すれ違う封書 5
unintended misdelivery 5
そして土曜日。
なぜか、早くに目が覚めた。思いつきで、蒼はまた海へと向かう。
臨海パーク前のプロムナード。
何人かのランナーが、蒼の目の前を駆け抜けていった。
ああ、そうか。
山下公園あたりから、ずっと海沿いを走ってこれるんだな――
階段に座ってくつろぐ人は、まだほとんどいない。
きっと今日も、昼間になれば、大勢の犬と飼い主がここを闊歩するんだろうけど。
早朝には、早朝の顔があるんだな。
そうだ、オレも走ってみるか。
そんなコトが、ふと頭に浮かんだ。
どうせトレーニングウェアに毛が生えたような恰好しかしてないし。
というか、あまり普段着は持っていない。
休日は練習やトレーニング。さもなければ「純粋な休養」にしか費やしていなかった。
まずは山下公園へと向かう。
大さん橋、赤レンガ倉庫を越えて、山下埠頭の方へと走っていく。
海風が心地いい。右手には昔の古い建物も見える。
そして気づけば、そこはもう山下公園だった。
スマホで確認すると、おおよそ二キロ弱といったところ。
「なんだ、結構近いじゃん」
ジョグでぐるりと公園内を回ってみた。
たくさんのバラが咲いている。ベイブリッジもよく見えた。
「初めて来たけど、たしかに、ロマンティックデートスポットだよな」
蒼が思わず呟く。
そして、
「じゃ、戻るか」と、海沿いの遊歩道へと駆け出し始めた。
そしてまた、臨海パークに戻って来る。
すっかりなまりまくっているかと思いきや、意外と身体は軽かった。
蒼は少しホッとする。
ふと、どこからともなく――
やわらかく震えるような音が聞こえてきた。
初めて、その音を聞いたときは少し驚いた。ひどく不思議な音色だったから。
でも――すごく美しいと感じた。
そして今は、それを奏でているのが誰なのかも、蒼はもう知っていた。
視界の左側。
一番下の海に近い階段に、男が座っている。
印象的なのは、その背筋だ。
まっすぐなのびやかさ。
すこし襟足が長めの黒髪は、うなじでキュッと一つ縛りにされていた。
その男性は、膝に乗せた「黒い何か」を指の腹でリズミカルに弾いている。
浅いドーム状の鉄板をふたつ合わせたような楽器――ハンドパン。
その表面を、十本の指や掌を使い、かろやかにタップしたり、軽くこすったりして音を出す。
それはいつ聴いても、あまりにも、はかないような音色で。
ズカズカと無神経に近づいていくのが、ひどくためらわれてしまう――
だから、蒼は少し離れた場所に佇む。
その姿に気づいたイオが顔を上げ、
「おや、また会ったね」と声を掛けた。
「ええ、また来ちゃいました」と、蒼が笑う。
「走っていたの?」
そう訊ねられ、蒼は額の汗を服の袖で慌てて拭った。
そして、ジャスミンティーのペットボトルを買い、喉を潤しながらイオの隣に座る。
イオはハンドパンを奏で続けていた。
寄せては返す波のような。
なんだか物悲しくもあるやわらかい音に、蒼は耳を傾ける。
「……前に、ここで、海に、ひとが落ちたとき」
真正面を見つめたまま、ひとりごとめいて蒼が語り始めた。
「中年の女性でした。トイプードルをカートに何匹も載せてて、そのうちの一匹が海に落ちそうになったのを助けようとして、一緒に落ちて」
イオは演奏の手を止めない。
けれどもそのタッチは、さらにやわらかなものに転じて、音はごくごくかすかになった。
「オレ、すぐに駆け寄ったんです。まだ水も冷たかったのか、女の人はパニックになって溺れてました。それに一緒に落ちた犬は、どこにも見えなくて」
空気の震える音そのもののように。
旋律が、リズミカルに続く。
「あ、ヤバいなって、そう思って。飛び込んで助けようとしたんです。靴を脱いで……そこの柵に手を掛けてよじ登って」
――でも。
「身体、動かなくなっちゃいました。息ができなくて、心臓がなんか、バクバクしておかしくなって……」
蒼が、ひとつ鋭く息を吸う。
「オレ……ある時から、どうしても水に飛び込めなくなっちゃってて、だから、それで」
そしてぐしゃり、と前髪をかきあげ、空を見上げて、
「それでオレ、実業団の水泳部、引退したんです。飛び込みができなくなって、競技にぜんぜん、出られなくなったから。それで……横浜に異動になりました」
イオが、指の動きをとめる。
旋律がやんだ。
風のざわめき。遠くにいる、誰かの声。
空を仰いでいた蒼は、うつむくと手の甲で瞼をこする。
「そしたら、そのあとすぐに……キレイに海に飛び込んでいったひとがいて」
「……蒼くん」
イオがはじめて口を開いた。
「なんか、やたらデカい黒い影みたいなのにさ、音もなくオレの横をすり抜けていって。ホント、吸い込まれるみたいに、海に飛び込んで」
蒼はただ、目の前の海を見つめたまま、ひとり語り続ける。
「不思議な泳ぎだった……イオさん、あれ、なんなんですか? 立ち泳ぎみたいな……それにあんなに溺れて暴れてるひとを前にして、なんか魔法みたいに、さくっと、あの女の人のコト、抱え上げちゃって。悠々と泳いでさ」
いつの間にか、あのちっさいトイプードルも見つけて助けてるし――
「蒼くんは、あのとき、僕の上着を拾って、持っててくれたんだよね」
イオがそっと語り掛ける。
必死にまっすぐに、海を見つめたままの蒼の――その横顔を見つめて微笑みながら。
やがて、蒼がゆっくりとイオを振り向く。
「あれが……オレとイオさんとの、最初の出会いでしたよね」
「そうだったね、いい出会いだった」
蒼の瞳を見つめかえして、イオが微笑む。
「いい、出会い……?」
「ちがったかい?」
「ちがわない、です……」
イオがまた、膝上の楽器を奏で始める。
風が、ふたりの間をやさしく吹き抜けていった。




