ語も、小さい丸がいくつもあって波うっていて、さらに踊り出しそうだった。
紙は日に焼け、カラーペンで華やかに書かれていたであろう文字は、すっかりと色褪せているけれど。
麺料理が運ばれてきた。イオと蒼は、ふたり同時に箸を取る。
そしてすぐさま食べ始めた。
「へぇ……カレー味なんですね」
とろみのある温かいスープに麺を絡ませながら、蒼が言う。
「いや、これ、めっちゃ美味いですよ、イオさん」
「でしょう? 単純なカレー味ってだけじゃなくてさ……スパイスとココナツミルクの配合が絶妙なんだよ」
「あ。麺、揚げてるのと普通のと、二種類入ってる……」
「食感が楽しいよね」
「ライムと赤玉ねぎが、またいい感じです……ってか、ちょっと。量、小さくないですか」
「そうかもね、あちらでは、ちょっとずつ何度も手軽に食事するっていうから」
そんな話をしながらも、ふたりはあっという間にカオソーイを平らげた。
食後には、イオの「おすすめ」とのことで、蒼も「オレンジジュースコーヒー」を注文する。
その名のとおり、コーヒーにオレンジジュースが入っていた。
正直、びっくりする組み合わせだったが、オレンジの甘さと酸っぱさ、コーヒーの苦みが、こってりした麵料理の後の口によく合う。
いつの間にか、イオがまなざしを伏せていた。
またしても物憂い様子だ。
ああ――
やっぱりイオさん、どうしても、なにかが「気になって」るんだな。
蒼はそんな風に確信する。
「そうだ、さっきリオが言ってたんです。オレが『なんで絵の中に、お父さんいないの?』って訊いたとき」
「え?」
イオが顔を上げた。
「『ジョンジョンはいない』って。えっと、リオはお父さんのこと『ジョンジョン』って呼ぶみたいで……」
「いない……?」
「タイに、です……おばあちゃんの家には、ってことみたい」
「ああ、そうか。うん、お父さんのジョンさんは、リオくんが生まれると、すぐ日本に戻ったそうだからね」
「あと、写真……」
「え?」
「さっき、マリカさんが落とした写真を拾ったとき。三人で撮った写真が横浜のものばかりだったなって思って……お父さん、リオが生まれてすぐ日本に戻ったのなら納得です。あ、でも……他の写真も」
蒼が言いよどむ。
「なんだい? ほかの写真が、どうかしたのかい」と、イオが先を促した。
「いや、大したことじゃないと思うんですけど、マリカさんとリオのお父さんが二人で写った写真って、そういえば一枚もなかったから……まだお腹が大きい、リオが生まれる前の写真もいくつかあったけど、マリカさん、リオのおばあちゃんとだけ写ってて。『ジョンジョン』……とは、一緒の写真がないな、って」
でも、リオのお父さんの場合、ホテル・ニューグランドの前でキメキメでポーズ取ってる単独写真ならあったんですけどね――と。
蒼がちょっとふざけ気味に話を締めくくる。
けれどもイオは、急にフワフワと視線をさまよわせ始めた。
「え……っと、イオさん?」
蒼がおずおずと、イオの顔を覗き込んだ。
「ああ、そうか。そういうこと……なのか。うん、きっとそうなんだろう」
蒼の呼びかけには答えぬまま、イオが呟きを洩らす。
「問い詰めても、きっと言わない……いや、言えないんだ。よほどの事情なんだろうから」
「イオさん! ねえ、一体どうしたんです?」
少し強めに、蒼が訊ねる。「マリカさんが、なにかウソでもついてるとか、そういうことなんですか?」
「違う。違うよ、蒼くん」
イオがやっと、蒼と目を合わせた。
「『嘘をついてる』んじゃない……たぶん、怖くて、すごく怖くて『本当を守ってる』んだ」
「ほんとうを、守る?」
繰り返す蒼。
「ああ、そうだよ。それにもし、事態が僕の予想どおりだったとしたら、かなり良くない……」
そして、
「本当に、良くない」と、絞り出すように告げて、イオは深く溜息をついた。